十五の冬、愛を問う



「あなたは私を愛してくれますか?」


 それが君との最後の言葉だった。

 長い髪の君は涙を止めようとはせず、その心に委ねて僕の返事を待っていた。

 十五の冬、僕は君と二度と会えなくなる。だから、僕の返答は決まっていた。





 愛とは何か。母に抱きしめてもらうこと。父に褒められること。友達に友達と言ってもらえること。無意識に笑みを浮かべてしまうもの。

 母は言った。人を愛せる人になりなさい、と。

 父は言った。人に愛される人になりなさい、と。

 愛を説いてくれた二人がいなくなって二年。小学六年生の僕には今だ『愛』がなんなのかわからない。



「愛ってなんですか?」


 担任の先生は牛乳をストローで吸いながら言った。


「優しい心とかどうだ」

「どうだと言われても……聞いてるの僕なんだけど」

「違う違う。俺の回答はおまえにとって愛と思うかどうかって聞いてるんだ」

「それだと、愛があったりなかったりします」

「なら、愛とは優しさに付属する感情だな」


 なら、優しい人間は愛をバラまいていることになるのでは。僕は牛乳を先生の机に置いて背中を向けた。



「愛ってなんですか?」

「愛とはセックスのことさ」

「セックスってなんですか?」

「男と女の大人な関係さ」


 近所の兄貴分的なヤンキーは僕の頭に缶コーヒーを乗せる。


「その味をうまく感じればオマエも大人に一歩近づけるぜ」


 じゃあな、と兄貴分はバイクに乗って去って行った。

 ブラックコーヒーは苦かった。



「愛ってなんですか?」

「好きな人に大好きだーって叫ぶこと。転校する時とか、死に逝く間際だとかがおすすめだよ」


 小説家のお姉さんは浪漫だよねーと一人勝手に頷く。


「少年よ。愛を知りたければまずは好きを知りたまえ。愛を知るにはそれからだ」

「お姉さんは知ってるわけ? 好きってのも」

「もちろんさ。だって、私は小説家だからね」


 僕も小説家になれば好きと愛がわかるのだろうか。昼間から酒を飲む人のことは信じられないとも思った。



「愛ってなんですか?」

「愛? うーんねー。愛は愛なんじゃないの?」


 二軒左の家の高校生のお姉ちゃんは首を傾げた。


「ユリ姉は彼氏いるじゃん。あの人のこと好きなんでしょ」

「そりゃねー……好きだから彼氏なわけだし」

「それってどんな感じなの?」

「どんなって……うーん、とーあー」


 腕を組んで難しい顔をしていたユリ姉は気恥ずかしそうに「幸せでいっぱいって感じ」と言った。


「なんていうかね。すごく満たされるの。それでその人のことばっかり考えちゃう。で、その人を見つけたらすごく嬉しくなる。私はそんな感じ」


 愛を知るには好きを知らないといけない。なら、僕もそんな感覚を誰かに感じることができれば愛が知れるのだろうか。



 中学二年、雪が降りだした季節。寂し気な公園で僕はその人を見つけた。

 静謐の中、キーイと音を立てるブランコから裸足をぶらぶらさせる髪の長い女の子。タイツが隣の席に脱ぎ置かれており、その口元はマフラーで隠れている。そんな女の子は僕を見てこっちこっちと手で招く。ブランコから降りた女の子は僕に笑いかけてこう言った。


「あなたは私を愛してくれますか?」


 唐突な言葉。けれど、僕は無意識にこう尋ねていた。


「愛したら、愛がわかると思う?」


 女の子はマフラーを下げて白い息を漏らす小さな唇で「はい」と。


「愛の知らない人。私を是非、愛してください」


 僕らは期間限定の恋人になった。




 真冬まふゆと名乗った君と僕は週末、都心へ出かけた。適当に大きなショッピングモールに入り適当に歩く。


「それで、愛するって何をすればいいの?」

「さあ。自分で考えてください」

「愛してほしいのに? 要求とかないわけ」

「はい。私はただ愛してほしいだけです」


 にこりと笑みを浮かべた君は上等な服の値札を見て「安い」と驚いていた。




 僕と同じ中学二年生の女の子。好きなものは雪合戦と野球観戦、野良猫を探すこと。嫌いなことは叱られること。手を離されること。愛してくれないこと。

 僕らは雪合戦をした。あの寂しい公園でほんのり積もった雪を必死にかき集めて丸める。


「えいや!」


 アニメで見るよりずっと硬くて痛い。僕も「ほら」と投げる。当たった君は「冷たくて痛いです」と文句たらたら。すぐにやめてコーンポタージュを自販機で買い二人並んで飲む。


「いくらでした?」

「いいよこれくらい」

「ふふ、なんだか今のは愛されてる気分です」

「僕は金魚じゃないんだけど」

「知ってます。あなたは私を愛してくれる人ですから」


 不敵でいて年相応な笑み。君は僕の真似をしてコーンを必死に取り出した。そして頬を膨らませた。



 僕の家で冷房をガンガンにかけアイスを食べながら甲子園の観戦をした。ホームランバーのアタリがでて逆転のホームランより喜び合った。交換してもらったアイスを君と交互に食べながら夕陽を指差す。


「私の間接キスはどんな味ですか?」

「甘い。バニラ味」

「ですね。私もバニラ味です。今キスしたらどんな味だと思いますか?」

「……バニラ味だろ」

「確認してみます」


 僕らは電柱の影に隠れてそっと唇を重ね合わせた。湿った温もりを凌駕する柔らかさに驚いて離してしまった。ほんのり夕陽で頬を染めた君は訊ねる。


「どうでした?」

「…………。バニラ味だし」

「ですね。すごく大人なバニラ味でしたね」


 僕らはその日、手を繋いで家に帰った。



 学校の違う僕らが会えるのは週末と放課後だけ。

 けれどこの日、中二の冬から続く約束の日に君はやって来なかった。

 電話をかける。メッセージの既読もつかない。約束の時間より刻一刻と過ぎていく。途轍もない不安と焦燥が僕の身体を乗っ取って来た。それは感じたこともないほどの激しい動悸となり、秋の嵐が駆けだす僕を押し返す。どうしてもじっとはしていられなく、僕は君の家まで走った。すると、君は駆け足で曲がり角から姿を見せ、僕を見ては驚いた顔をした。


「どうしたんですか? まさか私を探しに来てくれたんですか?」


 君の前で膝に両手をついて情けなく息を整える僕が頷くと、君は想定していなかったのか「なんで?」と素朴な疑問を返してきた。


「はぁはぁ……はは。なんでだろうな」


 本当になんでだろうか。ただ——


「無事でよかったよ」


 それだけが胸一杯に潤していた。君は唖然として「なんですかそれ」と小さく笑い。


「とても愛されてる感じで大好きです」


 僕は思った。嗚呼、これが愛なのかもしれないと。

 そして同時に思ったのだ。


「遅刻してすみません。さあデートをしましょう」


 この人のことを好きになりそうだと。



 君のことを考えることが増えた。

 例えば授業中。君の学校生活はどんな感じなのだろうかと。

 例えば家でのこと。母と父と僕の写った写真を相手に一人ご飯をつつく。君と食べるご飯はどんな味がするのだろうと。


「気持ち悪すぎる……」


 けれど、嫌な気分じゃない。とてもそわそわする心地の良い気分があった。



 冬の始まり。来る高校受験を控えた中学生の終わり。


「もうすぐ終わりですね」

「…………そうだね」


 君と僕のこの奇妙な関係の結末を意味していた。


「私は楽しかったです。あなたといる時間、確かな幸せを感じました。私を想ってくれているのだと、それはきっと愛なのでしょう。私はあなたから確かに愛を感じました」


 まるで終わりましょうと言うかのように君は感謝を告げる。


「私はとても満たされました。愛されるというものがこんなに素晴らしいものだと実感できたのですから、これ以上ない幸せです」


 まるでもう愛されることはないとでも言うように。


「私の結婚は既に決まっています。そういう家なのです」


 釘を刺された。胸が拉げる。喉が渇き心が凍る。


「だからここでさようならをしましょう」


 君の眼は憂いていた。僕を哀れんでいた。同時に寂しそうだと、僕は勝手に感じた。

 何も答えられなかった僕は一日だけ猶予をもらった。



「あなたは私を愛してくれますか?」


 君と出逢った冬の公園。降る雪の白さに君の相貌が映る。君の眼が僕に問う。君の笑みに僕が僕を問う。


「あなたは私を愛してくれますか?」


 それが君との最後の言葉だ。長い髪の君は涙を止めようとはせず、その心に委ねて僕の返事を待っていた。

 十五の冬、僕は君と二度と会えなくなる。だから、僕の返答は決まっていた。


「結婚しよう」

「え……?」

「真冬、僕と結婚してくれ」

「何をいって……」

「これが僕からの君への愛だ」


 それが答えだった。

 愛とはなにか。好きとはなにか。君への想いはなにか。


 ――家族になること。それが僕の答えだ。


 君は笑った。笑って泣いて泣いて泣いて。


「私を愛してくださいね。ずっと」


 君は雪だるまのように笑った。

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あなたの記憶 青海夜海 @syuti

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