水槽
ひさ
水槽
そこには確かに水槽があった。
直径が2mくらいはあるだろう円柱が、天井まで届いている。
水槽の中はぼんやりとした青い光で照らされていて、この空間の光源と言えば、それだけだった。
けれど足下がおぼつかないほど暗くはない。
何せ、そんな水槽が何列も互い違いに並んでいるのだ。
水の揺らぎと光の強弱が不規則に重なりあって、海の底にでもいるような気分になる。
中にはクラゲのような生き物が無数に漂っていた。
半透明で輪郭の柔らかそうな、全体的にまるっぽい何か。
水槽ごとに分類されているのか、ただの成長過程の違いなのか、各々に大きさも違えば形状も少しずつ違う。
実のところクラゲかどうかも分かっていない。
ただ水槽を管理するアルバイトに応募したというだけなのだ。そして採用されたのでここにいる。
前職では充分な貯金ができたが、何せ労働量が過剰すぎた。
このままでは身体どころか精神まで壊してしまうと気付いて早々に退職願いを出した。
終身雇用なんて言葉は死語にも等しくなった世の中にあって、若者の退職もさほど珍しくはなかっただろう。
ただ、転職先が決まっていない状況での退職は、少しばかり上司を心配させたらしかった。
そんな上司の困ったような表情を、意外な気分で見返したものだ。
さて。
手元の書類をもう一度確認してみる。
時間と場所は間違いないのだが、出迎えてくれるだろうと思っていた職員の姿がない。
それどころか案内係のような人を含め、ここには、誰もいない。
くらげのような生き物の入った水槽があるだけだ。
けれど部屋にはまだ奥がありそうだった。
試しに一番奥まで行ってみようか。
途中で警報が鳴ったりしたら嫌だなと思いつつも、さすがに物理的に隔てられてもいない場所でそれはないだろうと足を進める。
一応、水槽には触れない。
一歩、また一歩と奥へ進むにつれ、現実感が薄れていくのを感じる。
ここは本当に、見慣れた街の地下なのか。
こんな身近な場所に、こんな特殊な空間が広がっているなんて思いもしなかった。
煩わしい事を忘れるにはうってつけの空間に思えた。
人間関係に疲れたサラリーマンにオススメできる仕事かもしれない。
まだ、ちゃんとした仕事内容を聞いていないけれど。
音楽が聞こえる。
最初から鳴っていたのかも分からない。今気づいた。
水族館に流れていそうな、心を落ち着かせてくれるようなサウンド。
この青い空間にはぴったりだった。
肩の力が抜けていく。
そこに突如として現れた水槽以外の存在。
息を吞むのと同時に、咄嗟に踵を引いた。
少女だ。
青色に透けるような少女が、不釣り合いなほどに無機質な椅子に腰かけていた。
人形だろうか。
驚きで声も出せずにいると、少女がそっと瞳を開いた。
やはり青い。しかし生きている者の温もりを感じない青色をしていた。
じっと見つめられて、何か言うべきだろうかと口を開くが、何を言っていいのか分からず、声が出ない。
そうこうするうちに少女の唇が動いた。
「こんにちは」
はやりその外見に似合う、透明でさらさらとした声だった。
女神か天使の声を聞く事があるとするなら、きっとこんな声だろう。
「こんにちは」
返事をすると少女は立ち上がった。そしてゆっくりと近づいてくる。
「貴方が、新しくここの担当者になったタカハシさんですか?」
「……あ。はい」
少女の口調からは子供らしさというものが感じられなかった。やはり彼女はAIの類だろうか。
だとするなら、かなり精巧にできている。
現代のテクノロジーで造れるレベルの限界点、あるいはそれ以上の存在だろうと思えた。
「困惑しているようなので、説明させていただきます」
彼女は水槽に向き直ると説明を進めた。
水槽の中身のこと。用途。そして自分の事。
聞けば聞くほどに恐ろしくなった。
彼女は水槽の中のくらげらしきものとリンクする入力デバイスであり、あの無機質な椅子がコネクターだという。
そして自分に任せられた仕事は、彼女に情報を伝達する事。
あまりにも特殊で機密性の高い存在であるために、汎用性の高いネットワークには接続できない。
だから間を取り持つ存在が必要である。その仕事を任されたのが……。
「けれど心配する必要はありません」
とんでもない仕事に応募してしまった。
こんなのただの水槽の管理なんかじゃない。
動揺するこちら側の事などまるで意に介さず、少女は、ただ青くゆらめく光の中でそっと微笑むだけだ。
「タカハシさんが意図せずに情報漏洩をしてしまわないためにも、指示内容は全て暗号化されています。
タカハシさんにとっては、全く意味を成さない文字の羅列に過ぎないことと思います。
タカハシさんは、託されたその文字列を、わたしに読んで聞かせてくれれば良いだけです」
簡単でしょう? とでも言うように少女は話を終えた。
「質問しても良いですか?」
「どうぞ」
「前任者は……何故、辞めてしまったのですか?」
少女は特別難しい事でもないとばかりにあっさりと答えた。
「飽きてしまったようです。意味のない文字列を、ただ読み上げ続ける作業というのは、単調で退屈なものだと認識しています。
ですので、タカハシさんも、この業務の継続に問題を感じましたら、遠慮なく窓口までお申し出ください」
「罰金は?」
「ありません」
「その人は今……」
生きていますか?
「元気です」
言葉にしなかった質問に答えられて鳥肌が立った。
「皆さん、同じような質問を必ずされますので」
青い空間はどこまでも穏やかに二人を包んでいた。
けれど、知ってしまう前と後では、全く印象が違う。
「一日。考える時間をもらっても、良いですか?」
少女からは何の感情も読み取れない。
特別な事など何もないとでも言うように、穏やかに答えるだけだった。
どうぞ。ではまた明日と。
水族館に流れていそうな、心を落ち着かせてくれるような音楽に耳を傾けている余裕は、もうなくなっていた。
END
水槽 ひさ @higashio0117
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