一輩子
——ときは古代中国
「お逃げください
故宮の
残された麗馨は走った。心の底にある彼女との思い出が体を動かすとともに、足枷にもなった。
侍女といっても、彼女と歳が近かったため、よくお茶を飲みながら雑談をしていた。北の国から来たという彼女の話はどれも新鮮だった。行ったことはないが、雄大な大地で目をとろんとさせて雌牛の乳を飲んでいる彼女が想像できた。「いつか行きたいわ」というと「一緒に行きましょ」と、無垢な花を顔に咲かせていた。そうやってたわいもない話を重ねるのが麗馨にとって至福であり心の支えだった。
崩れそうな心を抑えるように、胸を鷲掴みした。霞む視界を袖ではらう。
服がボロボロになるのも気にせず走った。煌びやかな正装は今やもう必要ない。自分の血が着くのもお構いなしに、片目を押さえながらある場所へ向かった。
燃え盛る故宮、崩れ落ちる屋根。
「
"バキッ!!"
最期を通達するように柱が折れた。支えられていた天井も重力に任せて落ちる。とっさに振り返ったがときすでに遅かった。体は反応できず、目を見開くことしかできなかった。
「麗馨!!」
廊下の奥から全力疾走してきた男が身を投げる。間一髪で彼女を抱き抱え、地面に叩きつけられる。
周囲の安全を確認した男は彼女をおろすと、いつもの優しい笑顔で見つめた。
「大丈夫でしたか麗馨……ってその目どうしたのですか! 私がもっとそばに入れればこんなことには……すまない麗馨」
「あぁ……! 承恩様……会いたかったです……承恩様!」
承恩は髪の毛を撫でるように頬を近づけた。こうしていたいのは彼も同じ。しかし時間がない。
震える彼女の両肩を持って、欲を引き剥がした。
「麗馨、よく聞きなさい。敵がすぐそこに来ている。もうここは終わりだ。裏口に私の侍女が待機している。あなただけでも逃げなさい」
「嫌でございます。私は……麗馨はあなた様と一緒にいます。いつまでもあなた様のそばにいたいのです」
麗馨の願いを妨げるように、煙が黒さを増した。血が混じった咳きをしたんだと、彼の服を見て気がついた。
いくら説得しても麗馨は承恩を掴んで放さない。悠長に話している暇はない。ふたりの耳にはっきり聞こえるほど、近くに敵がいる。お互いにこれが最後とわかっていた。わかっていたから、離れたくなかった。彼の言葉に現実を帯びていたから、もう二度と会えない。そう思ったのだ。
「承恩様! もう
「いいところに来た。お前とは長い付き合いだったな。最期の命令だ、彼女を、麗馨を安全なところまで連れてってくれ」
護衛隊長がその意味を察したらしく、麗馨を連れ出そうとした。しかし、それを振り切り承恩の手を取った。言いたいことがありすぎて喉に詰まる。わがままだってわかっている。無責任に逃げようとか好きだって言えたらどれだけ楽か。
強く握られる手に涙が落ちた。
「あなたはいつも他人のことばかり……少しは自分を大切にしてよ! これで最期なんて嫌です……!!」
「私はあなたを愛しています。いつまでもどこにいようとも。琴の音色をたどって必ず会いに行きます」
ふたりは顔を近づけ、涙を味わった。後ろ髪が引かれるのはどちらも同じ。覚悟を決めた承恩は剣を構えて背を向けた。なにも言わず、炎に包まれた故宮へ消えていった。
麗馨は彼が走って行ったほうを眺めていた。彼はいない。でも彼の余韻に浸りたかった。
「待ってますから……」
彼と離れないように、言の葉をそこに置いていった。彼がたどってきてくれるのを信じて。
◯
——数十年後
竹の森が有名な村に、奇妙な噂ができた。この森に入ると、二度と戻ってこれないというものだ。本当かどうかは定かじゃない。村人によると、いつどんな時間でも森の奥から琴の音色が聴こえるらしい。全員口を揃えて“亡霊の誘い”と呼んで恐れている。
そんななか、ひとりの男が森の中へ入っていった。右も左もわからない森の中、なにかに導かれるように進んでいく。
しばらく歩き続けていると、突然開けたところに出た。小さな湖が太陽の光を反射している。すっと見渡すと、
「
「……承恩!」
そこにいたのは麗馨だった。目から大量の涙を流し、裸足のまま駆け出した。
“ガタン”
大切な琴が地面に落ちるのもお構いなしに走った。
もたつく足を置いて気持ちが先走る。会えた、やっと会えたと涙をこぼして走る。そこいた承恩は昔と変わらない美しい姿だった。
彼の胸に飛びこむ。強く抱きしめる。彼を感じる。それを受け入れるように、彼も優しく手を添える。昔となんら変わりのない仲睦まじい姿が湖に映った。
遠い日の約束が果たされた。今度は自分の番だと、麗馨は言の葉を一枚、彼に渡す。
「
「
その瞬間、承恩の身体が光だした。息をする暇もなく、泡のように弾けた。光の粒は天高く昇り、だんだんと消えていった。
麗馨は不思議と満足げな表情だった。庭園で彼といたときのような柔らかい花が咲いてる。
消えた恋人の代わりにひとつの盃が残っていた。
「
麗馨は涙を流した。それは悲しみの涙ではなく、長年心に宿っていた彼を想う涙だった。一粒、また一粒と盃に入っていった。
彼と交わした言葉の数だけ、尊さを感じる。植物の蔓のように、ひとつ思い出せばもうひとつ思い出す。言の葉をつなげた蔓の先にはなんと書かれているのだろうか。
ある日、盃がいっぱいになった。
ある日、盃から溢れ出した。
ある日、溢れ出した涙は湖へ流れた。
ある日、琴の音色は聞こえなくなった。
村人いわく、奇妙な光が、北の空に飛んでいったそうな。
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