怖可愛怪談-短編集-

コオリノ

第1話 通りゃんせ

淡い光を放つ三日月が、雲間から顔を出している。

心地よい宵の風が、風花の長い黒髪と、セーラー服の裾をふわりとなびかせた。


篝 風花(かがり ふうか)は朱色の鳥居の前に一人立ち尽くすしていた。


その表情は険しく、切れ長の瞳は、まるで何かを睨みつけているようにも見える。


「何やってんだ私……」


風花はそう言って持っていたペットボトルを強く握った。

ベコベコとプラスチックのへこむ音が、ここ、静まり返った伏見稲荷神社の入口に、虚しく響く。


彼女が眉間に皺を寄せているのには、それなりの訳があった。


それは遡ること八時間程前の事、風花は高校二年の修学旅行で、京都にある伏見稲荷神社を訪れていた。


修学旅行二日目、友人との思い出作りに勤しんでいる最中に事件は起きたのだ。


「えっ……月が登る晩に……ここを登りたい?」


「はい……」


トイレに行った友人を鳥居入口で待っていた風花に、突然声を掛けてきた一人の少年。

歳は十歳位、綺麗な顔立ちをしており、白い道着の様なものを着ている。


多くの参拝客が通り過ぎる中、少年は申し訳なさそうに風花に頼み事をすると、そのまま押し黙り、聞き返す彼女にようやく短く返事を返した。


「ええと……誰と?」


困惑した風花が聞きくと、


「お姉さんとです……僕一人じゃ無理なんです……どうかお願いします!」


少年は必死にそう訴え、その場で深深と頭を下げた。


「い、いやいやいやいや、何それ?何で私、」


「ごめん風花、お待たせえ」


「あ、明美!ちょっとこの子がさ、」


「この子?」


風花の友人である明美はキョトンとした顔で辺りを見渡し答えた。


先程の少年の姿はどこにもない。


「う、嘘……」


唖然とする風花を他所に、明美が神妙な顔で口を開く。


「あんたまた見たんじゃないの……お化け!」


「やめてってそう言うの……はあぁ」


両手を曲げ風花の前でおどろおどろしい顔をする明美に、風花は肩を落として深いため息を着く。


「あんた霊感女子高生だもんね、昔から変なのよく見てたりしてたじゃん」


「やめてってば……また痛い子なんて噂されたらどうすんのよ……私は普通に平穏な女子高生活送りたいの、そう言うのはNG!分かった?」


風花はそう言って明美の額を人差し指で軽く跳ねて見せた。


「痛っ!もう……はいはい悪かったってば、ほら行こう、皆上で待ってるよ」


言うや否や、明美は風花の手を取り石畳の階段に足を踏み入れる。


「誰のせいよ……」


風花は抗議の目を向けながら、引かれた手に従い、階段を登り始めた。


以上が、今朝、篝 風花の身の回りで起きた出来事だ。

伏見稲荷神社での日程を終え、ホテルに戻った風花だったが、夕食を済ませ、気が付けばホテルを抜け出し、伏見稲荷神社の前に来ている。


普通なら無視して終わりそうな話だが、それには彼女なりの訳があった。

自分の事を呪わしくも思いつつ、一度気になると歯止めが効かない性分なのは昔から、半ば諦めつつここに来たものの、やはり自分はこんな所で何をやっているのだと、風花は自己嫌悪に陥っていた。


「だいたい月が登る時間って何時よ……時間ぐらい言えっての……」


ぶつくさと風花が愚痴っていると、


「来て……くれたんですね」


突如、物陰から昼間見たあの不思議な少年が姿を現した。

あの時と同じ白い道着姿。

伏せ目がちに風花の事を見ている。


「あ……やっぱり来たんだ……」


もしかしたら少年の戯言であって欲しいという僅かな願いもあったのだが、風花の願いも虚しく、ここに二人の約束は果たされてしまった。


あんな会話だけでここまで来てしまう自分もどうなんだと、風花自身、悩むところもあるのだが。


「あのね……とりあえずこっちは聞きたい事山ほどあるんだけど……だいたい君いくつ?ご両親とか心配してないの?」


不貞腐れつつ風花が尋ねると、少年は頷きながら口を開いた。


「は、はい。親は大丈夫です……今日ここに来たのも、親に言われて来たので……」


「親に言われて……?」


「はい、ぼ、僕、今日ここを登って神様になるんです……」


「かみさま?」


「はい!でも……一人じゃ心細くて……その」


言い終わり少年は再び口ごもってしまった。


「変な宗教か何かじゃ……」


「しゅうきょう?」


風花の言葉に少年が聞き返す。


「あ、いや……て言うか何で私なわけ?それに昼間じゃなくて夜じゃないといけないとかさ、とにかく訳わかんない事だらけで、あっ……」


そこまで言いかけて風花は口を閉じた。

少年を見ると、目に涙をため始めている。

どうやら泣かせてしまったようだ。


「ああもう……分かったわよ行けばいいんでしょ行けば!そんなに時間も掛からないと思うし……と、ともかく、ここ一緒に登ったらお家に帰る!それでいい?」


「いいんですか……!?」


風花の一言に少年は目を輝かせた。


「はぁ……」


今日だけで何度目のため息だろうか。

普通なら有り得ない状況。

身も知らぬ男の子に夜分遅く、千本鳥居を登りたいと言われ、その理由が神様になる為だと少年は言うのだ。

風花自身、なぜここに来てしまったのか未だに整理ができていない。

ただ、心に引っかかったモヤを少しでも払い、残りの修学旅行を普通の高校生らしく過ごしたい、それだけなのだ。


「行こっか……て言うかセーラー服脱いでくれば良かった……帰ったら部屋のシャワー使わせてもらお……」


「お姉さん大丈夫ですか?」


「うん……君のせいで露天風呂入り損なったってだけ」


「ごご、ごめんなさい!」


顔をクシャクシャにし今にも泣き出しそうな少年。


「はあぁ……男の子がそんな簡単に泣いちゃダメ、良く分かんないけど神様になるんでしょ?ならなおの事、いい?」


そう言って風花は少年に微笑む。


「は、はい!」


少年は涙をぐっとこらえ、風花の手を取った。


「ちょっ……まあいいか……行こ」


風花の言葉に少年は大きく頷き、二人は宵闇の中、千本鳥居の入口に足を踏み入れた。


桜門をくぐり、本殿の奥へと進んで行く。

昼間風花達が見た、屋台や参拝客などの姿はなく。

街灯の明かりもほぼないに等しい為、辺りはしんとした静寂と、闇夜だけがどこまでも広がっている。


幸いにして今宵の月は明るく、月明かりだけを頼りに、二人はようやく千本鳥居に踏み入った。


暗がりだと言うのに、僅かな月明かりに照らされた鳥居は、鮮やかな朱色を妖しく彩っている。

昼間来た印象とはだいぶ違っていた為、風花は不安げな顔で辺りを見渡しながら、石畳の階段を上がっていく。


「や、やっぱり夜来ると不気味ね……き、君は怖くないの?」


すると、風花の質問とは裏腹に、少年はにこにことしながら風花の顔を見て口を開いた。


「怖くないですよ、だってお姉さんもいるし、それにこの朱色の鳥居は、とても縁起のいいものなんです」


「そ、そう?何か赤い鳥居って、The、お稲荷さんって感じするしさ……」


「朱色とはあか、あけとも読みます。明け、赤、茜などは、明るい希望の語感の意味も込められているんです。それらは稲荷大明神様の御霊の信仰の象徴にもなっているんです」


やけに饒舌に話す少年を見て、思わず風花は目を白黒させた。


「す、凄いね君……やっぱりご両親って熱心な新興宗教とかやってる人なんじゃ、」


風花がそこまで言いかけた時だった。


「オオッ……」


獣にも似た唸り声、二人は咄嗟に辺りを見渡す。


「お、お姉さん……あれ?」


少年の声が僅かに上擦っているのが分かる。

ゆっくりと、少年は震える指を一本の鳥居に向けた。


「きゃあっ!」


風花は叫び声を上げ思わず階段から足を踏み外しそうになったが、寸前のとこで踏みとどまった。


二人が凝視している先、何本も連なる鳥居と鳥居の間に、不気味なお面を被った人影が、柱から顔だけを覗かせこちらを見つめていた。


女の顔を模した古めかしいお面。

はみ出た髪は汚くざんばらで、僅かに見える皮膚も濁ったような肌色をしている。


一瞬、据えた獣臭が辺りに漂う。


「な、何あれ……?」


女の面は微動だにせず、ただじっと二人を見つめている。

どう見ても異常者だ。

こんな時間にお面を被った変質者など、普通に考えても有り得ない。

しかし、今冷静にここで分析しても意味が無い事。

風花はとりあえずこの場を何とか回避しようと必死に考えを巡らせた。


「い、行こ……」


なるべく相手を刺激しないよう、視界から外さぬように、風花は少年の手を取り直し、回り込むようにし先へ進もうとする。


「美味そうな子だねえ……」


面から不気味な声が盛れた。


思わず二人とも肩を震わせるが、それでも先へと進もうとする。


だが、


「ねぇねぇ……」


「きゃあっ!」


風花は突然背後から聴こえた声に驚き振り返った。

さっきまで視界に捉えていたはずの女の面が、今度は背後の鳥居の後ろから顔を覗かせていたのだ。


「ななな、何で!?」


「ひひひ……」


風花の声に、女の面は薄気味悪い笑みを零す。


「ここ……通りたいの……?」


お面の言葉に二人は反射的に頷いた。

すると女のお面はくくく、と笑い言った。


「いいさいいさ、通りゃんせ通りゃんせ、ただし……一口味見させておくれよおおおぉ!」


「えっ?」


何が起きたのか、風花は理解できなかった。

一瞬だけ見えたのは、いびつに歪んだ女の面に、大きな獣の様な口が現れた事。


そして次の瞬間、風花の腕に激痛が走った。


「きゃあぁっ!!」


「お姉さん!」


激しい痛みに左腕を抑え、その場にしゃがみこむ風花を、少年が慌てて支えた。


「ああっ……ぐぅっ……!」


腕を食いちぎられた様な痛み、苦痛に歪む視界で自分の腕を確かめる風花だったが、腕には傷跡も血の跡もない。

ただ、痛みだけがズキズキと、後から後から襲ってくる。


風花は何とか右手でポケットからスマホを取り出し画面をみるが、電波どころか電源すら入っていない。

必死に操作してもスマホは沈黙したままだった。


「はは……だ、だよね……こんなの……お、おかしすぎる……もんね……うぐっ」


風花も薄々気付いてはいた。

自分が元々昔からこういった不思議な体験に巻き込まれやすい体質であること、それが時に危険を伴う事も。


だからこの少年も何かあるのではないかと。

そして、最早引き返せない場所に自分がいるという事も、ようやくこれで理解ができた。


「ああくそっ!ムカつく……い、行こう……」


「で、でも……?」


苦痛に顔をしかめる風花をみて、少年は弱々しく聞き返す。


「わ、私ね……昔から変な体験よくするのよ……他の人には見えてないものが見えたり、君みたいな変わった子に声……か、掛けられたりとかね」


痛みを堪え、風花は話しながら立ち上がると、右手で少年の手を掴み、また階段を登り始めた。


「ほっとけばいい、無視すればいいんだ……でもさ、何かダメなんだよね私、ほっとけない……高校生になって普通の女子高生になるんだって、当たり前の日常を過ごすんだって……でも結局これだもん……はは、笑っちゃう」


「何で……何で僕なんかにそこまでして……?」


ふと、少年は風花を見上げながら言った。


「だってさ、ここで無視したら、私の事気持ち悪がって、私を無視して来たヤツらと同じじゃん」


そう言って風花は少年に精一杯の笑顔を向けた。


痛みに耐えつつ、階段を登っていく風花。

それを心配そうな顔で見ながら後を着いていく少年。

しばらく歩いた後、少年がぽ不意に口を開いた。


「お姉……さん……あ、ありがとうご、ございます」


そう言って少年は関を切ったかのように泣き出す。


「ってこらこら泣くなって、神様になる子が一々泣いてたらこれから大、」


その時だった。

風花が慌てて少年を泣き止ませようと声を掛けたのと同時に、


「泣いてるねえ……可哀想、可哀想……」


粘り着くような老人のしわがれ声が突如響いたのだ。


びくりとし、二人が同時に声の方を振り向くと、鳥居の屋根にぶら下がる、猿のお面を被った異様な人の姿がそこにあった。


いや、お面だけではない、その足も手足も、猿のように毛深く妙に細長い。

辛うじてボロい布切れを身にまとってはいるが、一目見てそれが人間ではない何かだと分かる。


「さ、さっきの奴の……」


風花の声に、少年がゴクリと喉を鳴らす。


「死ねば悲しくないよ?楽になるよ?楽になるかい?」


猿の面は言いながら、両腕を大袈裟に広げて見せた。


「ま、まだ死ねないもん!」


少年が突如叫んだ。

その声に風花も思わず驚いている。


「そうかいそうかい!やれ困ったなあ……二人とも美味しそうだから楽になって欲しいんだが……」


猿の面は仰々しく顎に手を当て、考えている様な素振りをして見せる。


その声に思わずゾッとし、風花の体は小刻みに震えていた。

だが、もう引くに弾けないのだ。

恐らく引き返してもより最悪な展開しか待ち受けていないのだろうと、彼女は薄らと理解していた。

ならばここで歩みを止める訳には行かない。

先に進むしかないのだ。


「ふ、ふうん……さっきの奴も美味しそうって言ってた……あ、アンタも……あ、味見してみる?」


震える声で風花はそう言うと、覚悟を決め繋いでいた右手を離し、猿の面に向かって掲げて見せた。


「駄目だよお姉さん!」


必死にそれを止めようとする少年。

だが、


目の前の異形が宙を舞い地上に降り立つと同時に、面から飛び出た鋭い牙を、風花の右腕に突き立てていた。


「うわあぁっ!!」


風花の悲痛な叫びが、夜空にこれでもかと響く。


膝をつきその場で苦しみもがく風花を、少年が小さい体で必死に抱き支える。


「うまやうまや、ひひ……ひひひ……」


老人の声が、闇の中へ吸い込まれるようにして掻き消えていく。


「あぐっ……はぁはぁっ!」


風花は目に涙を浮かべ、顔を激しく上気させていた。


「お姉さん!お姉さん!!」


泣すがる少年の目にも、大粒の涙が溢れている。

クシャクシャになった少年の顔を見て彼女はハッとし、唇を噛み締める。


「はあっ……はぁっ……はは……う、腕上がらなくなっちゃった……て、手、繋げないね……」


涙でクシャクシャになった顔で僅かに笑みを作り、風花は少年に声をかけた。


「も、もういいから!ぼ、僕……僕神様になんかならなくていいから!」


少年はすがるようにして風花に訴える。

だが、風花はゆっくりと首を横に振って見せながら口を開く。


「大丈夫……だってほら……」


言いながら風花は階上を見上げた。


途切れた鳥居の先に、僅かに朱色の瓦作りの屋根が見える。

奥の院と呼ばれている奥社奉拝所だ。


「あっ……」


月明かりに照らされた荘厳な建物。少年はそれを見上げ小さく声を挙げた。


「もうちょっとだよ……行こう」


ズキズキと痛む両腕をダラりと下げたまま、風花は何とか立ち上がった。


「は……い」


少年は頷きつつ目に浮かんだ涙を両手で必死に拭う。


再び歩き出す二人、奥の院まであと僅か、その時だ。


──ザワザワ


周りの木々が風もないのに怪しく揺らめく。

じっとりと、まとわりつく様な重い空気が、辺りを支配していく。


火照っていたはずの背中に、風花は冷や汗を感じていた。


辺りの異様さに気付き、二人は周辺を見回す。

すると、


「通りゃんせえ通りゃんせえ……」


階下から、地の底から響くような無数の声。


それに合わせるかのように木々がざわめき始める。


「先に行って……」


「えっ……?」


風花の突然の言葉に、少年は目を見開いた。


「神様になるんでしょ?あと少しなんだから……ほら、行って」


だが風花の言葉に、少年は嫌々をする様に激しく首を横に振った。


「行って!」


怒鳴りつける風花に、少年は肩を震わせたじろぐ。


「神様になったらさ……今度は君が私を助けてよ」


不意に風花が笑顔で投げ掛けた言葉、それが合図となり、風花は奥の院に背を向け階下へと躍り出た。


スカートをなびかせ走る、下着が見えようと気になどしなかった。

痛む両腕も、疲れて笑いかけの膝も気になどしない。

風花は何も考えずひたすらに階段を駆け下りた。


「そんなに食いたいんなら食いなさいよ!お腹壊しても知らないから!!」


階下から迫り来る異様なお面の群れ。

それらにぶつけるようにして風花は腹の底から叫んだ。


飛びかかる風花、その姿を、女や猿、猫、虎など、ありとあらゆる獣の面を被った魑魅魍魎達が、嬉々として雄叫びを挙げ群がる。


獣の無数の腕が風花の制服を掴み、石畳の階段に激しく打ち付けた。

壊れた人形のように風花の体が跳ねる。

骨が砕けるような音と、肉が裂ける音に紛れながら、少女の声にならない断末魔が挙がった。


が、次の瞬間、突如暖かい風と共に、眩い光が奥の院から放たれた。

神々しい金色の光は辺りの闇を一瞬で払い去り、獣達が一斉に喚き出す。


「あ……れ……?」


光に反応し、風花は閉じた目を薄らと開いた。


ふわりと甘い匂いが鼻先を擽る。

目の前に、淡い薄桃の花弁が舞った。


上空を見上げながら目だけを動かし周辺を見渡すと、


「桜の……花?」


そう、それは桜だった。

辺り一面の木々が、見渡す限りの白雪の様な桜の花を咲かせていたのだ。


満開の桜に見下ろされるようにして倒れていた風花は、唖然としながら体を起こした。

痛みがない。

上がらなかったはずの両腕を顔の前にかざす。

傷一つない。それどころか嘘のように体が軽かった。


いつの間にか異形な獣達の姿もなく、ただただ、うららかな春の様な温かさと、神々しい光が辺りを包んでいる。


ふと、階段上から軽い足音のようなものが聴こえ、風花はハッとして振り返った。

そこで見たものに、風花の目は大きく見開き固まってしまった。


眩いばかりの金色の光に包まれた、雪のように真っ白で大きな狐。

ふさふさとした九つの立派な尾を揺らめかせ、淡い燐をふわふわと撒き散らしながら、狐はゆっくりと風花の側に歩み寄った。


「き、君……なの?」


信じれれないといった顔で風花は狐を凝視した。

狐もまた、それに返事を返すかの様に、風花の瞳を見つめ返す。


「神様に……なれたんだね、はは」


思わず風花の顔に満開の笑みが咲いた。

頬から流れ落ちる雫が、乾いた石畳の上に静かに落ちた。


「あれ……何で……何でこんなに泣いてんの……あれ、あれ?」


涙はとめどなく溢れ続け、風花はひたすらそれを手で拭う。


それを見ていた狐がゆっくりと口を開いた。


「お姉さん……ありがとう……」


その声はどこまでも温かく落ち着く声だったが、あの少年の面影がハッキリと分かる声だった。


「助けてくれたんだね……私の方こそ、」


風花がそう言いかけた時だった。


狐は不意に頭を下げたかと思うと、いつの間に取り出したのか、木造りの雅な鍵を口に加えていた。

そしてそれを風花に差し出すように渡した。


「鍵?綺麗……」


風花が呟くと、狐は優しく目を細めた。


「いつかまた……お姉さん……」


狐が少年の声でそう言った瞬間、舞散っていた桜の花弁が一斉に吹き上がり、壮大な桜吹雪を巻き起こした。


呆気に取られ口をポカンと開けていると、風花の視界に信じられない光景が目に飛び込んだ。


それは、ホテルだった。

修学旅行で泊まるはずの場所、伏見稲荷神社に来る前まで、風花が居たはずのホテルだ。


「うそ……」


狐に摘まれたような顔でホテルを見つめる風花。

やがて腰が抜けてしまったのか、風花はその場にへなへなと座り込んでしまった。














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