金木犀

傘立て

金木犀

 部屋の中は、甘い匂いで満たされていた。畳に点々と落ちる小さなオレンジ色の花や先の尖った葉を避けながら、足を踏み入れる。

「こんにちは、先輩。気分はどうですか?」

 薄暗い部屋の中、たたんだ布団にもたれるようにしてうずくまっていた影が、呼び掛けた声に反応してのっそりと動いた。

「気分もクソもあるか。一週間野晒しだぞ。暑いし寒いし、直射日光はきついし、虫は来るし鳥はうるせえし、疲れた。寝かせろ」

 乱れた髪が表情を隠しているが、不機嫌なことは十分伝わった。

「一週間ですか。今回は長かったですね。お疲れ様です。仕事は?」

「急ぎのものはない、から、問題……な…………」

 疲労は相当溜まっているらしい。気怠そうな声の後半は寝息にかき消された。布団の山に倒れこんだような体勢は却って疲れそうに思うが、敷いて寝る元気もないのだろう。横顔を覗き込むと、長い髪の隙間から見える目元には隈が浮いていた。押し入れから勝手に毛布を出して投げ出された身体に掛け、「雑炊でも作っておきますね」と囁いて立ち去ろうとしたら、「カレーがいい」と呻くように注文が飛んできた。まだ意識はあったようだ。

 暗い廊下に出て、奥の台所に向かった。先輩が学生のうちに先代から受け継いだというこの家は、何もかもが古い。廊下の床は軋み、畳は色褪せ、階段には明らかに踏んではいけない板がある。台所は水まわりもガスもいちいち旧式で、最初の頃は使い方が分からず苦労した。呼びつけられる回数が増えるにつれなんとか使いこなせるようになりはしたものの、さっさと新しいものに替えればいいのにと思う。何十年も時を止めているような台所で米を炊き、カレーの仕込みをした。スパイスの匂いが漂い始めたところで、ようやく息ができる感覚になる。この家に充満するあの花の気配を、いっときでも忘れさせてくれるものを求めているのだ。自分も、おそらく先輩も。

 ひと仕事終えて部屋に戻ると、静かな寝息が聞こえた。甘い匂いは薄れている。匂いの名残りをかき集めるようにして、畳に散らばった花と葉を拾ってまわった。先輩の目に入ると機嫌を損ねそうなので、ごみ箱ではなく自分のポケットにしまう。

 近寄ってみても先輩は目を醒まさない。手を伸ばして顔にかかった邪魔そうな髪を耳の後ろに流してやる。そのままもつれた毛に手櫛を通すと、中に隠れていた小さい花がバラバラと落ちて、そこから新たな香りが立った。

 

 髪から花が落ちるようになったのは、まだお互いに学生だった頃だ。先輩は「洗っても梳かしても、すぐに出てくるんだよなあ」と言って、癖のように髪に指を突っ込んで花を摘み出しては捨てていた。長い指に摘まれていたのは金木犀の花だった。先輩からいつも郷愁を誘う甘い香りがしていた理由も、それで判明した。髪から花が溢れ落ちるなんて少女漫画みたいですね、とからかうと「可憐な乙女の髪ならな。野郎の頭から花が出てきてもゴミにしか見えねえわ」と面倒くさそうにぼやかれた。しばらくすると慣れたのか諦めたのか、花を摘み出す仕草は見なくなった。ただ他人の目に触れさせるのは嫌なようで、床屋にはずっと行っていないし、人前に出るときは花が落ちないように大体いつも髪を結んでいる。鋏を入れない髪は順調に伸び続け、もうすぐ肩甲骨を突破しそうだ。緩くうねった髪は動くたびに垂れて、しょっちゅうかき上げたり肩の後ろへ払ったりしているので、さすがに鬱陶しそうだから切りましょうかと申し出ても、いつもやんわりと拒否される。

 

 眠り続ける先輩の髪を梳かしながら隠れている花を拾い出していると、首筋に指先が触れ、感触の違和感に思わず手を離した。柔らかい皮膚である筈のそこが、硬かった。髪をかき分けてみると、うなじの周辺に明らかに周囲とは様子の違う箇所がある。淡い灰色をしたその部分は、ひび割れたように乾いて、ところどころに暗い斑点のような模様が浮かんでいた。そういえば金木犀の幹の表面はこんな質感だったか、と思い出す。見るからに生命力の強そうな樹木の表皮は、先輩の静かで柔らかい皮や肉など簡単に喰い尽くしてしまいそうに見える。人間の皮膚と樹皮とがせめぎ合う境界を、不思議な気持ちで眺めた。灰色の樹皮は襟の下にも広がっているようだったが、それ以上確かめる勇気はなかった。

 

 大学を卒業してこの家に戻った頃から、先輩は時々、金木犀の樹になる夢を見ると言うようになった。夢を見たあとは、いつも決まって疲れきっていた。最初のうち、夢はごく短いものだったが、次第に時間は長く、間隔は狭くなっていった。近頃は日中に突然猛烈な眠気に襲われ、寝床に辿り着く間も無く夢の中に引き摺り込まれて、数日後に板間や畳の上で目を醒ますこともあるらしい。今回は一週間だったと言っていたが、次がいつ、どれほどの長さになるかは分からない。いつか戻ってこれなくなるであろうことは、二人とも確信を持って予感している。

 閉ざされた障子の向こう、縁側の外の庭には、金木犀の樹が並木のように連なっている。毎年秋になると、オレンジ色の小さな花が無数に開き、あたりはむせ返るような甘い匂いに包まれる。そう遠くない未来に、先輩もその列に加わるのだろう。運命には抗えないようだし、先輩自身にも抗うつもりはなさそうだ。だから自分も横で黙ってその時を待っている。

 国内にある金木犀には、雌株が存在しないと聞く。雌雄異株の植物だったところを、花付きの良い雄株だけが持ちこまれたそうだ。雌雄が揃わないため金木犀は実を作ることができず、挿し木などで増やすしかない。それを思い出すたびに、胸の裡でひそかに安堵した。どんな形であれ、先輩が何処ぞの知らぬ女を相手に子を成すなど、考えただけで吐き気がする。

 

 しどけなく転がっていた先輩の身体に、力がこもった。あ、と思ったときには遅く、髪を撫でていた指は、伸びてきた強い手に掴まれた。半身を起こした先輩がまっすぐこちらを見据えている。茶色い瞳の中心が、花が咲いたように橙色を帯びていた。この人の目はもとからこんな色だっただろうか。それとも、あの強かな花がいつの間にかこんなところにまで侵食していたのか。先輩はそれ以上動かず、何も言わない。瞬きのたびに瞳の中の花弁が揺れた。薄暗い部屋の中で、息を詰めて、ただ眼前の美しいオレンジ色を見つめ返す。

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金木犀 傘立て @kasawotatemasu

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