10 王

 私室へ戻るなり、レクスはベッドに顔から倒れ込む。そうすることで、ようやく緊張から解き放たれるのだ。その様子を見て、イーリスはくすくすと笑った。

「今日もお疲れ様でございました」

「頭がパンクしそう。難しいことなんてわかんないよ……」

 生まれてこの方、人間に会ったことなど一度もない。だというのに、いきなり人間の本質を見抜くことを課されてもまっとうできるとは思えない。魔族でさえ難しいと思っているのに、そんな高度な駆け引きができるわけがない。

「みんな、コーレイン様に期待しているんですわ」

「期待されても困る……。僕は役立たずなんだから」

「そんなことないと思いますけど……。コーレイン様はもっと自信をお持ちになるべきですわ」

 自信なんて持てるはずがない。自分の力だけで解決できた事例はないのだから。ブラムとキングがいなければこなせなかった仕事がほとんどだ。何も自信に繋がるものがない。

「コーレイン様が頑張っていらっしゃるのは、みんな存じておりますわ」

「……ありがとう、イーリス」

 私室にいるといつも愚痴や弱音を零してしまう。イーリスはそれを否定することなく励ましてくれる。イーリスもレクスが王を務めていく上で重要な人物のひとりだ。

「湯浴みの支度をして参りましょうか?」

「お願い」

「かしこまりました」

 イーリスが部屋を出て行く音を聞きながら、レクスは枕に顔をうずめた。

 いつまでも愚痴を零していては立派な王になれないとわかってはいるが、どうしても弱音が出てくる。やはり自分には王となるだけの器がないのだと痛いほどに突き付けられる。

「風邪ひくぞ」

 不意に聞こえてきた声に、レクスはバッと顔を上げた。キングが彼を覗き込んでいる。

「ノックは⁉」

「イーリスと入れ違いでな」

 声が裏返るレクスとは対照的に、キングはのんべんだらりと言う。それからレクスを抱き上げ、膝に抱えたままソファに腰を下ろした。

「私の可愛いレクス。何を落ち込んでいるんだ?」

 微笑むキングに、昨夜の夢が一瞬だけ重なる。視線を逸らすレクスを、キングは頬に手をやって目を合わせた。それから、促すように首を傾げる。

「……私はひとりでは役立たずだって思ってただけです」

 王に就任してから半年が経ったというのに、こんな弱音を吐いてしまうなんて情けない。だが、強がったところでキングにはすぐに見抜かれてしまうだろう。

「お前はよくやっているよ。もっと自信を持ってもいい」

「でも、キングとブラムがいなければ僕は何もできません」

 キングの助言とブラムの支えがなければ王の任務をこなせない。王として未熟なのは自覚している。こんなことでは自信を持つことなどできない。

「私だってひとりでは何もできないさ。お前がいなければやる気なんて出ないし。お前は私の原動力なんだよ」

 キングは優しくレクスの頬を撫でる。愛おしむ指先は温かく、不安な気持ちを解きほぐしてくれるようだった。だが、自信の持てない弱気までは消し去ることができない。

「やっぱり、キングが王の座に戻るべきですよ」

「そうしてしまったら、お前を私のそばに置く理由がなくなってしまうじゃないか」

「……そうですね。私は村に戻りますから」

 王でなければ、レクスが王宮にいる理由はない。コーレインと王宮とではなんの関係もないからだ。そんな彼が王に選ばれたのが、そもそも異常なのである。

「わかった。お前を私の癒し係として置けばいいんだ」

「ないですよ、そんな役職」

 顔をしかめるレクスに、キングは明るく笑った。

「そもそも、私欲を持ち込まないでくださいよ」

「お前の存在が、私にとってそれだけ大きいということさ。まあ、王に戻るつもりもないしね」

 そう言って、キングはレクスを抱き締める。それから、慈しむようにレクスの頬を撫でた。真っ直ぐに見つめられると何も言えなくて、ただ視線を逸らすことしかできない。

「私の可愛いレクス。ずっと私のそばにいてくれ」

 キングの優しいキスは、早鐘のように高鳴る心臓が爆発しそうになる。顔が熱く、真っ赤になっているだろう。キングはそれすらも愛おしいというように微笑むのだ。

 初めはからかわれているだけだと思っていた。それが、こうして部屋まで来て愛でられるようになると、自分に向けられる愛情が本当のものだと考えるようになった。こんな愛を向けられたのは初めてで、どうすればいいかわからなかった。いまもわからない。レクスはどぎまぎするばかりだが、キングはそんな彼をいつも微笑ましく見つめる。いっそのこと王など辞めて逃げてしまおうかと思うほど、愛でられるのはむず痒い。しかし、嫌な気分になることはない。ただただ戸惑っているだけなのだ。


   *  *  *


 気が付くと、暗闇の中を彷徨さまよっていた。辺りには何も見えない。雨粒が水面を揺らす音が聞こえる。

 ふと気配を感じて振り向いた先には何もおらず、今度は反対側で何かがうごめいた。駆け出そうと踏み込んだ足は動かず、逃げることができない。

『役立たず』

 混声の不協和音が耳の奥で響いた。途端に、胸中に寄る辺のない不安が広がる。耳を塞いでうずくまると、影が近付いて来る。

『弱いお前に何ができる』

 不快な声は、手を擦り抜けて耳の奥を刺した。

『お前に王は務まらない』

『いつかキングも愛想を尽かす』

 心臓が大きく跳ねる。息ができない。

『愛されているだなんて、よくもそんな妄想を懐けたものだね』

 やめてくれ、と叫んだ声は喉の奥で詰まり、代わりに涙が溢れてくる。

 そのとき――

『私の目の前からさっさと消えてくれ』


   *  *  *


 暗闇から逃げるように、レクスは飛び起きた。心臓が痛いほどに昂り、呼吸は浅く苦しい。涙が止め処なく溢れ、闇がまだ体に纏わりついているような感覚に陥った。

 窓の外はまだ暗い。もう一度でも眠らなければ仕事に支障を来してしまうかもしれないが、もう夢の中へは行きたくない。

 一番、聞きたくなかった声。一番、聞きたくなかった言葉。

(……弱い僕に王は務まらない)

 体が重い。ゆらゆらと、水の底にいるような目眩を覚える。

(……僕は、キングに愛される資格はない)

 それも幻想だったのかもしれない。

 弱い王は国にとって不利益でしかない。いますぐにでも、村に帰るべきなのだろう。この場所に、自分は相応しくない。

「……ユリア……」

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