第38話
船が完成した。
残念ながら、これが実際に浮かぶのかを確かめることはできない。まだここは山の上だ。
ただし、地上絵は沈んだ。いや、沈んだというのは語弊があるかもしれない。水が溜まった。
乾燥した大地のためこれまではわからなかったのだが、地上絵の描かれた平野は非常に緩やかなお椀形になっていたのだ。
水をたたえた平野は、湖のようでもあり、浅瀬の海のようでもあった。暗く揺れる水面から、うっすらとのぞく絵は、しばし役目を休みほっとしているようでもあった。
ただ問題は、これで飛行機の使用が困難になったことだ。モリタートには、他に滑走路に適した平地はない。僕たちは大きく行動範囲を狭められたことになる。
表向きには、僕たちの関係は変わっていない。ガイストはグリュンドゥを演じているし、リードは姿を見せない。ヘトは皆の先頭に立ってよく働いているし、フューレンやヴェルタも歩調を合わせて来るべき日の準備をしている。
それでも、決定的なことは、やはり変わったのだ。僕らは、族長たちを疑う権利を手に入れた。疑問に思ったことをとどめておく必要はない。今から何が起こるのか、知ろうとしてもいいのだ。
天蓋が落ちれば、大地はかなりの部分が海に沈む。そして、太陽光は強さを増す。そのような世界は、誰にとって有利なのか。
あまりにも太陽が出ないので、体中がかびてくるような錯覚を感じる。時折頭痛がするし、気分も陰鬱になってくる。人々が生き残るには、あまりにも多くの障害がありそうだ。
ノックの音。これは人間の「入室していいか、イェ」という合図だ。
「どうぞ」
入ってきたのは、フューレンだった。
「やまないな」
天気の話をするのは、挨拶の代わりだそうだ。とはいえ、こうも毎日雨ではバリエーションも少なくなる。
「そうですね」
「一つ、気になることがある」
フューレンは、机の上に一枚の紙を広げた。そこには、鳥や矢印などの絵が描き込まれている。
「地上絵……ですか」
おそらく、飛行時に必要だったのだろう。多くの絵が詳細に描かれていた。
「そうだ。今まで、考えたこともなかった。けれど……おかしいんだ」
「何が」
「これは、完成していない」
「完成?」
「文字だ」
「文字……」
しげしげと紙を見る。とても文字には見えないのだが……
「私も、文字そのものを知らないから気付かなかった。でも、わかったんだ」
「僕にはわかりませんが……」
「ヴィーレ、君なら見えるんじゃないか。水に沈んだ、地上絵を」
まっすぐに、見つめられる。美しい瞳だ。僕は、隠すべきかを悩まなかった。
「見ましょう」
もともとこの地は乾燥している。雨が続いたことで、崩れ落ちたところも多い。地上絵も、変わってしまっていることだろう。
僕の体は、フューレンに向いている。心は、上空にある。もちろん自我を飛ばすことはできないが、マザータウンに照会しつつ、視覚データだけを移動させることはできる。
太陽の見えない中では、水の中の地上絵は簡単には見ることができない。薄ぼんやりとゆらめく、意味のわからない模様。もはや絵自体が流されてしまったのではないかと思ったが、基本となる線……直線はほとんど残っていた。まるで、便箋のように横線が並んでいる。そして、その中に曲線的な何かが揺らめいて見える。洗い流されて、浮かび出てきたものがあるようだ。
レンズを変える。太陽光が当たった場合の風景を眺める。それこそが、目的かもしれないからだ。もしフューレンの勘が正しいならば、文字は必要な時に見えるようになっていなければならない。いつでも見えていれば、誰かが見てしまうかもしれないのだ。
便せんに沿うように浮かび上がる、冷たい石の反射。様々な波長で試し、徐々にその輪郭が明らかになってくる。砂の下から現れた石は、人為的に磨かれているようだ。本当に目をこらさないとわからないような細かい線まで描かれている。小さなもの、大きなものも含めて様々な文字らしきものが、見えてくる。
「さすがです」
「あったのか」
「ええ。絵の下には、文字がいくつもあります」
「読めるか」
「いいえ。僕が知っているどの文字とも、違う。この星のものではないでしょう」
それは、正確には言い表しようのない感覚だった。僕が打ち込んだデータなのに、僕の理解できない文字が生まれている。何かに体内を侵食されているかのような気持ち悪さだ。
「やっぱり……」
「だとしたら……だとしたら?」
文字は、情報を伝える手段だ。そしてこの場合、情報は空に向かって放たれている。読み手は、地上にいない誰かが想定されているはずだ。
地上絵は、いつ描かれたのだろうか。滑走路としての役割を考えれば、人間誕生以後のはずだ。しかしこの地域の人間は文字すら知らなかった。少なくとも地上絵の下側は、この地域の人間ではない誰かが描いたのだ。おそらく、人間でない者が。
隠しておいて、今になって見せる必要性。アイネが望んで、ガイストやリードが望まないもの。そして望まないものの、受け入れようとしていること。
僕の予想が当たっているとすれば、それはとんでもないことだ。文字さえ読めれば確信できるのだろうが……
「ヴィーレ、私は怖くなってきた。何を信じたらいいのか……」
目の前で、女性が肩を震わせていた。人間の男は優しく抱きしめて、「大丈夫だよ」と言うものだとマザータウンは教えてくれる。その通りにした。
「もしかしたら、全てが……」
そうかもしれない、が。全て、は僕なのだ。胸が痛む。この世界は、僕の目的だ。僕の我儘の中で、僕に制御できない苦しみが生まれている。
「仕組まれていたとしても、何もできないわけではないです」
まぶたの裏に、ミットライトの姿が浮かんでいた。そう、たとえ抗えないような大きな波が来ても、ただそれを待っている必要はない。彼に教わったことを、実践に移す時が来たのだ。
「何ができる、イェ?」
「それは……」
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