僕とチョコレートおじさん

岸正真宙

僕とチョコレートおじさん

 あの日——

 ちょっとだけ肌寒さを感じ始めたあの日に、僕の自宅の郵便受けにチョコレートおじさんが住みはじめた。それはまるで、枯れ葉が風に吹かれたら落ちて路上を埋め尽くすのと同じように、とても自然に僕に起こった出来事だった。本当に当然のように——



 数日前、僕の郵便受けから甘い匂いがしていて、でもまあ、どこかから香る芳香剤かな、なんて思いながら、新聞を手に取って見たら、あちこちにチョコがついていた。最初は誰かのいたずらだと思い、自分が嫌がらせ受けるほど他人に嫌われるようなことをしたかと思い返してみたけれど、そんな覚えもないので何かの手違いだったんだろうと思いなおした。だから、翌日にでも普通の郵便受けに戻ると思っていた。だけれども、翌朝の新聞もチョコだらけで、その翌日も、その翌日も……

 僕は、全く困ったものだと思い、郵便受けの中を掃除しなければと思いたった。濡れ雑巾と、複数の新聞用紙を準備して、ゴム手袋をつけて、散らかった自分の郵便受けを掃除し始めた。それにしても、一人暮らしのマンションにはどうして、こんなにたくさんのチラシが来るのだろうか。ある意味、嫌がらせだな、とか思いながら、郵便受けに溜まったチラシを洗いざらい捨てて空っぽにしたら、その隅に居たのがチョコレートおじさんである。


 チョコレートおじさんはその名の通り、チョコレートで出来た小さなおじさんだ。チョコレートおじさんは、もちろん僕に喋ったりしてくれないので、本当の名前は僕には分からない。だから、僕は見た目の通りの名前をつけた。僕の狭い郵便受けが広く感じられるほどチョコレートおじさんは小さく、それにチョコなので茶色く、僕はちょっと可愛いなと思ってそのままにしておくことにした。おじさんは、恐らくお腹に腹巻きをしてると思う。あと、多分一升瓶を握ってるんだと思う。それから、胡座をかいている。いかにもおじさんらしいおじさんだった。まあ、多分だけどね。

 もちろん、おじさんを追い出して、きわめて普通な郵便受けに戻すことも出来なくなかった。ただ、追い出されたチョコレートおじさんが僕の知らない人の郵便受けをチョコだらけにしても迷惑がかかるなと思い、外に出ていて間違えて子供が食べてしまったら、なんとなく良心の呵責に苛まれそうだった。そう想像したら、とにかく、僕はチョコレートおじさんをそのまま僕の郵便受けに住まわせようと思った。


 僕がチョコレートおじさんと初めて目があった時、少し悪いなと言わんばかりに右手を上げていた(上げた手が右手なのかは分からないけれど)。それから禿げている額を(いや、チョコレートだからつるんとしているだけで、禿げているとは限らないのだけど)少し掻いて照れていた。おじさんの性格は悪くない、そんな風に思えた。まあ、そんな感じで僕とチョコレートおじさんの日常が始まった。きわめて、普通に。




 🍫




 チョコレートおじさんは新聞が好きだ。おじさんだからなのかもしれないが、もしくは人間だと思っているからなのかもしれない。或いは人間のことをバカにしているからなのかもしれない。とにかく、新聞が郵便受けに入ってくるとむさぼり読んでいた。それでおじさんが何を思い、何に杞憂を持つのか、僕には想像出来なかった。

 ただ、おかげで、僕が読みたい記事は基本的にはチョコだらけで読めない。テレビやSNSをあまり見ない僕は、新聞が唯一社会を知る情報源なのに。でも、チョコレートおじさんはきわめて熱心な読者に数えられると思う。新聞配達をしている人が知ったら、少し嬉しくなるくらいの。一面、社会面、それから政治面、経済面。加えて、ほっこりする街の発見と、特集記事まで読んでいる。僕が郵便受けをそっと覗いて、チョコレートおじさんの様子をうかがってるわけじゃない。それは、新聞を広げれば分かるのだが、おじさんが座ってみたり、歩きながら見たりしていることが、足跡のようにチョコがついているのでよく見て取れるだけだ。たまにすけべな記事があったら長居したんだと分かる(座ったお尻のあとが色濃くついているんだ)。翌日、その記事をチョコレートおじさんに見せたら、すごく照れて腹巻きで顔を隠した(腹巻きもチョコなのでチョコの中に隠れたのかもしれないが)。

『ホクロの場所とエロさの関係』

 何読んでだよ、すけべだな。




 🍫




「チョコレートおじさん、今日のダースを置いとくよ」

 と、これがチョコレートおじさんへのご飯になっている。多分、ご飯なんだと思う。それを食べているところを見たことがない。見ようと思ってじっと待っていると、ドアを閉めろと言う慇懃なジェスチャーをされた。食事をするところを見られたくないなんて、なんだか怖いアニメみたいじゃないか。でも、だいたい翌日には置いておいたダースがきれいに無くなっているのだから、恐らく食べているに違いない。何度も食事用に置いて分かってきたが、チョコレートおじさんはダースと明治のチョコが好きみたいだ。。

 僕はなんとなく好奇心でその他のチョコを試しであげてみたことがある。例えば、ルックをあげてみたら、四つの味の中からバナナだけ残してた。なんだか腹が立ったので、今後はあげないでおこうと思った。その他にも、ラミーをあげたら、様子がおかしくなり二日ほど原型を留められなかったみたいで、ずっとドロドロになっていた(そもそも元の形が溶けたチョコなのだから、原型に戻ったとも言える)。あと、アポロをあげたら、女の子みたいになってモジモジしていて、気持ちが悪かったし、チロルチョコの時は、なんだかすごい剣幕で怒っていたのであげるのをやめた。あの様子では、多分チロルチョコに説教していたんだと思う。チョコ界の中で、きっと遺憾な出来事でもあったに違いない。

 そんなわけでおじさんのご飯は、ダースが一番良いという結論にいたった。何より、計画的にあげることが出来るわけからだ。途中で飽きないのかなと心配にもなったが、そういうものでも無いらしい。ただ、あげすぎはよくない。だいたいどんな生き物でも、偏食することは健康を損ねる。そういうものだ。そんなわけで、僕はいつだって会社帰りのコンビニのお菓子の棚に行って、年頃の少女よりも頻繁にチョコを買うのが日課になった。




 🍫




 チョコレートおじさんが住みついてから、僕の郵便受けはほんのり甘く香る。だからその前を通ると、少しだけ鼻腔を刺激して、糖分欲求がそそられたりする。それだけなら、まだ変に思われないだろう。だけど、たまにチョコレートおじさんが投函口からピロピロとはみ出てる時がある。脚だけとか、お尻をプリプリとか、最悪の場合は顔を出してる。


「何やってんだよ。住むのはいいけど、変な噂を立てられるのはごめんだよ」


 僕がチョコレートおじさんに向かってそれを言ったら、すごいしょげてしまった。そんなにしょげると思っていなかったで、僕は少し悪いことをしたと思って反省をした。

 おじさんが何をしたかったのかと聞いて見たら、話せないので直ぐには分からなかったけれど、どうやら、多少は体を外に出したほうが良いらしい。おじさんの真剣なジェスチャーのおかげでなんとなく伝わった。それは天日干しみたいな効果があるのかもしれないし、ほんのり溶けることはおじさんにとってはとても重要なことなのかもしれない。それならばと思い、ピロピロ行為は周りに人が居ない時に限るとお願いをした。幸い我が家の周辺は、人通りが少ない。チョコレートおじさんのそれがピロピロ出ていても気づかないだろうと予想出来た。だいたい見つかったところでチョコレートなんだから、世間にとって何も都合が悪いことはない。




 🍫




 ある時、いつものように郵便受けに新聞を取りに行ったら、チョコレートおじさんが飛行機の形になっていた。「何やってるの?」と聞いたら、身振り手振りで、旅行の広告記事を見て飛行機になりたくなったらしい。なんとおじさんは自分の形を変えることが出来るらしい。気づかなかったが、考えてみれば当たり前だ。僕はなるほどと思い、海外旅行の雑誌を(例えばるるぶとか、地球の歩き方を)いくつか買ってきて、切り抜いてあげた。それを見たおじさんは、すごいテンションで喜んでくれた。フリフリしているお尻がぷるぷると光っていて、恐らく肘をついてその記事の切り抜きを見つめていた。その後、天を見上げて(でも郵便受けの天井だけど)手を伸ばしていた。それを見ていて、僕もなんだか純粋に嬉しくなった。

 次の日、開けるとおじさんはベルギーの首都ブリュッセルになっていた。その次の日はスペインのフリヒリアナの小高い丘にある家になったり、その次の日はブターンのタクツァン僧院になっていた。おじさんは自分の持ちうる創造力で、まるでその場所に行っているかのような妄想旅行をしているのだと思う。おじさんが僕なら、今すぐにでもトランクケースを片手に、飛行機に飛び乗っているのかもしれない。おじさんは素敵な想像力を持っているんだなぁと思った。

 僕は、おじさんに素晴らしい造形だと褒め称えた。

 チョコレートおじさんはめっぽう照れていて、顔を赤らめていた(と思う。何せ茶色いので分からない)。

 そのせいか分からないけれど、ダースの消費量が増えていた。僕はもう少し買い足そうと思った。




 🍫




「長期休みなんか、本当はいらないんだけどな……」

 僕が独り言で良く言うセリフだ。誰に訊かれてもいないのに、そんな風に言ってしまうのは、誰かに聴いて欲しいからだったりするのだろうか。いや、違うな。僕はそうやって独りでいる時間と、閉じこもっている時間で僕自身を守っていたのだと思う。

「出来れば外に出たくない」

 外に出て何かを得られることないと思っている。休暇のたびに、一緒に付き合ってくれる友人がいるわけでもない。仮に外に出たところで、風景写真ばかり撮っている、なんだか悲しい観光客に成り下がるだろう。そんな写真を見返したりしないくせに。結局、時間と空間と、ちょっとばかしのお金を失って、どうでもいい毎日に戻ってきてしまう。それならば、痛みも何も感じない、毎日を継続しているほうが割に合っていると思って、長い休暇は家や周りの公園などで本読んで過ごしていた。だから、わざわざ休みでもないのに長期休暇など欲しいと思ったことは一度も無かった。


「あの、すみません。ちょっと休暇をいただきたくて、五日ほど……」

 恐る恐る、部長に長期休暇を打診した。部長はそれを聞いて、なにやら嬉しそうに話しかけてきた。どこかに行くのか? とか、誰かと一緒か? とか、お父さんみたいに。こんな、面倒な出来事が起こることが予見出来たのに、普段なら絶対にそんなことをしないのに、僕はやろうと決めていた。


 ——チョコレートおじさんを海外に連れて行ってみたい——


 僕はふっと其れを思いついてしまい、その考えが頭のどこかに棲みついてしまって——それこそチョコレートおじさんみたいに、もう、追い出すのも難しいぐらいに——だから、どうしてもやってみたくて、どれくらいぶりかのワクワクが自分の胸で躍っていた。

 それにしても、チョコレートおじさんを外に持ち出すにはそれなりに頭を使う。おじさんは、恐らく簡単に溶けてなくなってしまうだろう。それから、人目につくと面倒だ。なにしろ動くチョコレートおじさんなんてもの、とても奇妙だから。でも、計画をしてみると案外アイディアが浮かぶものだ。例えば、小さめの保冷バックを用意すればいいし、そこに冷やした保冷剤を入れておじさんを入れればいい。新聞もいくつか切っていれておけば長い移動時間も楽しいだろう。そういえば飛機に乗れるのだろうか、なんて実際的な問題も浮かびあがる。でも、多分チョコレートだから、X線ゲートも通り抜けられる。

 本当の旅行に出かけたらチョコレートおじさんはすごく喜ぶと思う。

 それに、小さいところに閉じこもっていてはいけない。

 もっと大きな世界を見せてあげたい。


 だから僕は、海外ツアーに申し込んだ。初めてなんですと言ったら、親切にそのコンダクターの人は必要なものを教えてくれた。幸い、僕は貯金が趣味みたいなことになっていたからお金に糸目はつけないで済む。コンダクターの言う通りに事を進めた。

 僕らはモルドバのキシナウに行くことにした。

 そうして、このことをチョコレートおじさんには秘密にしておこうと思った。前日、突然打ち明けて驚かせてやりたい。モルドバにはセントセオドア教会があるらしい。それはとても美しい薄いブルーの建物で、それを見たら、おじさんはきっとチョコミント味になりたがるだろうな。たどり着いた、そのブルーの空の下で、変な舞を踊るのかな。そこにしかないチョコを買って、日本のチョコとの違いについて考えを巡らせるのかな。

 そんな風に、僕は手続きや準備をしながら考えていた。


 ただ、僕は自分で感じている以上に浮かれていたんだと思う。

 新聞の端につくチョコレートの量が減っていること。毎日用意していたダースが、二日に一回で済むこと。おじさんがピロピロと出ることをしていないこと。そもそも、チョコレートおじさんの動きが今までよりもゆっくりになっていたこと——


 小さくない変化に気づけないほど、浮かれてしまっていた。




 🍫




 旅行の前日、郵便受けを開けるとチョコレートおじさんは、チョコレートおじいちゃんになっていた。ヨボヨボになって、もう歩けない。憔悴して、プルプル震えていた。チョコレートの色が少し赤みがかっていた。


 僕は慌てて、手にとって。

 そうしたら、手の熱で少しずつ溶けていった。


 待って。

 待って。

 待ってよ。


 溶けかけのチョコレートおじさんがこっちを見ている。

 なんか言えないのか?

 なんか言ってくれないのか?

 明日……明日、旅行に行こうと思ったんだ。

 モルドバって言うんだ。

 そこにある、青くて綺麗な大聖堂を見せてあげたくて。

 浮かれたおじさんが、変な踊りをするところが見たくて。

 飛行機の音にビビって丸まってほしくて。

 それから、外の空気が違うからって変なポーズをするおじさんが見たくて。

 一緒に……見たい。

 一緒に、外の世界に行きたかったから。

 ねぇ。チョコレートおじさん。


 待って。

 待ってよ——


 チョコレートおじさんは、ふわっと笑って、原型を留めていられなくなった。

 そのまま、僕の手のひらでチョコレートになってしまった。

 甘くて少しだけカカオの効いた、

 全然おじさんぽくない、甘さだった。




 🍫




「東京成田、イスタンブール行きの〇〇便にご搭乗のお客様は、F205までお越しください。繰り返します、東京成田……」


 初めての海外旅行に行く場所としては、とても真っ当とは言えない場所を選んでしまった。もっとそれ相応の国があって、そのほうが良かったんじゃないかと、今になって悔やんでいる。トランジットや、ビザや、飛行機の機種から、不安は雪崩になった積読のように、僕の心を圧迫してきた。それに、片言の英語さえ通じないようなところもあるわけだし。

 心臓の音が、いつもより小さく感じた。

 空港ロビーで周りの喧噪や行き交う人に呑まれながら、僕は右往左往しながらも、スーツケースを引っ張って搭乗口を目指した。

 行きたくない。

 別に、行きたくなんかない。



 でも、

 僕は、保冷剤を入れた銀色のバッグを持っている。

 中には溶けて固まったチョコレートが入っているんだ。


 それと一緒に

「僕は外の世界に行こうと思ったんだ」

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僕とチョコレートおじさん 岸正真宙 @kishimasamahiro

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