第98話 09月18日【1】

 「それにしても、娘の恋人がまさか事務長様だったとは」


夜景臨む窓辺のテーブル席で、お嬢ちゃんの御父上が楽しそうに笑う。

 前回お会いした時にも感じたが、お嬢ちゃんから聞いていたより、ずっと紳士的で穏やかな印象だ。


 「実は、先日初めてお会いした時から、不思議な御縁を感じていたのです」

「そうなんですか。実を言うと私もです」


警戒は解かない。飽くまでビジネスモードのまま私は答えた。

 御父上は微笑み崩さず、私の隣に座るお嬢ちゃんを一瞥いちべつする。


「どうでしょう。娘は事務長様のお役に立てていますか?」


話題を振られ、嬢ちゃんは苦笑いで私を見た。手元の前菜オードブルにはまだ一つも手を付けていない。緊張しているのだろうか。

 私は御父上に視線を戻した。


 「はい。お嬢さんはとても優秀な方です。お父様に似て御聡明なのでしょう、仕事の方も飲み込みが早くて、指導する側としては非常に助かります。

 少々引っ込み思案な気質も見られますが、笑顔が明るく人当たりもよく、他の職員からも患者様からも好感を持たれています。

 なにより、その心根の優しさです。医療職や人を教え導くような仕事には、親和性があると私は感じます」


答えの中にも緩急つけて、お嬢ちゃんの希望も織り交ぜるてみせる。

 御父上は嬉しそうに両手のカトラリーを置いた。


 「勿体ない御言葉を恐れ入ります。こう見えて娘は頑固で、私の言葉には聞く耳を持ちません。ですが今お伺いした限りでは、事務長様には全幅の信頼を置いているようで」

「滅相もありません。私などまだまだ若輩者です」


会釈で応えると、御父上は口元を拭いペリエのグラスを傾けた。


 「そういえば、事務長様も今日はお車でしたね」

「はい」

「普段お酒はたしなまれますか?」

「いえ、付き合い程度です」

「そうでしたか。私もです。年のせいか、近頃めっぼう弱くなりました」


「ははは」と笑う御父上に、「とてもお若く見えます」と御世辞をすかせば、「お上手だ」と同じ声音で返された。

 だがスン…と急に表情に色を失くして、御父上はお嬢ちゃんを見やる。

 

「なにをしている。早く食べなさい」

「あ……うん」


言われて初めて、お嬢ちゃんはナイフとフォークを手に取った。


「申し訳ありません。マナーを知らぬ娘で」

「純粋さは彼女の魅力です」


私は淀みなく答えてみせた。

 少しして、からになった皿が下げられ次の料理が運ばれてくる。

 白い皿に載せられた料理は、宝石の如く色鮮やかで私達の意識を視覚から引き込む。次のメニューが運ばれてくるたび、テーブルの空気がリセットされるかのよう。

 その度に話題も切り替わった。

 主に私の仕事内容や日々の来院数、門前薬局との折り合いに関する話ばかりで、お嬢ちゃんとの関係性などには殆ど触れてこなかった。


 「時に、事務長様は今後の医療経営をどう御覧になられますか?」

「どう、とは?」

「日本の医療経営における課題、という意味です」

「なるほど。そうですね…」


パペットステーキを切り分ける手を止め、ハの字型にナイフとフォークを置いた。そして、


人財じんざいです」


明瞭かつ簡潔に答えた。

 御父上は「ほお」と声を漏らして笑みを消す。その吐声が感嘆なのか落胆なのかは分からない。

 私は、尚も続ける。


 「良い人財こそが良い医療を提供できます。そんな人財を育てる環境、育った人財が永続的に勤務できる職場環境の提供こそが、医療経営者の最たる課題と考えます」


一呼吸置いて、私は再びフォークを手に取った。


 「逼迫ひっぱくする現場の状況よりも職場環境が優先されるべきと?」

「それも人財の充実化で解消されます」


切り分けた肉を一口だけ頬張り、柔らかいそれをゴクリと飲み込む。

 

 「医療従事者コメディカルの不足や薬機法・薬事法の縛りもそうですが、今の日本の在り方にも問題があります。

 小さな子供の居る家庭では、働きたくても子供を預ける保育園や幼稚園が見つからない。預りの優先順位を上げるために、パート職員に嘘の勤務報告書を作成して幼稚園に提出させる病院や薬局もあると聞きます」

「ならば、どのように改善すれば良いと?」

「病院や薬局の中に、預り施設を構える……という構想は以前に考えたことがあります」

「ほう…」

「外資系の企業や海外では、社内にナーサリーステーションが完備されている所も多いと聞きます。今は専門家の拡充で躍起になり、薬学部や看護学部の設置が急増していますが、今後は職場環境への配慮に重きを置くべきでしょう。

 そういった点では、お嬢さんの子供教育に対する想いは将来、御父様のお力になると考えますが」


私はチラリと、隣に座るお嬢ちゃんを横目に見た。

その直後。


「素晴らしい」


御父上は、音にならない拍手を打った。


 「粗削りな部分もありますが、その若さでそこまでの御考えに至るの方は稀有です。流石は娘の見込んだ御仁だ。

 ついこの間まで幼く頼りなかった娘が、意中の相手を連れて来てくれた。それが事務長様のような御立派な経営者様であれば、喜びも一入ひとしおです」


整った笑みを浮かべる御父上に対し、私は訝しげに眉をひそめた。


「恐れ入りますが、お父様は歯科医師様との御縁談を望まれていたのでは?」


ビクリと眉尻吊り上げた私に対し、御父上は変わらぬ笑みを浮かべた。

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