月、闇、ふたつ

岸正真宙

月、闇、ふたつ

「なあ、月ってひとつだよな」


 そう、いきなり田中がつぶやいた。俺と田中は学食で、午後の講義まで時間があったので時間をつぶすために来ていた。ここの学食は食堂から外のテラスが見えて芝生が青々としていて、夏の終わりを忘れさせてしまうような色味であったから、おれは田中のつぶやきに別の意味を求めたほうがすっきりした。だって、月が一つってことは自明の話だから、田中が俺に言ったことは違うことかもしれないと思ったほうが、よほどの今の外の景色のような気がしたからだ。つまり、まったくもって似合わないってことだ。


「ひとつなんじゃない」


 ハーゲンダッツのバニラを口に運びながら、おれは田中に返した。ハーゲンダッツを初めて口にしたのは、それも初めての彼女の家にちょっとしたサプライズとして持って行った時だったような、そうじゃなかったような。彼女はいまはどこにいるのだろうな。なんて思いながら口の中で溶けていくその味わいを堪能していた。まるで、あの時のとろける体の交わりのようなものにも思えたのだ。


「おれ、最近、微妙に二つに見えるんだ。目が悪いわけじゃない。視力がいいのはお前も知ってるだろう? 不思議だな、やっぱり俺だけなんだな」


 彼が言うように、確かに田中は目がいい。反対におれはかなり目が悪いから、田中がいる席の横に必ず座る。そうすれば、田中のノートをみれば講義の板書を書き逃さずに済むからだ。


「まあ、でも人より多くの月が夜空に浮かんでいるなんて、お前ひとりずるい気がするけどな」


 本当にそう思う。うらやましい、月が二つあればそれだけでいい気分になるし、中秋の名月のときには酒が進むだろうなと、女を口説くときもかなりいい感じに使えるだろうと思う。


「そんなもんかね。それにしても変なことを言うよな康孝は」


 そう言って、田中は自分の腕時計をみた。本当なら他にも聞いてみたり、なぜ二つの月が見えるのかを解明したり、病気を疑ったりしてあげたほうが一般的にはなのかもしれないが、俺はどちらかというとそういう優しさがわからない。そっとしておいてほしいし、相談しているけれど、面白い返しや思いもつかないことのほうが答えとして返ってきてほしいと思う。そうして田中の後をつけて午後の授業におれは向かった。田中の目には今夜も月が二つ浮かぶことを想像して、田中の背中がゆらゆら揺れているのは、その不安定な現実のせいか、不安感があふれているせいか、田中の気持ちを想像しながら見つめていた。



 ◇◆◇◆



 扉が開く。暗い部屋。電気をつける前だからではない、闇がそこにあった。奥でガサガサと動く音がした。帰宅した男は、電気をつけずに——

「ただいま」

 と愛情を表現した——



 ◇◆◇◆



「ゆりかの髪ってきれいだな」


 そう、俺はゆりかに言った。ゆりかは少し照れてはにかみ、俺に見えるほうのほほにかかった髪を耳にかきあげた。彼女の左手の小指には恋人からもらったリングが光っていた。ゆりかは俺と田中の同級生だ。講義がよくかぶるので、その都度話をするようになり段々と仲良くなった。ゆりかには高校生のころから付き合っている彼氏がいる。彼氏は地元の大学に通っているので今は遠距離になっているらしい。最近はハングアウトなどで、モニター越しに彼に会えcるのでそれほど遠距離を感じないとのことだ。ゆりかはユーモラスな子で、俺たちは話をするとすぐに魅了された。田中はたぶん恋心をゆりかに抱いているかもしれない。


「田中、あの話、どうなったの?」

「え? なになに? あの話って。すっごい気になる」


 田中が、その話をふるなって顔で俺を睨んだ後に、照れくさそうに月が二つ見えていることをゆりかに話をした。案の定、ゆりかは驚き、根掘り葉掘り田中に聞いた。おれは、そのおかげでいろいろ分かった。田中のその症状の始まりは、今月のはじめぐらいですでに2週間ほど経っているらしい。最初は重なっていた月が、いまでは完全に二つに分かれており、距離がだんだんと開いているとのこと。月の明るさは同じぐらいで、大きさは同じだそうだ。天気の悪い日は、二つ目の月は見えなくなる。また、日の入りの時間は一つで完全に夜になったころに二つに見えるそうだ。


「へー、なんだか、不思議なことが起こってそうだけど。田中君だけってことがやっぱり変じゃない? 私も一応見てみたいし、今夜月が二つ見えたら私と康孝にメールしてよ」

「え、俺はいいよ。別に月が二つあってもなくてもいいのだから」

「そうじゃないの。私だけじゃ検証が少ないってことよ」


 ゆりかはそう言って、確かにと俺を思わせた。また、田中としても自分以外が本当に月が二つに見えてないか知りたくて、承諾をした。


 その夜、田中から「月が二つ見える」というラインが届いた。おれは一度家を出て、外から月を探してみた。月は一つだった。俺の報告と同じように、ゆりかからも月は一つだったと報告が来た。俺だけが月が一つだったらよかったのにと少し残念に思った。そのあと他愛のない会話が三人で続いた。それを見ながら、俺は家に戻った。一つの月夜の下で。



 ◇◆◇◆



 女性の手足が針金でうっ血していた。長い針金はくるくると女性の体を巻き付けていた。そうしてそれは大きなオブジェにも見えたし、やはりちゃんとした人間の女性の拘束にもみえたし、もっと下劣な何かにも見えた。口にはガムテープが張られ、声はくぐもらしてしか出せなかった。男が戻ってきて、髪の毛を撫でた。そのまま彼女のおでこにキスをして。優しい声で彼女の名前を言いながら、抱きしめた。女性は声を出し、涙を流し、訴えていた。

「私を離して」と——



 ◇◆◇◆



「康孝は、俺みたいになんかないの?」

「なんかって、月が二つ見えるみたいな?」


 そんなのがあれば、俺はどうするだろう。ひとしきり似たようなことを考えてみた。星がすべて青く光るとか、太陽が黒く見えるとか、学校の教授はすべてペリカンの顔をしているとか。残念ながらそんな風に世界をみることができそうにもないし、今後もそんな予定はない。


「なんか……ないかな……」


 あてもなく、自分が他人とは一味違う場所を探してみたが、そんなものは見当たらなかった。暗い洞窟の中で探し物をしているみたいで、それは絶対に見つかることは無い。


「まあ、じゃあ人より闇が黒いとか?」


 と観念みたいな、見当たらないものをそのまま答えてみた。


「ふーん」


 そう言って田中は、もう聞くのを止めたようだった。田中の目は少し斜視が入っているため、じっと見つめられていると、心がすこしぐしゃしゃと不安な音を出しそうになってくる。そのうえ表情が乏しいので、何を思っているのかがわからない。こちらの何かをとらえているようにも見えるし、むしろ俺を一切見てないようにも見えた。


「すこし、変だけど、月が二つ見える理由が分かったんだ」

「なんだ、理由ってのは」

「数秒から、数分後の世界が偶に見えてるみたいだ」

「なにそれ……」


 そう言って、田中は少し目を閉じておもむろに口にした。


「あそこの端っこにいる、男子学生が驚いて、立ち上がる。『りりが?』と叫び、そのあと周りを見回す」


 奥に座っていた、男子学生が急に立ち上がり「りりが?」と叫んだ。そのあと周囲の視線に気づき、あたふたと座った。


「そのあと、お前が親指の爪を噛む」


 そう言われて、自分の姿を改めて感じてみたら、知らない間に自分の親指の爪を噛んでいることに気付く。随分と深爪になっているなと、半ば他人のようにそう感じた。


「まあ、いつも見えるわけではないけど……」


 不思議なことが田中に起きているのだなとその時思うことにした。




 ◇◆◇◆



「だから、お前はこうやってここにいるんだ。すぐにいろんな男に抱かれたがる。お前は抱きしめらるたびに愉悦する。そうやって人によって温もりを確かめ合って、男に頼って、お前の形をお前自身が確認しようとする。おれが、お前をこんなに抱きしめているのはなぜか。俺がお前をこんなにきつく縛っているのはなぜか。俺がお前を固定するのはなぜか。だってお前が知りたいだろう?そうやって形を確認したいんだろう?俺はお前の手伝いをしてやっているんだよ。」


 電気のスイッチをつけずに、男が爪を噛みながら耳元でそう言った。彼女は笑っていなかったし、男は笑っていなかった。二人は暗い闇のなかで、ぽつんとしていたし、それを誰かが咎めることができなかった。月は満月で、二人の影を映していた。世界は青光り、二人の周りにあるのは時間がゆれうごいている音しかなかった。今夜も月は二つ浮かんでいたし、南の空とすこし西に傾いていた。



 ◇◆◇◆



 午前中の講義に間に合うように、身体のリズムを作り出す。シャワーを浴びて身体を点検し、頭の隅々まで血がめぐり始めるのを感じた。朝食にサラダを用意して、自分で作ったドレッシングをかけた。先日買った酵母菌でパンを作ったのでそれにジャムを塗り、口に含んでよく咀嚼した。窓から朝の光が差し込んできた。特別な日ではないが、朝のリズムにとても合う。部屋はきれいで、シーツがぴんと張っていた。


「おはよう」


 寝ぐせのひどい田中に向かって、俺は挨拶をした。田中は俺を見てそれから小さくおはようと口から出した。哲学の講義を午前中に聞くのは田中としては拷問とのこと。朝の時間の作り方が悪いのだと田中に伝えたら、そんなキリキリの仕事人間みたいなのはまだやりたくないとのこと。そうだろうか。


「罪を定義するためには、一つは社会情勢が必要でしょう。人類において倫理観というのは絶対性を持ちえません。例えばあなたが今から月の住人ということになったとします。そこでは地球人を食する文化があったとしましょう。ただし、ホモサピエンスであることに変わりはありません。そうしたら、地球人を屠殺することは倫理的に悪でしょうか?」


 昼ご飯を選んでいると、ゆりかが遠くで手を振った。どうやら一人でご飯らしい。田中と俺はゆりかのそばでご飯をたべることにした。ゆりかの話はいつも彼方此方と忙しい。彼氏の話、友達の愚痴、講義の有意義性、社会の情勢、ファッションの前途、IT業界へのあこがれ……多岐わたる彼女の話に合わせてその表情も喜怒哀楽ときれいになぞる。ゆりかは実に人間らしく、そして可愛らしいと思えた。はつらつとして、肌がはじけそうで、若さが体の中心地でぐるぐると渦巻いていた。噴出する血色が透き通って、生きている人形のようだ。


「ねえ、今日おでん食べない?みんなで。ローソンでおでんが出始めて、やっぱり食べたくなるよなーって。三人で食べようよ」

「いい……」


 俺が同意を示そうとしたときだった、ゆりかの目の前に手を広げて、田中が話を遮った。いやちがうか、何かをせき止めた。


「やめよう。おでんはよくない。体に、健康に」


 目はゆりかを見ており、田中はとても真剣だった。真剣な人間がこんなにも滑稽に見えるのは不思議だ。やはり、田中は月が二つ見えるだけあって、どうにも異物感がぬぐえないやつなのかもしれない。


「えー、家で作ればいいの?おでんかー白だしとか買ってかあ、高くなっちゃうなー、やっぱりコンビニで買っちゃったほう早くない?」


 ゆりかには田中がそうは見えないらしく、田中の意見をそのまま飲み込んでいた。でも、結局了承をしたらしく、今度お鍋ならいいという交渉をして、その場を去った。残念だ。


「なんだ、残念だ……」

 おれは心底そう思った。そろそろ、ゆりかと一緒に成りたかったから……

「お前、針金持ってるだろう?結構長いやつ」

 田中はゆりかを見つめたまま、俺にそう言った。

「……なんだ、田中には見えてるのか。まあ、じゃあ仕方ない」

 おれは、多分、そんなことを言ったような気がする。午後の講義が始まる時間になっても、そこから動けないでいた。



 ◇◆◇◆



 今宵の月は二つであった。二つの月があると、周りが明るくてたまらない。そうだとすると、良いことでもないなと男は思った。カーテンを閉めて、また暗がりで一人ソファーに腰かけた。電気はつけない。そのほうが自分が見えなくて良いから——




 ◇◆◇◆



 行方不明の女子大学生が、同大学生のアパートに監禁されていた事件が発覚し、そこが康孝の家だったのはその後すぐにメディアに広がった。警察が行方をくらました康孝を見つけたという報を、まだこの現実の世界には届いていなかった。



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月、闇、ふたつ 岸正真宙 @kishimasamahiro

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