春、戦争があった

菊地真子

序幕

 よく晴れた日の暮れ、寂れた都市クレーゼンの外れにある名もない通りの道端に、痩せこけて薄汚れた子供が座り込んでいた。

 じき寒冷期へと差し掛かろうという季節のなか、その子供は外套もなく、殆ど骨と皮だけになった足をなす術もなく風に晒し、すっかり黒ずんでいるぼろ布同然の服にそれをなんとか包もうと無意味な努力を続けている。何かに打ちつければ折れるほどの細さしかない身体は小刻みに震え、そこに座り込んでいてもなお倒れそうで、ひどく安定しない様子である。吹きつける風をどう凌ぐかの試行錯誤をしばらくの間繰り返してから、ようやくその試みが大きな成果を上げ得ないということを理解したらしく、体勢を変えずに首と目だけを動かしてあたりを見、道を通りがかる人々の顔を見上げている。

 道行く人々にそれが見えているのかどうか、あるいは見えていたとしてそれを認めているかどうか、それは彼らにとってすら定かなことではない。彼らは自身の生活のため、また他に何か恐れるもののため、果てはそうした光景に見慣れてしまったため、それぞれの理由はあるにせよ結果としては皆一様に、自分を地べたのほうから見つめる視線と自身の視線とを決して合わせないでいる。痛む心がない者もあれば、そうではない者もいる。ただ誰一人として、その子供のために自身の人生の一部を供与するほどの余裕はなく、それがここソロキドスという国の現在において、取り立てて珍しい光景だとも言うことはできないのである。内戦終結から約二ヶ月、未だ混乱の渦中にあるこの国で、戦争孤児のいる街角など最早どこへ行こうと目に入る光景と成り果てており、目を逸らす大勢の人々もまた、そこに含まれる一つの要素に過ぎなかった。

 しかし、このときの出来事は、そうして普通になっていた景色とはわずかに事情が異なっていた。道の片隅に座り込んだ子供の近くを一人の軍服姿が通りかかろうとし、子供が他の通行人にするように視線を向けたとき、その軍人と視線がぶつかった。軍服姿は子供の前で足を止めており、その目が真っ直ぐに子供の顔をとらえて、何人もの通行者が見ないようにしていた生命を直視しているのである。子供と軍人は、しばらく互いの目から片時も視線を外すことなく静止し、何か言葉を交わすでもなくただ顔を向けあって黙り込んでいた。

 その時間が結局どう結末したかというと、軍人のほうが止めていた足を進ませ、重ねていた視線を外してそれを終わらせたのであった。子供は尚も去っていく軍人のほうを見つめていたが、にぶく歩きだした後には最早再びその足が止まることもなく、また振り返ることもなかった。しかし、厚手の軍外套に身を包んだ背姿がクレーゼンの寂れた景色のなかに消えていったのと殆ど同時に、もう一人の人物が子供の前へと駆け寄ってきた。

 近寄ってきた人を見上げると、この人物は子供の前に膝をついてしゃがみこみ、目線の高さを合わせるためであろうか姿勢を低くしていた。暗く厳しい面持ちで子供の顔と向かい合ってから、間もなく自分の外套を脱いでその子を包み、あたりを見回して人の目から隠れるように背中を丸めながら、軍人が歩いて行ったのとは反対の方向へ進んでいった。子供は何が起きたかを理解しているのかいないのか、しかしその子にとっては備わっている警戒心を働かせるに値するような事態ではなかったらしく、呆然と自身を抱え上げているこの陰鬱で疲労した中年の顔を見上げるばかりであった。

 つまり、あとから考えるのならば、彼らの運命を決定的に分けたというべきなのは、なんともみすぼらしい地方都市にすぎないクレーゼンの道端で起きた、この些細な出来事だったのである。十二月三日の暮れ、灰色の街を覆う空はその季節らしく澄み渡っており、まったく何かを運命的と呼べるまでに変え得る出来事というのが、ほかの日常とはなじみのない日にこそ起こるのだという幻想を打ち砕くのにじゅうぶんなほど、それは月並みな一日であった。

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