獄中殺人
加茂波奏人
反省文
南本薫は本日を以て、四十余年の警察庁勤務を終える。
銀行強盗との手に汗握るカーチェイスや立てこもり犯への必死の説得など、警察になる前に思い描いた凶悪事件とは一度も遭遇しなかったし、小耳に挟むこともついになかったが、悪くない半生であったと常々思う。
世の中とは案外平和で、つまらないのが楽しいのである。
南本が無味乾燥な人生の中間地点で学んだことは、フィクションとノンフィクションの間には大きな差があるということと、年上にはろくな人間がいないということだ。
上司は人の命より自分の保身が第一で、何をするにも上下左右の人間関係に是非を問わねば腰を上げぬ軟弱者ばかりであった。
他にも勤務環境のデジタル化が他より二歩三歩も遅れていたり、喫煙所がまるで懺悔室のように狭苦しかったり、自販機のラインナップが明らかに特定の企業に偏っていたり。
警官時代の不満をあげればきりがないが、それもこれも、全ては警察庁という巨大組織の形骸化の影響が大きいわけである。
南本の憧れた理想の警官像は、時の経つにつれ風化していき崩れていった。
戦後間もなく思い描いた、世の巨悪と対峙する正義の職務としての警察官は、しだいと政治色の濃いものと推移してゆくのである。
どんなに小さな事件でも他国の政治情勢が絡めばもれなく情報規制は厳重なものになった。
若い頃には、人気のない廃ビルから転落死した男に刺傷が見つかっただとか、その男が就職したてのジャーナリストであったりすると、いろいろ憶測することはあれど、そんな事件はたいてい上層部へ逆バンジーみたく登っていくと雲に隠れて降りてこなかった。
よって、捜査中に怪しいなと思うほど、やがて事件へ真摯に取り組むのがばかばかしくなってくるのである。
南本の知る事件の中でも特に不自然な捜査の引き継ぎのあったのは、巣鴨のホテルでの練炭を用いた男女の心中案件であったが、これの不思議なところは、窓の目張りが丁寧に剥がされていて、誰か一人が二階から飛び降り生き延びていた点である。
剥がされたガムテープや窓枠、七輪から指紋が全く取れなかったから、該当者は断熱性のある手袋か何かをはめて、七輪の設置を担当していた。
唯一指紋が見つかったのは小さいメモに書かれた遺書と、アメニティグッズの使い捨てペンのニつだけだった。
その指紋と外に残された足跡を調べれば、逃げた人物は容易に特定できる筈だった。
しかし、鑑識課に証拠品が渡った後、南本を含む同期や部下たちは突然に事件担当から外されて、その後一切、事件に関するいかなる進展報告はまたとなかったのである。
この事件に関して南本が言えることはただのそれだけだ。
憶測とか、推察とか、そんなものは証拠の残さず消え去った今となってなんの意味もなさないし、もとより南本が担当から外されたのは、次この事件に介入しようものなら存在ごと口を封じるという脅しでもあり、ある種の温情でもあるのだ。
目に見える地雷を踏む兵士はいない。
簡単なことだった。
やれあの事件がどうだの、結局南本は警察官という職業が大好きで、未練がたらたらであった。
人のために働くのが仕事の本質であるならば、警察官以上に人を想うものはないと、胸を張って宣言できる。
それだけ誇れる仕事であったし、周囲からの目も悪くなかった。
南本薫という人間は、退職届を渡した今でも、その胸中は警察官である。
さて、南本の警察人生の振り返りも元を辿れば不平不満から始まった話だが、なぜ退職直後にこんな話をせねばならないかと、それは南本の職場から帰宅したすぐのこと、郵便受けに入っていた封筒が始まりであった。
「南本薫様。 お久しぶりでございます。 その節はどうもご迷惑をおかけいたした……」
不思議なことだが、茶色の封筒の側面にびっしりと、それはもうどこから読み始めたものかと困惑するくらいに文字が連なっていたのである。
内容自体はどうでもいいことで、窓の外に桜の木が見えるとか、壁の向こうから足音が聴こえてくるから、きっと自分は角部屋なのだろうとか。
あくまでも本題は封筒の中にあるらしい。
心当たりが無いわけでもなかった。
昔に軽い刑で逮捕した犯人が、刑務所内で更生して反省と感謝の手紙を送ってくるのは、別段珍しい事象でもない。
同業者との酒の席で使い古された話の種である。
今回の手紙もまたそのような、自分にとって有益な情報をもたらす存在であろうと、一種の先入観が働いていたのだ。
南本は靴箱の上のハサミを取って、厚みを持った茶封筒の封を切る。
「やァどうも。 私は今、埃っぽい畳の上に両の膝を合わせて、その一挙手一投足を寸分逃さず監視されながら、この手紙を書いております。 内容を内と外とに分割した理由ですが、どうしても、この手紙を貴方のもとまで届けるために、検閲官の頭を覗く必要があったからでございます。 つきましては…………」
それは奇妙な内容であった。
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