【未完成】思人は静かに去く

淡風

一 絶望

 メランコリヤを患ったらしい、幸福の樹が実を結ばぬままメランコリヤを患ったらしい! 絶望は――これはわたくしにとっても理解しがたいことなのだが、それの名前は実際に絶望といった、その者が自ら絶望と名乗ったのだから真偽はともかく、ここでは「絶望」という呼称を用いようとおもう――そのように怒鳴って、バー・カウンターの上の灰皿に火のついていない煙草を擦り付けた。絶望はたいていバーに来ると、酒を口にせず只管にのむ気のない煙草をそのようにして時間を潰す。絶望がどこからその煙草を調達し、どのような理由で煙草を浪費するのか知らない。訊ねる気もない。そのようにしている絶望の〈世界〉に私は立ち入ることすら許されておらず、私はただ一本の煙草が綻びてぼろぼろと崩れていく様を黙って眺めることしかしてはならない。

 絶望がメランコリヤを患ったらしい――それはまるで隣村の葬式のように冷たく無関係に聞えた。それはたしかに絶望の〈世界〉が凍結していたということでもある。絶望の〈世界〉はただメランコリヤによって一切の変化を拒んでいた。しかし絶望の〈世界〉は常に外部からの変化――例えば小規模な時代の変化――に晒されており、あるいは〈世界〉は変革せねば頽廃する。

 そもそも絶望はずいぶん前からメランコリヤを患っていた。抗鬱薬を何錠も重ね重ね口に運ぶように、絶望は自らのメランコリヤを随分と厚く重ねて〈世界〉を覆わせていた。今回のメランコリヤもその外周に過ぎないのだ。

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