第82話 08月18日【2】

 水族館の土産を持ってきてくれた光希みつきさんが、綾部あやべさんと鉢合わせた。

 背中が妙に汗ばみ、手指が小刻みに震える。


 「事務長、こちらの方は…?」

「あ、うん。医師ドクター神永かみなが光希みつき先生だよ。少し前から、お世話になってるんだ」

「はじめまして。K大附属病院で小児科医をしています、神永かみながです」

「……はじめまして。事務の綾部あやべです」


二人は丁寧に会釈を交わした。

 光希みつきさんはおもむろに頭を上げると、私を振り返って爽やかに微笑む。


「お綺麗な方ですね、翔介しょうすけさん」


とても端正な笑顔。なのに私は言い様の無い寒気を覚えた。


「え、ええ。綾部あやべさんはウチの自慢の従業員スタッフです。頭が良くて気が利くから、いつも助けられて――」

「お名前で呼ばれているのですか?」


綾部あやべさんの鋭利な声が、私の言葉を遮った。

 振り返って見れば、その表情は冷然れいぜんの一言。凄然せいぜんと表した方が適切か。思わず私は口籠ったが――


「ええ。そうです」


――私に代わり、光希みつきさんが答えた。

 まるで氷河と太陽。強烈な寒暖差はあいだに立つ私へ見えない突風を吹き付ける。


「事務長は、こちらの先生を何とお呼びで?」

「え、僕? 僕は、その…」

「『光希みつき』ですよね?」


またも太陽の微笑みが私を代弁した。吹きすさぶ風が、一層と威力を増す。


 「……そうですか」

「いやいや! 呼び捨てなんて! ちゃんと『光希みつきさん』て敬称付けてお呼びしてますよ!?」

「そこは問題ではありません。ところで、お二人の御関係は?」


綾部あやべさんから吹きつける寒風が、私の空回りを更に増長させる。


「えっ、と……と、友達かな?」

「そうですね。今はそういう関係です」


どこか言い含めあるものの、太陽の肯定に私はほっと胸を撫で下ろした。


「お二人は、上司と部下の御関係ですよね?」


しかし安寧あんねいも束の間。今度は光希みつきさんから問いを投げられた。変わらない笑顔は陽光の如く肌をヒリヒリと焼く。


「僕たちは…」


私はチラと綾部あやべさんを振り返った。相変わらず氷河のような表情。だがどこか不安気で、小さく俯いている。

 瞬間、私の胸中に薄黒いもやが生まれた。

 そうだ、何を迷っているのだ。

 確かに綾部あやべさんは事務長じょうし事務員ぶかの関係だ。だが私は、それ以上に彼女のことを…。

 私は拳を握り、大きな息を一つ吐いてから光希みつきさんを真っ直ぐに見つめた。


「いえ、単なる上下関係じゃありません。僕は綾部あやべさんのことを――」

「事務長っ!」


決意虚しく、またも私の言葉は遮られた。だが二人の声ではない。振り返ると、奥の診察室に私服姿のお嬢ちゃんの姿が居た。


「あれっ⁉ 帰ったんじゃなかったの?」

「実は北海道のお土産を持って来たんですけど、渡すタイミング無くて……あ、皆さんにはちゃんと別に用意して――」


手に提げた紙袋を持ち上げ、お嬢ちゃんはようやくと光希みつきさんに気付いた。


「す、すみませんっ! お客さんでしたか?」

「ああ……いや大丈夫だよ。ありがとう、お嬢ちゃん」

「すみませんっ。ここに置いていきますから、よかったら召し上がってください。こっちは綾部あやべさんの分です」


そう言って彼女は受付カウンターに、高級感ある箱入りのポテトチップスを二つ並べた。


「あ、ありがとうございます」

「いえ! お二人にはいつも色々教えて頂いているので、皆さんのとは別に買ってきましたっ。それじゃあ、お先に失礼しますっ」


愛らしい微笑みと共に丁寧なお辞儀して、お嬢ちゃんはテケテケと裏口に向かった。散歩を楽しむ子犬のような後姿が、傷む私の心を癒してくれる。


「ちょ、ちょっと翔介しょうすけさん!?」


光希みつきさんに肩を叩かれ、私は振り返った。見れば彼女は驚愕の様相を呈している。動揺しているようにも。


「い、今の女性は何方どなたですか?」

「ああ、ウチの事務員の小篠こしのさんです」

「な……なんなですか彼女!? ちょっと可愛すぎませんか!? 芸能人ですか!?」


光希みつきさんはあからさまに驚き慌てた。こんなにも感情を乱す彼女は初めてだ。


「モデルさんなんですよ。『元』ですけど」

「……ちょっと翔介しょうすけさんの周り、美人が多すぎませんか? 薬局長やっきょくちょうさんといい、彼女といい」


ジトリと粘り付くような光希みつきさんの視線。否定も肯定も出来ない私は助けを求めるよう綾部あやべさんを見たが、彼女も大きく頷いている。


「もしかして翔介しょうすけさん、ああいう可愛らしい感じの女性がお好きなんですか?」

「別にそういう訳では…」

「でも可愛いですよね、彼女」

「……まあ、はい」


答えた途端、光希みつきさんは「やっぱり」と呆れたように溜め息を吐いた。

 かと思えば院内に踏み入り、綾部あやべさんの前で右手を差し出す。


「今は一時休戦ということで」

「ええ。賛成です」


太陽みつきさんと氷河あやべさんは固く手を握り合った。


「どうやら、上手くやって行けそうですね」

「ええ。今暫くは」


一体何と戦っているのか分からないが、仲が良いならそれに越したことは無い。

 綾部あやべさんと意思を確認しあった光希みつきさんは、颯爽と身を翻してドアを潜った。

 そして唐突に――


光希みつき、嫉妬しちゃいますっ」


――オクターブ高い声で、昔のアイドルを思わせるブリッ子ポーズをしてみせた。


「……なにしてるんですか?」

「……ああいう感じがお好みかと思いまして」


唐突と素面シラフに戻ったか光希みつきさんはリンゴみたく頬を真っ赤に染め上げた。恥ずかしいのなら、やらなければ良いだろうに。

 赤らんだ頬のまま「それでは」と挨拶して、光希みつきさんは陽が沈むようにソソクサと帰った。太陽より台風と表現するのが適切か。


「事務長」


疲弊した私を氷河あやべさんが呼んだ。


綾部あやべ……いえ、なんでもありません」


光希みつきさんと同じようなポーズをしてみせるも、途中で諦め平常運転にシフトした。

 顔の赤さは太陽みつきさん以上だが…。


「なんなんだ、一体…」

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