第23話 戦闘1:右手と左手
「早く! 早く!」
「門を潜るのだ」
「急げ! 急げぇー!」
モランシー守備隊の呼びかけに応え、人々は、必死で泥道を走る。
彼らは、最後まで、シューヴェンに残っていた人たちだ。
病人、怪我人、妊婦、そして老人。
この人たちにとって、移動は、死に繋がる可能性がある。それでも、スパルタノス兵の略奪に怯え、逃げてこずにはいられなかったのだ。
重い車が轍を取られ、横倒しになった。車の中には、母親と病気の子どもが乗っていた。倒れたキャリッジの窓を開け、なんとか、外へ逃れようとしている。
すかさず、わたしは飛び出した。とりあえず、馬を解き放つ。幸い馬に怪我はないようだ。だが、馬車の方はそうはいかなかった。倒れた向きが悪かった。扉は下側になっており、窓は、半分ほどしか開かない。これでは、外へ出られない。
「馬車を持ち上げるから。いい?」
肩で車を押し、少しでも上向けようとする。倒れた車はびくともしない。
「頑張らねば。頑張るから。ね!」
わたしの頑張りは実を結ばなかった。しょせん、一人の力ではどうしようもない。
兵士たちは忙しかった。逃れてくる民を誘導する者、転んだ子どもを担ぎ上げて走る者。
兵士たちの大半は、難民たちの後ろに集結していた。そこに布陣し、スパルタノス軍を迎え撃つのだ。
遥か彼方から、地響きがしてきた。スパルタノスの別動隊が近づいてくる。
倒れている馬車を避け、死に物狂いで、最後尾の人々が走り抜けていく。馬車の中から、子どもの泣き声が聞こえた。
わたしは焦った。
「うーーーーん。動かない。うーーーーーん」
全身から汗が噴き出す。それを吸い取る戦闘服は、とっくに泥色に染まっている。
「何をしている! コルデリア! このマヌケ!」
横列を組み、敵を待ち受けている軍団から、罵声が聞こえた。フェーリアだ。
「だって、見捨てることはできないわ!」
掠れた声でわたしは叫び返した。馬車を持ち上げようとして、無駄にいきみすぎたのだ。
「誰が見捨てろと言った! 魔法を使え、魔法を!」
「あ、そうだった」
忘れていたわ。わたしはモランシー公女。魔法が使えるのよ!
規定の形に手を組んだ。口では言えないくらい、複雑な形だ。これが正しいかどうか、ちょっと自信がない。でも今は、やるしかない。
「〇△×××:@@」
ふわり。
あんなに重かった馬車が、ふわりと浮き上がった。良かった。手の形はこれで正しかったみたい。
馬車は、上へ上へと上がっていった。
上へ上へ。
どこまでも。
頭上高く持ち上がった馬車から、母と子の悲鳴が落ちてきた。
「やだ。太陽に近づき過ぎたら溶けちゃうわ! 〇△×××:@@」
慌てて、大きな声で呪文を繰り返す。声が大きければいいってわけじゃないんだけれど。
「ばか、横へ動かすんだ!」
フェーリアの怒声。
「え? それって、どういう……」
「〇△***:@@!」
返事もせずに、フェーリアが唱えた。すると、馬車は静かに下降し、横に滑り始めた。
馬車の中の泣き声がぴたりと止んだ。
「ああ、よかった」
へなへなと、わたしは、泥の上へ座り込んでしまった。
……。
「何を呆けている! 戦いはこれからだぞ!」
フェーリアの言う通りだった。
シューヴェンからの難民は、今やモランシーの領土に入っていた。私たちの背後では、従軍医師らが飛び回っている。もともと具合が悪いのを、無理を押して逃げてきた人だ。彼らを病院へ収容しなければならない。
「コルデリア。こちらへ」
国境に沿って、軍は横に列を組んでいた。前の兵士が屈み、後ろの兵士がその肩に銃口を乗せている。
「これより結界を張る」
スパルタノスの軍は、もうすぐそばまで迫っていた。レメニー河に沿って、怒涛のように南下してくる。
軍旗が翻るのが見えた。先頭の騎兵隊は、あと少しで、射程距離に入る。
「無駄に撃つなよ。私とコルデリアが倒れるまで、一発も撃ってはならぬ」
兵士らにフェーリアの指示が飛んだ。
守備軍には、武器弾薬は少ししか残されていない。大半は、出陣した父の軍が持って行ってしまった。補給経路を絶たれた時の用心だ。
小規模だが、モランシーには、軍需工場がある。足りない分は、おいおい生産すればいいと、父は考えていたようだ。
まさか、こんなに早く、スパルタノス軍と対峙するとは、予想していなかったのだろう。
「いいか。コルデリア」
「はい」
「わたしは左手西側に結界を張る。お前は右手、東側だ」
「任せて!」
「右だぞ。ペンを持つ方の手だ。間違えるなよ」
「ええと、それは、清書の時かしら? それとも、下書き?」
「お前は下書きと清書を違う手で書いているのか!?」
「そうよ。知らなかったの?」
わりとよくあることよね?
「初めて聞いたわ!」
フェーリアは叫んだ。
「お前の字が下手なわけがよくわかった。だが今は、それについて論議している場合ではない! とにかく、右だ! 私がいない方の側だ!」
「わかった。手首にほくろがある方ね!」
「ほくろで識別していたのか……」
結界を張る魔術は強大だ。魔法を間違いでもしたら、結界どころではない。どのような天変地異が起きるか、わかったものではない。
間違えたら大変! 手首のほくろが良く見えるように、大急ぎでわたしは、戦闘服の袖をめくった。
湿った泥の上を、敵の馬の蹄が、乱打している。彼らの後ろから、太鼓の音、行軍ラッパの響き、歩兵たちの足音。先頭前衛集団の竜騎兵達が銃剣を抜いた。馬を走らせながら、照準を合わせた。
わたしと。
フェーリアに。
二人、ほぼ同時に呪文を唱えた。
ぎりぎりの瀬戸際で唱える、公女の呪文。
民を守り、領土を守る、聖なる祝詞を。
……、
うまく言えた! もちろん、右と左も間違えなかった!
当たり前だ。わたしは、やればできる子、
「コルデリア! この、馬鹿者がぁ!」
フェーリアが雄叫びを上げた。
東側の大地の、土が爆ぜた。大量の泥が舞い上がり、次の瞬間、凄まじい勢いで降り落ちてきた。
「"gna" は、“ぐにゃ” じゃないって、何度言ったらわかるんだ! "gna" は、“ニャ“ だ!」
“ニャ” は、かわいく言わなければならない。そこがこの呪文のキモだった。
……あのフェーリアが可愛く?
彼女は完璧だった。普段男勝りだくせに、そこだけは、とってもキュートで愛らしい声で "ニャ♡" と言ったのだ。
まるで、ヘラクレスがドレスを着て、シナを作っているようなものだ。思わず気を取られてしまっても仕方がないではないか。
「あんなに教えたのに、また呪文を間違えやがってーーーーーーーーっ」
降り落ちる凄まじい泥をものともせず、大口を開けて、フェーリアが喚いた。つか、もう手遅れだわ。
「お義姉さま、そんなに叫ばれますと、口の中に泥が入ります!」
頭を庇い、やっとのことで、わたしは言い返す。
「黙れ! この未熟者めーーーーーーーーーっ!」
最後の方は、咳になり、フェーリアの声はフェードアウトした。泥が喉に詰まったのだ。ほら。言わんこっちゃない。
……。
泥のカーテンが上がった(正確には、泥の雨が落ち切った)。
そこには、巨大な溝ができていた。
「やった! 北の国境の外に、溝ができたわ!」
仔猫が鳴くように可憐に、と教えられていた “ニャ” を、“ぐにゃ” って汚く唱えてしまったけど、結果オーライよ。
ぺっと、フェーリアが、口の中の泥を吐き出した。
「溝が、スパルタノス軍の前にできたのならな!」
「え?」
「おまけにお前の溝は、私の結界を押しのけやがった」
スパルタノス軍は無事だった。溝は、彼らの後ろに、長々と穿たれていた。もちろん、フェーリアが張ったはずの結界は、跡形もない。
泥の襲来に驚き、蹲っていたスパルタノス兵達が、徐々に起き上がっていく。
軍の無事を確認した指揮官が、にやりと笑った。黒髪で、頬髯を生やしている。
「行軍停止! 砲兵隊、前へ!」
「お義姉さま! やつら、砲撃してきます!」
「見ればわかる!」
当然、わがモランシー守備軍には、大砲はない。
モランシーの兵士らは、途方に暮れていた。わたしもフェーリアも生きているから、砲撃していいかどうか、戸惑っている。たとえ砲撃命令が出たとしても、大砲に小銃では、勝ち目はない。
「まずいわあ」
「誰のせいだ、この粗忽者!」
守護魔法は、強靭な魔法だ。体力を消耗する。続けて、何度も発動できるものではない。
その上、わたしたちは、同時に、呪文を唱えた。東と西に同じように結界を出現させるためだからそうするしかなかったのだが。
今のわたし達姉妹の状態は、端的に言えば、空っぽ。もはや、打つ手がない。
おまけに、モランシー軍には、ほんの少しの兵力しかない。武器弾薬も限られており、しかも、大砲含め、遠距離砲がない。
絶体絶命とは、まさにこのことだった。
兵士たちの動揺が伝わってきた。
この人たちだけでも、無事に逃がさなければ。でも、どうやって?
◆───-- - - -
※
竜騎兵というのは、銃を携行した騎兵のことです。発砲し銃が火を噴く様子を、竜が火を噴く様子に例えています。
※
以下は蛇足です。付き合ってもいいよ、って方だけ(コルデリアの読み間違いについて)。
"gna" を ”ニャ” と読むのは、フランス語です。可愛く発音しなくてもいいのですが。
ついでに、初っ端コルデリアが間違えた "ei" ですが、”アイ” と発音するのは、ドイツ語読みです。日本語の「愛」とは全く関係ありません。
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