翳り

はるより

カフェー・マスカレェドにて

 朝夕紡はその日、久方ぶりにカフェー・マスカレェドの戸を押し開いた。

 からんからん、という扉に飾られた鐘が軽快な音を鳴らし、店内に客人の存在を知らせる。

 店内は光溢れる街通りに比べると少し薄暗い。

 と言っても陰気な暗さではなく、眩しすぎる日差しを柔らかな木綿のカーテンで遮り、天井から下がる傘付きの白熱球が暖かな暖色の光で照らしているため、むしろ落ち着いた雰囲気であると言えよう。


 店内には、紡の耳にはあまり馴染みのない音楽が流れていた。

 ふと目を向けると、夜には酒を提供するのであろうカウンターの上で、ラッパのような金具付きの機械に乗せられた円盤がくるくると回っているのが見える。

 音楽はその金具の中から聞こえてきているらしい。

 紡はその機械へと引き寄せられるように歩み寄る。

 確かこれは、レコードと言ったか。

 以前に街中の輸入品の販売店で、店頭に並んでいた物を絃が珍しそうに眺めていた事を紡は覚えていた。


 以前にここを訪れた時には、確かマスターはこのカウンターの向こうに立っていたはずだ。

 どこか浮世離れしたような、不思議な空気を持つ人物であった事が印象に残っている。

 ……確かあれは、紡が絃と共に誓約生徒会カヴェナンターとして戦う事を誓った日。

 もうあれから、一年以上の時が経つというのか。


「……残念だけど、今は店主は不在だぜ?」


 ふと、窓際の一番奥の席から紡の背に声がかけられる。

 そちらを振り返ると、脚を組んで椅子に浅く腰掛けた『少女』がそこに居た。

 抜けるように白く陶器のように滑らかな肌、黄金の絹糸に美しく繊細で、肩を滑らかに流れ落ちる髪。

 どこか作り物のような美しさを持つ人だが、その服装は紡には見たことのないような物である。

 鳶職の身につける物に似た脚絆と、ブーツと呼ばれる靴に近い形状の履物、それから着物のように袖にゆとりのある貫頭衣に近い形状の上着を着ていた。

 なんとも不思議な格好の人物である。

 紡は思わず、その姿をまじまじと眺めてしまった。


「おい、あんまりジロジロ見んな」

「し、失礼しました」


 少し機嫌悪げな彼女の声に、紡は一歩後退りながら頭を下げる。

 そこで、紡はようやく彼女が銀でできた仮面を着けている事に気がついた。

 仮面は右側に百合を象った装飾が施されており、可憐な少女のイメージをより引き立てている。


「仮面……」

「おう、ガキンチョ。今日ここでのドレスコードって奴さ」

「がきんちょって……」


 紡は自分よりも身長の低い少女からそんな風に評され、少しムッとした表情を浮かべる。

 というか、この人物の語り口は初対面の相手に慣れ慣れすぎやしないだろうか。

 そんな風に考えていると、少女は椅子から立ち上がり、紡の目の前まで歩み寄る。

 紡は少しびくりとしたが、ここで後ろに下がってしまうと男が廃るような気がして、その場で仮面の奥に隠された澄んだ青色の瞳を見つめ返す。


「着けろよ、仮面。お前も持ってるなら、な」

「……分かりました」


 少女は露わにした口元をニヤリと歪めた。

 紡は懐から、鼻から上を覆い隠す形状の『狐の面』を取り出す。

 狐の耳の辺りに淡赤色のアヤメの飾りが付いたそれを、少女の目の前で着けて見せた。

 それを見た彼女は嬉しそうに手を叩いて「Well done!よくやった」と笑う。


「完璧だぜ兄弟、そいつは確かに仲間の証だ」


 そう言って握手を求めるように手を差し出してくる。

 紡は、複雑な気分になりながらその手を取った。

 何となく、悪い人物ではないように思える。

 しかし少々無礼というか、自己紹介もしていない相手を兄弟と称す心境が紡には理解ができなかった。


 その時、店の奥にあったもう一つの扉の向こうから足音が聞こえてきた。

 扉には紡には読めない何らかの文字が書かれたプレートが掛けられている。

 程無くして扉が開かれ、そのプレートはゆらゆらと左右に揺れた。


「ネージュ先輩、戻りました!」

「ん、思ったよりも早かったな」


 扉の向こうから現れたのは、桜の帝都では見られない分厚く大きな硝子の眼鏡のようなものを掛けた男性だった。

 その眼鏡はパイロットゴーグルと呼ばれるものである。彼は地に足をつけて歩いていたが、本来は鉄の鳥で空を飛ぶ操縦士が着ける物だ。

 男性は人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。


「奏多とエルさんは、もう少し向こうで調べ物をしてから来るそうです」

「へぇー、てかお前よく枝園を置いて大人しく帰ってきたな」


 紡は目の前の二人を見比べる。

 少女はネージュと呼ばれていた。

 また、男性が少女を『先輩』と呼んでいたという事は……少なくとも、男性から見て女性は目上の存在にあたるのだろう。

 その視線に気付いたのか、男性は少女に何かを言い返そうとするのをやめて、ふと紡の方へ顔を向ける。


「初めまして、僕は裁貴サバキ正義ジャスティス!君と同じ誓約生徒会の一員だよ、よろしくね!」

「……よろしく、お願いします」


 紡は歯切れ良く自己紹介を済ませる男性に少々たじろぎながらも、頭を下げる。


朝夕あけくれつむぐと申します。よろしくお願いします、裁貴さん……と」

「紹介が遅れたな、ネージュ・アマシュトラだ。ネージュで良い」

「はい、ネージュさん」


 金髪の少女とも、紡は改めて礼を交わす。

 しかし、と紡は二人を見て思った。

 彼らは耳馴染みのない名前をしているようだ……ということは、霧の帝都の人間なのだろうか。

 しかし、あちらの国からも近年では様々な品が帝都に流れ込んできているが……その中で見たどれとも、彼らの身に付けているものは様相や雰囲気が違っているように見える。


「君は、桜の帝都から来たのかい?」

「はい。お二人は、霧の……?」


裁貴が尋ね、紡は頷きつつ訊き返す。

するとネージュはちっちっち、と顔の前で立てた人差し指を左右に揺らして見せた。


「残念ながら違う。俺達は桜の帝都でも霧の都でもない……別の世界から来た」

「べ、別の世界……!?」


 紡はその言葉を聞いてギョッとする。

 数年前に突如謎の街が空の向こうに現れ……文化も思想も全く違った『異世界霧の都』の存在が発見された。

 それにすら魂消ていたのに、その他にも世界があるだなんて。


 ……ほんの少し前まで、紡にとってはこの帝都こそが『世界』であった。

 例えば、桜花十二階の天辺まで登れば、この世の全てを眼下に収められると本気で信じていたのだ。

 自分が生きていた世界は、なんと狭い世界だったのだろう……最近、彼はそう思う事がある。


「まぁ、無理もないよな。階層世界アーセルトレイ出身の輩とは違って、『別の世界』なんてそうそうお目にかからないだろうし」

「桜と霧も、気軽に行き来できる環境ではないみたいだしね」


 うんうんと頷き合っている裁貴とネージュ。

 紡からは、そんな二人はまさしく自分とは違う『人種』であるように見えた。


「というか、紡。お前一人で来たのか?パートナーは?」

「ええと、今日は連れてきていません」

「どうして?」

「……その、彼女の事についてマスターに相談があったので」


 紡は少し俯きがちにそう答える。

 相談事、と言っても非常に抽象的な内容だ。

 紡自身にも上手く言語化出来るかどうか分からない。

 ただ、絃の中に息づく『桜の花』が、花弁を散らしつつつある……そんな情景を、夢か現かの判断もつかない中で見たのだ。

 それがまるで、絃自身の余命を表している様に思えてならなかった。

 ……とはいえ、紡から見た絃は今のところ元気そのものだ。

 何の証拠も症状もない以上、本来は紡の思い込みで片付けられてもおかしくはないだろう。


 しかし紡が全く予想だに出来ないような世界から来たこの二人なら、何かこの胸の騒めきに心当たりもあるかもしれない。

 そう思い、紡はぽつりぽつりと彼の抱えた不安を語った。


「心の桜、ねぇ……」

「はい。それも、絃が言っていた事ですから……俺にもどういったものかは」

「おい、何か分かったか?」

「いえ、僕もさっぱり」


 二人の言葉に、小さくため息をつく紡。

 しかし『さっぱり』と言った割に、裁貴は口元に手を当てて何かを考え込んでいるようであった。

 ネージュは腰に手を当て、グイッとその顔を覗き込む。


「気になる事でもあるのかよ?」

「うーん……僕の友人に、昔は誓約生徒会に所属していた女性がいるんです。」


 裁貴はその友人について語り始めた。

 その女性は、父親により非科学的な手段をもって身体を『改造』されていたという。

 女性はパートナーと共に星の騎士に覚醒したが、エクリプスに転じてしまう。

 詳しいことは判明していないが、その一件が影響してか、身体の構成が不安定になり……一度は命を落としかけたと言う。


「紡には聞き慣れない言葉が多いだろうが……ようは、この世界で言うところの『霧の騎士ミストナイト』に似た奴らが、悪魔か魔物にでも心を巣食われたって話さ」

「そんなことが……それで、その人は?その後、助かったのでしょう」

「うん。その手段こそが、『この仮面を受け取る事』だった。」


女性の命が危ぶまれた大きな原因の一つは、エクリプスとなった後に敗北し、星の騎士としての力を失う事にあったらしい。

それを知ってか知らずか……誓約生徒会の総帥は女性とそのパートナーの前へ現れ、仮面を被る事で再び世界を守る騎士としての力を手に入れるか否かの選択を迫った。


「二人が仮面を手にすると、その人の容態は安定した。それから数日間はわからないけれど、一週間もすれば何事もなかったように学校に来ていたよ」

「……その人の、今は?」

「紆余曲折はあったけれど……今は誓約生徒会の資格も失って、戦うことはできない。だけど彼女らしく、平穏に暮らしてる」


裁貴の言葉に、ほっとした表情を浮かべる紡。

しかし、隣のネージュは腕を組んで首を傾げていた。


「んじゃ、結局のところその病気?体の不調?は女神様に治してもらったっていう寸法か?」

「はい」

「だとしたら、紡のパートナーが似た状況だとしても同じやり方で解決できるかは微妙なとこだな」

「……そうですね。それに彼女たちは願いを叶えるまでに、僕が知ってる限りでもかなりの数の勲章を集めていたはずですから」


 ……この世界は、二人の女神に観測されていない。

 霧の女王という、女神に比類する存在が居ることは確かだが……彼女に女神と同じ事が可能だという確証は、少なくともここにいる三人にはないのだ。


「朝夕、僕のただの思い込みかも知れないけど……少し不安要素があるんだ。聞いてくれるかい?」

「……はい」

「恐らく誓約生徒会の仮面には、ある程度持ち主の心身を保護する機能があるんだと思う。……一度ロアテラの眷属に堕ちた者が、再び誘いを受ける事がないように」


 それは、言葉通りの内容であるならば歓迎すべきことのように思えた。

 それでも、裁貴の表情は優れない。


「君達は既に仮面を持っているね。なら、君のパートナーは表面上は平気そうに見えても……それを失えば、途端に、という事も考えられるはず」

「それって、今の絃は仮面があるから命が繋がっているだけだと言いたいんですか……!?」

「あくまで可能性の話だよ、でも気付くのが遅れたら取り返しのつかない事だってあるから」


 裁貴は、僕は二度とあんな思いはしたくないし、させたくないんだと続けた。

 その真剣な表情は、紡に重ねた誰かへ向けられているようにも見えた。


「とにかく、俺らだけじゃわからない事が多すぎる。もうそろそろ総帥も戻ってくるはずだから、一通り話を……」

「おや、お呼びかな?」


 話し込み、接近する人物の気配に全く気づかなかった三人は、弾かれるようにして声の聞こえた方を振り返る。

 そこには、浅黒い肌で長身の男性が立っていた。

男性は霧の都で一般的に流通している黒く艶のある生地の外套を羽織っており、形の良い切長の瞳がニコリと細められた。


「総帥……」

「待たせてすまなかったね、少しついでの用事を済ませてきたんだ」


 ネージュが総帥と呼んだ男性は、外套を脱ぐと店内に設置されていたポールハンガーに掛ける。

 その時男性の陰から、一人の少年が姿を現した。

 どうやら三人からは彼の姿は男性に隠れて死角となり、今まで気付かなかったらしい。


「へぇ、あんた総帥って呼ばれてるんだ。」

「まぁね。それだけじゃない、他にも色々な呼び名があるよ?ここでの私は『マスター』だ」

「ますます謎めいてきたね、『あしながおじさん』?」


 その少年は、紡よりも三、四寸ほど背が低いようであった。

 服装から、彼は霧の都に住む子供なのだろう。

 右半分が黒で左半分が白色、両目の穴の下には涙のような模様が描かれた不思議な仮面を着けていた。


「今日はやけに新顔の多い日だな」

「前から同胞として活躍はしてくれていたのだけど……なかなか顔を合わせる機会がなくてね。折角だからさ」


 ネージュは総帥の言葉にふぅん、とだけ返し、そのまま少年の目の前まで歩み寄る。

 ネージュと少年はほとんど身長が変わらなかったが……少年はひどく痩せているようで、彼の方がひと回りも小さく感じられるほどである。


「ネージュだ。誓約生徒会同士、宜しくな」

「……」


 少年は、差し出された手とネージュの顔を見比べていた。

 その様子に、不可思議そうに首を傾げるネージュ。

 やがて少年がその手を取る。


「『アベル』です。宜しくお願いします、先輩」


 少年がそう名乗った時、マスター……総帥が小さく、おや、と呟いたのが紡の耳に届いた。

 不思議に思い総帥の顔を見るが、その時の彼の様子に特に変わりはないようであった。


 裁貴に続き、紡もそのアベルと名乗った少年に自己紹介を済ませる。


「紡、君もよく来てくれたね。ここへ出向いてきたという事は、何か用があったんだろう?」

「…‥はい」

「顔色を見るに、そう単純な内容じゃなさそうだ。コーヒーとお茶を用意しよう、テーブルに着いてゆっくりと話そうじゃないか」


総帥はぐるりとその場に集まった四人を見渡しながらそう言った。

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