第6話 不健全な先生

 小説は、学校では教えてくれないことを教えてくれる先生でした。


 高校のころに特に影響を受けたのは、山田詠美さんの「ぼくは勉強はできない」です。勉強はできないけど女にはモテる男子高校生が主人公で、彼の「健全ではない」モラルが衝撃的でした。以下、抜粋です。


 勉強ができる・できないことについて、主人公が思ったこと。

「どんなに成績が良くて、立派なことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がするのだ。変な顔をしたりっぱな人物に、でも、きみは女にもてないじゃないか、と呟くのは痛快なことに違いない」


 年上のお姉さんと、不純異性交遊(←すごい死語)をしていることに関しての見解。

「好きな女と寝るのは本当に楽しい。けれど、世の中には、この喜びに目を向けない人々がたくさんいるのだ。なんと不幸なことだろう。このことに価値を与えない人々をぼくは憐れむ」


 主人公がおじいちゃんに「人殺しは悪いことか」を尋ねたときの回答。

「さあねえ、個人の事情によるんじゃないのか? <中略> そりゃ、なんの関係もない人を通りがかりに殺したら大迷惑だが、家族のように深いつながりを持っているもの同士のことには何も言えんね」


 根性論が主流だった当時に、主人公の先生が言った台詞。

「苦しいのを我慢すれば成長するって考えるのは、先生の趣味に合わんからな」


 同じ先生の以下の台詞も印象的でした。

「世の中の仕組は、心身共に健康な人間にとても都合良く出来てる。健康な人間ばかりだと、社会は滑らかに動いて行くだろう。便利なことだ。でも、決してそうならないんだな。世の中には生活するためだけになら、必要ないものが沢山あるだろう。いわゆる芸術というジャンルもそのひとつだな。無駄なことだよ。でも、その無駄がなかったらどれ程つまらないことだろう。そしてね、その無駄は、なんと不健全な精神から生まれることが多いのである」


 四半世紀以上前の作品ですが、今でも新鮮だなと思います。学校で教えるような世間一般のモラルに、一石どころかボコボコに石を投げつけているようなこの作品が、学校の課題図書だったことに、日本教育の懐の深さを感じます。


 私は、親や教師の言いつけをきちんと守り、よく勉強する成績の良い子どもでした。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、大人になった今でも、規則を守り、よく働く真面目な社会人で、そこそこまともな母と妻をやっております。


「ぼくは勉強ができない」のような小説に出会わなかったら、今以上につまらない、狭量で危険な人間になっていたのではないかなと思います。


「正しいは怪しい」を教えてくれたのは小説や漫画、映画など、数々の物語です。正義の持つ残虐性や、善行という名の暴力、狡猾な解決策や、人を救う悪行などについて、複雑なことは複雑なまま教えてくれました。


 物語の登場人物は、私が実生活で絶対やらない「悪行」を次々にやります。愛する人を殺したり、銀行を強盗したり、親友の恋人を寝とったりします。そのキャラクターたちの、なんと魅力的なことか。


 そんな魅力的なキャラクターたちが、優等生を冷たい目で観察していることがあります。その優等生って私だ、と冷水を浴びせられた気持ちになります。つまり、自分の偏見を発見したり、常識に疑問を持つ瞬間ですね。そんなふうに「自分が正しいって思うなよ」と冷やっと言ってくるような作品が好きです。


 例えば、朝井リョウさんの「正欲」はマイノリティの話なんですけど、「私はどんなマイノリティも差別しないぜ」と思っていた私に、南極の氷水くらい冷たい冷や水を浴びせてくれました。優れた作家というのは、ここまで深く掘り下げることができるのか、と脱帽でした。


 私にとって、善悪の尺度を壊してくれるのは「おもしろい」なんですよね。殺人も、窃盗も、裏切りも、善悪のレッテルを貼る前に「おもしろい」が入ることで、物事が一気に多面的になりますし、いろんな立場の人に共感できるようになります。


 つまらない人間は、悪人よりもよっぽどタチが悪いのではないかと、自戒を込めて思うことがあります。自分の正しさに全く疑問を持たないこと。自分を正当化するために悪者を作り上げること。真実や正解が一つであると信じて疑わないこと。私のような人間の、そうなりがちな習性こそ、悲劇や不幸が生まれる一番の発端なのではないかと思ったりします。


 実生活では真面目で平凡な人間ですが、小説の中では、常識を揺らがすような、おもしろいことをしたいなぁと思います。「おもしろい」には、善悪や損得の尺度に囚われてしまった状態を、痛快に打開する力があると思うのですよね。


 誰かの「不健全な先生」となりうるような、斬新でおもしろい小説を、いつか書いてみたいですねぇ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る