iの世界で残した虚数
声を枯らしてあなたの名前を呼んだ。その大っ嫌いで大好きな名前を海に向かって吠えた。だけど、答えてくれるものはない。とっくの昔に沈んでしまった夕陽も青くなりすぎてしまった海も光が淡すぎる月も返事はくれない。
当たり前だ。呼んだあなたの名前はこの世界に存在しないのだから。
並行世界——それを体験したことがあるとみんなに言うと第一声で笑われる。
とある可能性から分離したありうべからず形の世界。それを並行世界という。虚数がなんとかなんて定義や議題なんかがあったりするけど、つまりは『ⅰ』 だ。
私は『i』の世界にいったのだ。
どうしてみんなが笑うのか最初はわからなかった。だけど並行世界はファンタジーなものと知って、冗談を言っているのだと馬鹿にされたのだ。後々から知った事実に当時首を傾げて不思議そうに何度もホントだよ、とぷんすかしていた私を殴りたい。笑われるより、理由を知らなかった無知な私が嫌だった。
歌を歌う。それを楽しいとあなたは微笑んだ。木に登って日の光から避けて小さな琴を鳴らしながら吟遊詩人みたいにあなたは歌を歌う。その姿を森の妖精だと、言ったら笑われた事実に今も恥ずかしい。
歌うあなたは綺麗だった。その音色が好きだった。私と共にいてくれるあなたを好きになった。理由は特になかった。きっかけも思いつかない。だけど、好きとそんな感情だけはうまく語源化できてしまった。
それをたまに憎いと思いながらそれでも彼の歌を聞きたくて私は『i』にやってくる。『i』を抱きながら『i』に満ちながら『i』を耳にしながら『i』にやって来る。
だから、私のiはあなたに届かない。
その真実を好きと自覚したその日その時に気づいてしまったどうしようもない愚かさに、それでも賢いと悲しむ憐れさに私は私を呪う。
だから、海に向かって叫んでいた。あなたの存在しないiの世界のあなたの名前を。
私の世界は死んでいる。もう、太陽は出てこない。月は淡い。星が減って花が包んで人が消えていく。世界は自然に戻るのだ。
これが最後なのだと、私はあなたの下に逢いに行く。
この『愛』を告げる最後なのだと。
その歌を耳にして、その声音を胸にしまって、その姿を瞳に泣いて、私の涙はiの世界に残った。
それだけがお別れなんだって、わかってくれたらいいなと思いながら。
虚数の世界で歌を歌う。いつか涙の意味と名前の返事ができると願いながら。
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