4:神獣


 毛色はロシアンブルーやシャルトリューに近いけど、より青みが深い気がする。


 以前は丸顔で首も短めだったのに、今は優雅ささえ窺えるすらりとしたシルエットだ。たぶん尻尾も前より長くなっている。


 特徴的なのは模様だ。金色のメッシュというか、幾筋もの蔦のような模様が脚や胴体に絡まっている。まるで「普通のイエネコ」とは別の生き物である証のような神秘さだ。


 それが、この世界に転生したさくらの、今の姿だ。


「いわゆる〝精霊種〟と呼ばれる存在かもしれんな」

「せいれいしゅ?」


 マ族とその隷魔による襲撃に見舞われた、その翌日。

 僕はさくらを連れてジン先生の家を訪れていた。


「……の前に、一つ訊いていいか?」

「……この顔の傷のことですか?」

「ああ」


 僕の頬にはさくらの爪の痕がくっきりと刻まれている。刻んだ張本人は隣で「くあー」と呑気にあくびをしている。その口に指ズボしてやりたい。


「すっかり忘れてて。この子の、さくらの禁忌を……」

「禁忌……?」


 今朝目が覚めたとき、全部夢だったのではと一瞬疑ってしまった。


 現実だと知らせてくれたのは、枕元で無防備にへそ天するさくらの姿だった。


 愛おしく撫でながら、感極まって、思わずやってしまったのだ。


 そして思い出したのだ。彼女が「お腹猫吸いガチNG」だったことを。


「忘れてた、というのは?」

「あ、いや……えっと……そう、僕の妄想の話で……」

「ああ、例の幼獣の夢か。てっきり少年期特有の空想だとばかり……まさかこんな形で現実にな、信じてやれなくてすまなかった」

「いや、そんな……」


 生前は別の世界で家族やってました、などと言えるはずもなく。


「……さて、精霊種の話だったな。そもそも精霊という言葉が、信仰や風俗によって異なる解釈を持つということは教えたな?」

「ああ、はい。えっと……エフ族のいう精霊は、ヒュムの宗教では神なんですよね」


 この世界のマナというエネルギーは、八種の属性に分けられる。


 火と氷、風と土、水と雷、そして光と影。


 エフ族はそれらを司る精霊をアニミズム的に信仰している。


「帝国の最大宗教である聖陽教では、精霊ではなく八柱の聖霊を崇拝の対象となっている。国内の各地にはそれぞれを祀る八つの神殿があり、信心の深い者はそれらを巡礼することが一つの慣習にもなっている」


 聖地巡礼、というかお遍路参りみたいなものか。


「まあ、我らエフ族の間でも精霊についての解釈は様々だがな。ともあれ、精霊という言葉は一概に『マナを司る上位存在』という意味でのみ使われるものではない、ということだ」

「はあ」

「精霊種とは、なんというか、そういった人智を超えた生態や能力を有する魔物を分類する、いわば方便みたいなものなんだが」

「要は、得体の知れない獣はみんな精霊種って呼んでるみたいな?」

「そういうことだ。地域や信仰によっては〝神獣〟と表現することもある。どちらでも好きなほうを名乗ればいい」

「そんな大げさな……」


 当の本人は僕の膝の上で丸くなっている。真面目な話をしながらも撫でる手が止まらない。


「幼体のうちに人の身に寄生し、そのマナを吸って成長する魔物がいると、そんな話をなにかの文献で読んだ憶えがある。幼体時はスライムや妖精などのマナ生物に近く、寄生期間を経て実体を持った生命として受肉すると……てっきりお伽話かなにかと思っていたが、あながち嘘でもなかったのかもしれんな」

「受肉……」


 上着の裾をめくってみる。生まれたときからそこにあった痣は、綺麗さっぱり消えている。


 あれが僕に宿っていたさくらだったのは間違いないだろう。


 先生の話が本当なら、この子はずっと僕のそばにいたのだ。この世界に転生した瞬間から。


「それがどこから来たものか、なぜお前に宿っていたのか……考えてもすぐに答えが出るものではなさそうだ。興味は尽きんな」


 それで言えば、そもそもだ。


(どうして僕とさくらは、この世界に?)


 それにもなにか理由があるのだろうか。

 世界は僕らに、なにを求めているのだろう。


「あのマ族どもを退けた、途轍もない威力の光魔法……七十年の人生において初めてお目にかかったよ。そのような可愛らしいナリをして、とんでもない神獣様だ」


 ――さくらがやつらを倒したあと、ほどなくして眠っていた人たちは目を覚ました。


 負傷者は先生とリッキーのみ。死者はゼロ、連れ去られた子供もゼロ。損害も軽微(庭を焼き尽くされたヨギさんが膝から崩れ落ちていた程度)。正体不明の隷魔の襲撃という事態からすれば、御の字の結果だろう。


「にしてもあの男、私のことや鍵の存在を誰から聞いたものか。私の古い名など、今どき巷で耳にするものでもなかろうに」

「……もしかして、村の誰かが?」

「その可能性は低いと思うが……今となっては確かめようもないな」

「あの……そもそもあいつが狙ってた〝鍵〟って?」


 あのとき先生はとぼけていたけど、実在するものだということは昨日大人たちの会話からちらっと耳にした。


「ああ……そうだな、お前ならいいか。見てみるか?」

「へ?」


 先生は杖をつきながら庭へ出て、ごそごそと物置小屋の中を漁る(かなり乱雑で汚い)。引っ張り出したのは厚紙の箱で、中には子供の玩具やガラクタが放り込まれている。


「えっと……あった、これだ」


 無造作にとり出したのは、真鍮っぽい色合いの古びた鍵だ。


「これが?」

「ああ、これが」


 特になんの変哲もなく、そのへんのお屋敷の鍵にも見える。


「〝ウィドの鍵〟、と呼ばれている。この村の秘宝だ、一応」

「これが?」

「ああ、これが」


 ウィドというのはエフ族の始祖、つまりジン先生たちの偉大なるご先祖様の名前だ。

 その人の名を冠する秘宝とやらがなぜ、こんな物置小屋のガラクタ入れの中に?


「昔は村長が保管していたんだがな、研究がてら私が預かることになった。この村で一番強いのは私だしな。保管場所に関しては、まあこうしておけば貴重品だと気づかれることもないと思ってな。木を隠すなら森の中が最も安全というものだ」

「でも、こんなボロっちい箱に……」

「見てくれはこんなだが、この厚紙にはマナを吸収する性質がある。万が一この鍵をさがそうという輩がいても見つけるのは無理というものだ、そもそも私でさえこの鍵からはなんにも感じられんがな」

「なるほど……で、その一見ガラクタな鍵は、どんなお宝なんですか?」


 鍵自体が貴重品、には見えない。鍵で封じられたものがお宝なのだろうか。


「んーとな、そこは、なんと言ったらいいか……」


 もごもごと、先生しては珍しく歯切れが悪い。


「我らの祖先から大切に守れと伝えられてきたものなんだが……その価値も用途も、実は誰も知らなくてな。これで開くのが扉なのか宝箱なのかも不明だし、それがどこにあるかもわからないのさ」

「え、なにそれ? そんなことあるの?」

「これを拵えたウィド本人が、ほとんどなんの説明も遺さなかったのさ。この村にとって伝統品なのは間違いないが、これを奪おうと刺客が乗り込んできたのも、あるいはこの村が発足して以来初だとさ」


 それはもはやお宝と呼べるものなのだろうか。


「ただ、一つだけ遺っているウィドの言葉があるんだ……この鍵は、始祖ウィドの〝罪〟を閉じたものだという」

「罪? なんの?」

「さあな。おおかたどっかに不倫相手の贈り物でも隠してたじゃないか?」


 軽口はともかくとして、罪とそれを隠す鍵……わからない、想像もつかない。


「さて……これを狙ったマ族だが、この大陸の西にある暗黒大陸に生きる蛮族だ。こちら側との接触も絶えたそいつらが、なぜこの鍵の存在を知っていたのか、なぜこの鍵を欲したのか……今ではその手がかりも途絶えてしまったが、今後はそういう輩がいることを我々は肝に銘じておかねばならんな。この小屋ももっと雑然としておかねば」

「それただのズボラじゃ……ん、さくら?」


 ふと、僕の腕の中にいるさくらが、遠くのほうを見上げている。


「どした?」


 じっと一点を見つめている。僕もその視線の先を目で追うと、


「……ん?」

「どうした?」

「いや……なんか、あそこの屋根の上に、誰かいたような……」


 黒っぽい人影があったような気がした。


「なにっ!?」

「あ、いや? よく見たら誰もいないし……」


 さくらも今はなにごともなかったように、僕の腕にぽてっと頭をもたれている。


(気のせいか)


 昨日の今日で気が立っていただけかもしれない。


 あたりに不穏な影はない。庭には柔らかい陽射しが降り注いでいる。


 見渡せば周囲には赤い瓦屋根の家々、のんびりと回り続ける風車、人や家畜がゆったりと歩く田畑。取り囲む森と、うっすらと浮かぶ北の山脈の稜線。さらさらと流れていく初秋の風。十年すごした僕の村だ。


「――肝心なことを忘れていたな」


 ぽん、と頭に手を置かれる。


「お前の望み続けた夢が、お前とその隷魔が、私とこの村を救ってくれた。改めて礼を言わせてもらうよ。ありがとう、ポン、サクラ」

「ニャン?」

「ありがとうだって、さくら」


 撫でろ、と頭をぐりぐりしてくる。お望みのままに耳の間をさわさわしてやると、目を細めて気持ちよさげだ。


 ふと、胸が熱くなって、思わず頬を寄せたくなる。そうすると、「んにゅ?」とさくらは少し煩わしそうに鳴く。


(……今度こそ)


 腕の中の温もりに、僕は誓う。


(もう二度と、離れない)


 くりん、とさくらが僕を見上げる。まんまるな目の中に僕の姿が映っている。


『ずっと――――と、一緒』


 頭の中に響いた声は、僕の前世の名を呼んだ声は、

 小さな子供のようにまっすぐで無邪気だった。


『僕はね、今はポンって名前なんだよ』

『ポン?』

『そう。僕はポン、お前は……サクラ』


 サクラは目を細め、僕の頬をぺろりと舐める。


『サクラとポン、ずっと一緒』

『一緒だよ……世界が終わっても』

 

 

 

「さて……」と先生。「いろいろと疑問は残ったが、あとは大人たちに任せるとして。それよりお前にはやらねばならないことがある」

「ん? ああ、そうですね」


 そうだ。これから、やるべきことは山積みだ。


「サクラの能力の検証、身体検査と生態調査。お前自身の勉強や魔法の修行、しっかりとサクラをコントロールする信頼関係も築かねばな」


 猫用玩具の調達、サクラ好みのトイレ砂の模索、快適なキャットタワーの建造。カリカリって自分でつくれるだろうか。


「まあ、時間はたっぷりある。一つずつ、気長にやっていこうか」

「ですね」


 昨日今日は適当なものを食べてもらったけど、きっとこの世界にも彼女の口に合うものがあるはずだ。


 ゆっくりさがしていこう。一つずつ、思い出を積み上げていこう。


 僕らには、まだたくさん時間があるのだから。


「……お前、なんか別のこと考えてないか?」

「へ? だいじょぶですよ。サクラのことだけ考えてるんで」

 

 

    ***

 

 

 オネの村から離れた森の中。


 木から木へと渡るときも、地面へ着地するときも、物音は一切しなかった。風がわずかに揺れるだけだ。


「……ふう……」


 彼女が一つ息をつくと、その足元で虫を漁っていた小鳥がぱたぱたと飛び去っていく。それまで彼女の存在に気づいていなかったかのように。


(……あの小さな獣、こちらに気づいていたか?)


 どこにでも潜り込める隠密性は結社の中でも随一と自負している。気配を消した状態で気取られたことは、たった一度しかない。


 初めて見る獣だった。

 けれど、ひと目見た瞬間、悟った。


 ――これまで相対したどの魔物とも違う。異質――いや、異次元の存在だった。


(……まさか……)


 いや、そんなはずがない。


 マ族が〝ウィドの鍵〟を狙って暗躍を始めた。そのタイミングで〝あの獣〟が再誕した。


 ――そんな偶然があるだろうか。


 いや、だからこそ偶然ではないのかもしれない。あの獣が本物であるならば。


(……関係ない)


 あいつがなんであろうと、マ族がどう動こうと。


 監視する。傍観し続ける。

 世界の調和を脅かすものを、決して見逃さすことなく。


 ――それが結社の、彼女の使命なのだ。


「…………」


 ふともう一度、村のほうを振り返る。

 あの獣の視線が、金貨のような美しい目が、今も背中に貼りついているような気がしたのだ。


「……〝ヌッコニャン〟」


 それは、かつて歴史の闇とともに消えた、神の獣の名だった。

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