手紙文
あの事件から、幾分の時が立ちましたでしょうか。
ここへ来て最初のうちは、陽光の射し込むたんびに指を立てて数えておりましたが、それももう、立てるものなど筆のほどしかないではありませんか。
なので、きっと二月ほどは経過しているものと仮定して、お手紙を綴ろうと考えます。
私は昔、自分以外の人間というものが、どうして生きていられるものが、理解に酷く苦しんでおりました。
人間は物を食べる事と息をする事でその命を繋いでおりますが、私には他人のそれが観測できません。
友達の従兄弟が一昨日の夜に洋食を食べたなど、知るよしもありませんし、知りたくもありませんでした。
しかし次第に、私の知らない人間が見ず知らずの場所で、私と同じかそれ以上に濃密な人生を送っていると思うと、これほどまでに想像の余地のある事柄はないように感じてくるのです。
今に思えば、それは自分に魅力が欠けていて、おおよそ興味というものが湧かなかったのでしょう。
一年、又一年と、気づけば私は自己の成長など顧みず、三度の飯より人の飯を気にする質になっていたのでございます。
それからというもの、面と向かって話す相手には衣食住の概要と目的を詳しく問いたださねば、信用ならない体になってしまいました。
もちろん、そんな体たらくで友人や恋仲が寄ってくる筈もございませんで、貴方に縄をかけられる以前は、大学へ通う傍ら近くの洋食店で働きつつ、時折やってくる客の仕草を観察するのが楽しみの、我ながら気味悪い人間に育ちました。
お手本のようなビール腹の、スーツを着た男がですね、昼になるといつも、そこそこの量のカレーライスやステーキなんかを食いにやってくるのです。
するとある日、男が、女子高生の頼むような、野菜仕立てのペペロンチーノを注文したのですよ。
もちろん、顔には出しませんけども、注文を承った私は心のなかで男を軽く嘲るわけです。
見るからに四十路過ぎで生活習慣を見直すわけですもの。
人生半分、これまでのだらしない食生活が積み上げてきた体型を改善するのですから、普通に考えて治った頃には人の目など気にする年でもありませんでしょう。
男の注文通り、普段食べている量の半分もないような、皿にこじんまりと乗った麺を持っていってやるとですね、それはもう、堪らなく面白い顔をするのです。
どこの炊き出しにいっても、飯を出されてあんなに哀愁漂う表情をするのは見れませんよ。
いや、私がわざと、ちょっと少なめに持っていったことは悪気に思っております。
私はその後も、バッシングなんかをしながら男の様子を眺めておりましたが、呼び出しのベルを押そうか押さまいか、それはそれは悩んでおりますのです。
従業員からすれば、それはとても迷惑な行為でして、呼び出されるのを今か今かと意識していれば、当然他の作業は疎かになりますから。
しかし私は違います。
人には感情の波と呼ばれるものが存在しまして、それに当てはめれば、男はベルを押そうと決心するタイミングと、やはりやめておくかと断念するタイミングを往復しているわけでございます。
それを見極め、前者の気持ちが強くなる時にさりげなく近寄ってやると、やはり、背中を呼び止められるのです。
すみません、お会計お願いします…………。
男の声はこころなしかいつもより弱々しく、注目していなければ聞き漏らすほど、ガラスの向こうの雑踏に紛れておりました。
お金を払って、こればかりかの不足感を得られたのです。
その様子に、私は見送りながら大変満足していました。
ここからなのです。
最も重要なのは、このあとの男の行動なのです。
道路を挟んで向かいに、ハンバーガーを売ってるチェーン店があって、そこは人気といえずとも、儲けで店を改築するくらいは繁盛しておりました。
男が、ゆっくりとした足取りでドアを押しますとね、何食わぬ顔で、その店の中に入っていったのですよ。
私はもう、それが面白くて面白くて…………。
どうしようもなく、笑えてくるのです。
人間が私の思い通りに動くことが、どうしてこんなに気持ちいいのか……。
競馬のパドックで馬の調子を見たりして結果を予想する方法がありますが、そんなものは甘いですよ。
次に発する言葉とか、瞬きのタイミングとか……あとは、身長と足の長さから歩幅を予想するのも楽しいものです。
貴方ならお気づきでしょうが、私はこれを使って、あの計画を立て、そして実行しました。
あの日の夜は星の見えない曇り空で、雨の降るのやら、一分先もわからぬ悪天候でございました…………
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