虫の惑星 -吸血-
「暑……っ」
「クソアチイナ……」
白熱の太陽。
煮えたぎった油壷が沸く様な、真夏の暑苦しい陽射しと蝉しぐれが降りしきる。
麦わら帽子。母方の実家がある田舎を訪れた中学生のケンイチは、従妹のスヤさんと二人で捕虫網を持って近所の森を訪れた。
この広い田んぼのあぜ道を渡ればナラやクヌギの繁茂した森に着く。
去年はオオクワガタが売れるほど採れた森。
今年もそれほどの収穫を狙っている。
二人が森に踏み込もうとした時、空に暗い雲が現れていた。
「雨降ってきそうだな」
「天気予報だと降るのは午後からダ。……!」
スヤさんは剥き出しの腕にとまった黒白まだらの蚊を叩き潰した。
潰れてバラバラになった蚊に赤い血の染み。
「虫除けスプレーを使えばいいのに」
「アタシは化学薬品を信用しないンダ」
従妹のスヤさんはヒッピーを気取って絞り染めのTシャツを着ている。違法の草を紙に巻いて甘たるい紫煙をくゆらせていた。
そのサンダルが地面に落ちていた蝉を踏み潰す。
乾いた死骸が地面に潰れた。
「蝉は樹液を吸えなくなったらどうするんだろ」
ケンイチは水気のない死骸を気持ち悪げに見る。
クマゼミだ。ここまで北上していたのか。
熱波。気候温暖化が進んだ事による地球規模の異常気象。
世界の植物は十分の一が枯死し、生き残った木も樹液が極端に少なくなるなど生態系に明らかな生物滅亡の兆しがある。
現在、地球が死にかけていた。
「……蝉は元気ダナ」
スヤさんは森を見上げて呟き、額の汗をぬぐった。
態度さえよければ奇麗な少女なのに。
毎年、蝉は何も変わらない様にわんわんと凄まじい鳴き声をあげている。
空気それ自体が蝉の声となっている森を歩く。
ミンミンゼミ。
クマゼミ。
アブラゼミ。
ツクツクボウシ。
判別の出来ない高周波の雑音。
蝉で高所で鳴いている。
暗い森。
暗いとはいえ暑い。
遠慮なく汗が流れる。
乾いた腐葉土を踏んで進んでいくと、おかしな物が地面に横たわっているのに気づいた。
草の葉の中に、犬。
「……シロ」
スヤさんは近所の家で放し飼いされている雑種犬の名を呼んだ。
黒い腐葉土に横たわった体毛の薄い犬はまるでミイラの様になって死んでいた。
ケンイチは吐き気を覚えた。
気持ちの悪い死骸だ。身体が穴だらけになっているのが見て解る。まるで細い針で全身を刺されまくった様だ。
二つの眼球にもまぶたの上から複数の穴が空いていた。
犬の全身は干からびている。
「山波サンに教えル……カ?」
スヤさんが飼い主の名を言ったその時、頭上の森から一匹の蝉が飛んできた。
その蝉は最初ケンイチに近づいてきたが、虫除けスプレーの香りに気がついて大きく飛跡を曲げた。
バタバタと乾いた羽音を立てて、黒いアブラゼミがスヤさんの首筋にとまった。
「ッツ!!」
従妹は細い首筋にとまった蝉を手ではたき落とした。
首に空いた小さな穴から鮮血が垂れ流れる。
地面に落ちた蝉を踏み潰したサンダルの底が血で汚れた。
「え!? 何!?」
ケンイチは一瞬自分の見た物が信じられなかった。
従妹の白く細い首に赤い血が一筋垂れる。
あまりにも不自然で、奇麗にさえ思える。
彼女は傷口に手を当てて戦慄していた。
まるで自分の未来を予知しているみたいに。
セミの鳴き声がやんだ。
一斉の静寂。
森の空気を満たすもの。
それは鳴き声から何百何千もの昆虫の乾いた羽音に変わった。
森の木から飛び立った蝉が土砂降りの様に一斉に降ってきた。
まるで黒い雲の様に飛翔する蝉の影が二人に襲いかかる。
「うわぁっ!!」
透かし羽が耳障りにざわめいた。
ケンイチは麦わら帽子をかぶった頭をかばって地面にしゃがみこんだ。
その少年をよけて蝉の黒雲は地面近くに大きなとぐろを巻いた。
「キャァーッ!!」
スヤさんの大きな悲鳴。
ケンイチが顔を上げると従妹の姿は苦悶する黒い立像に変わっていた。
全身に群がり、固い足でしがみつく無数の蝉。
肌の表面にびっしりと虫。
無表情。
感情があるのかも解らない。
恐ろしい事にその蝉の群がやっている行為の想像がついた。
吸血。
蝉は木に立てるべき無数の針の様な口吻を従妹の肌に突き立て、生き血を吸い上げているのだ。
ケンイチは無残な従妹の様子を見ながら、自分が無事なのは虫除けスプレーのおかげである事に気がついた。
全身に蝉がたかられている従妹は黒いいびつな姿で地面に倒れる。
三秒も経っただろうか。わんわんわんと羽音が鳴って、倒れた従妹から一斉に蝉が飛び立った。
今度はケンイチが戦慄する番だった。
地面に倒れた従妹は青黒くなっていた。
体液を吸われつくした肌の青さに、身体に空いた無数の穴の黒。
従妹はミイラの様になって無残に死に、自覚していなかった少年の恋心がぷっつり断ち切れた。
「うわぁぁっ!!」
そんなにつらい痛い目にあって死んだのか。
うろの如く大きく開いた苦悶の口から眼を逸らしてケンイチは振り向いて走った。
何千何万という蝉の声。
走る少年の周囲で厚い黒雲が熱気のこもる渦を巻く。
わんわんわんというひっきりなしの羽音。
ジーンズの尻ポケットに入れていたスプレーの小さな缶を噴霧する。
化学薬品の匂い。
これがある限り蝉は襲ってこれないはずだ。
空になった缶を捨てる。
森の出口を目指して走る。
周囲の蝉はうるさく羽音を立てながらも彼の肌に触れる事が出来ない。虫除けスプレーのおかげだ。
あと十数メートルも走れば森から出る。
広い田んぼを横ぎれば人里に出る。
大人に会えば、人家に逃げ込めば何とかなると思った。
麦わら帽子が風に飛んだ。
眼前の風景の森が切れた。
田んぼが一気に広がった。
逃げきれた。
そう思った瞬間に一滴の雨が鼻を打った。
生温かい雫。
土砂降りが降ってきた。
滝みたいな豪雨が少年の肌の化学薬品を洗い流した。
少年は声にならない悲鳴を挙げた。
せめて人家に辿り着くまで降ってくれればよかったが、数十歩も歩いた所で土砂降りは唐突にやむ。
「……天気予報は外れてばっかりだ……」
すっかり濡れそぼったケンイチを一斉に黒い雲が襲った。
灼けた針で全身を刺しまくられるつらく痛い苦悶を味わいながら、少年は水田に倒れこんだ。
じじじ、と蝉の腹が鳴る。
一斉に全身の体液を吸い上げられる。
その肌はいびつな虫の塊。
ケンイチは断末魔の苦しみの中でかすかに考えていた。
世界的な異常気象が蝉をこの様な行為者に変えたのだろうか。
熱波の中、吸血性に移った昆虫は蝉だけではないかもしれない。
木の樹液、草の汁、花の蜜を吸っていた世界中の虫達が一斉に。
人間――この今、最も無防備な八〇億もの血袋。
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