3 エルフリードの独占欲
午餐会を終えたエルフリードは、宮殿内の自らに与えられた区画に戻ってきた。
王宮内において、王族の住まう宮殿はいくつかの区画に分かれており、国王の居住区画や執務区画以外に国王の家族の住まう区画がそれぞれ存在していた。
エルフリードは侍女たちの助けを借りて装飾過多とも思えるドレスを脱ぐと、後は自分で出来ると言って侍女たちを追い出してしまった。
いつも着用している騎兵科将校の軍服を身に付ける前に、鏡を見た。
「……」
そこには、下着姿の自分が映っている。
背中に流した長い黒髪、少し不機嫌そうな猫のような目、顔立ちだけを見れば少年のようでもある。
だが。
……女の体だ。
エルフリードは思った。どんなに男と同じ装いをしようとも、女物の衣装を嫌おうとも、体は女なのだ。
胸の膨らみはごくささやかではあるが、それでも男と同じではない。腰から臀部にかけての曲線も、女であることを嫌でも意識させられてしまう。
成長と共に、リュシアンと明確な身体的特徴の差異が出てくるのは避けられない。
エルフリードは、女という存在を嫌悪していた。
社交界での媚びを売るような笑顔の貴族の女、皆で集まって特定の誰かの悪口を言って盛り上がる侍女たち、男たちの言いなりのままに他家へ嫁ぐ王族の女。
自分もそんな女の一人になってしまうかもしれないことが、エルフリードには恐ろしかった。
「……だが、私が女でなければ、リュシアン、お前とは出会わなかったであろうな」
エルフリードはそっと、鏡の表面を撫でる。
鏡の向こうに幼馴染にして婚約者、そして専属魔導官である少年を幻視した。
自分にとって、リュシアンとの出会いは幸運なことだったと確言することが出来る。しかし、リュシアンにとってはどうだったのだろうか?
エルフリードは静かに瞑目した。
かつてのあどけない笑みを浮かべていた茶色い髪をした少年は、もうどこにもいない。髪の色と同じように感情の希薄な、茫洋とした表情を浮かべるぶっきらぼうな魔術師がいるだけだ。
「私と出会わなければ、お前はまだあの頃のままでいられたのか?」
―――血溜まりの中で、膝をついて呆然とするリュシアンの姿が思い出される。
あれは、自分たちが十一歳の時。
士官学校の休暇を縫って行われた地方都市への慰問の途上、共和主義者たちによる襲撃を受けたことがあった。ルーシー帝国の革命運動家が爆弾テロによって皇帝を暗殺して以来、共和主義者たちの中にはより過激な行動に走る一派もいた。そうした過激派による王族への襲撃。
自爆も辞さないそのなりふり構わぬ襲撃を最終的に防いだのは、リュシアンだった。
まだ魔術師として未熟だった彼は、王女である自分のことを守ろうと必死だったのだろう。ほとんど魔力を暴走させるようにして、襲撃者たちを叩き付ける魔力で鏖殺してしまった。
きっと、自分もリュシアンも魔術というものの本当の恐ろしさを、その時まで理解していなかったのだろう。
いつもは楽しそうに魔術の上達を語っていたリュシアンは、ただただ己の所業に
そして自分は……
―――笑っていたのだ。
声を上げずに、ただ愉悦に唇を歪ませて。
ああ、こんな力を持つ者が自分の側にいれば、自分がどうしても欲していたものが手に入る。兄を蹴落とし、貴族どもを黙らせ、至尊の座を手にすることが出来る。
そうして初めて、自分は“女”に生まれたことに納得するだろう。連合王国中興の祖と讃えられるアリエノール女王のように。
だからその時覚えたのは、リュシアンという存在を手に入れたことへの、残酷なまでの満足感。
そんなときに、リュシアンと視線が合ってしまったのだ。
きっと彼は、血に塗れた自分の姿を見られることを恐れていたのだろう。ただ幼馴染の少女に怖がられてしまうことを恐れるような怯えた顔で、こちらを見た。
だがその瞳は、すぐに信じられないものを見るような色に変わってしまった。
その時、ようやく自分がどんな表情をしているのかを、エルフリードは自覚した。そしてその直後にはもう、リュシアンの瞳は悲しげに伏せられてしまったのだ。
きっと、それが本当の意味での二人の関係の始まりだったろう。
事件現場に駆けつけた警察の中に、クラリス・オズバーンはいた。数日後、リュシアンは彼女の弟子となった。
婚約者などという生温い水の中に浸かるような時間が過ぎ去り、ただエルフリードの野心を遂げるために血の道を歩もうとする二人の関係が、きっとその時始まった。
「リュシアン、お前は悲しいまでに、私の理解者であろうとしてくれるな」
本来であれば、エルフリードはリュシアンから恨まれても仕方のない立場だった。リュシアンではなく強い魔術師であれば誰でもいいのではないかと、そう
だが、自分にとってはリュシアンでなければ駄目なのだ。
だから自分も、リュシアンにとっての理解者であろうと努めた。徐々にかつての快活さを喪い、死神と言われるほどに人殺しを重ねてきたあの少年を。
「私が“女”であれば、お前をもっと上手く慰めることが出来ただろうに……」
女であることを呪いながら、リュシアンに対してだけは“女”でありたいと願う、倒錯した感情。
いつだったか、リュシアンが自分に救いを求めてきたことがあった。
師であるクラリス・オズバーンに従って、あるいはファーガソンに強要されて、魔術師殺しを続けていく日々。リュシアンの髪は、その頃から徐々に白くなっていった。白と茶の斑の髪。
少年の心が摩耗しているのが、エルフリードには判った。
弱々しく、不安と恐怖と自己嫌悪に疲れ切った顔で、彼はエルフリードに縋り付いたのだ。
幼子のように泣きじゃくるリュシアンを、どう慰めていいのかエルフリードには判らなかった。ただ膝を貸して、彼の頭を撫でてやることしか出来なかった。
彼の心が徐々に感情を喪っていくのを、エルフリードはただ見ているだけだったのだ。
「……ふん、我ながら度し難いな」
鏡の中の自分が、歪んだ笑みを浮かべる。醜い、女の笑みだ。鏡を叩き割りたい衝動に、一瞬だけかられる。
それでも、どうしても、自分の隣にリュシアンがいてくれないと嫌なのだ。
◇◇◇
エルフリードの自室と、リュシアンの自室は隣同士になっている。
現在のエルフリードは陸軍大学校に通う身である。本来であれば、エルフリードには軍の用意した官舎ないしは用意された下宿先の一室が与えられるはずであった。実際、士官学校時代は学校内の寮で生活をしていた。
しかし、連合王国南部の王室直轄地に存在する士官学校はかつての稜堡式要塞を改築して寮もその敷地内にあるのに対し、陸軍大学校は王都に存在し寮が敷地内に併設されていないことから警備上の不安があるため、エルフリードは王宮から陸大に通う日々を過ごしている。
エルフリードとしては、王族だからといってこのような特別待遇は納得しがたい面もあるのだが、軍命令とされてしまえば、軍人である彼女にはどうにも出来ない。
一時、自分で
ならばと、エスタークス伯爵家が王都に持つ町屋敷ならば問題ないと主張したのだが、いかに婚約者とはいえ男性の屋敷に王女が住み込むのは外聞が悪いということで、これも却下された。それを聞いた時には、また“女”が自分の邪魔をすると思ったものだ。
溜息をつきたくなる気持ちを宮殿の廊下では抑えつつ、エルフリードは自室、ではなくその隣のリュシアンの部屋へと向かった。
部屋の扉に、合鍵を差し込む。
本来であれば王族の補佐官のために用意された部屋ということもあり、部屋は執務室と寝室が併設された造りになっている。
だが、リュシアンに与えられた執務室は現在、書庫と化していた。
部屋には壁面を埋め尽くす本棚と、それでも足りずに床に積み上げられた書物。執務机にも書籍が平積みにされ、書きかけの論文らしきものが載っている。
今日は陸大の講義が休みということで、陸大図書館にでも行こうかと思うのだが、それよりもリュシアンにファーガソンの話を聞くのが先である。
まだリュシアンが帰っていないようなので、エルフリードは勝手に待たせてもらうことにした。
リュシアンに与えられた部屋とはいえ、そこには陸大で使用する教科書や戦史関連の書籍も置いてある。エルフリードが持ち込んだものだ。
彼女はその一冊を取り出して、部屋の中央に置かれた長椅子に座る。
しばらく、部屋には頁をめくる音だけが響く。
エスタークス伯爵家の領地にある屋敷から貴重な魔導書を持ち込んだこの部屋は、リュシアンによって結界が張られている。そのため、侍従や侍女ですら結界の構築者であるリュシアンの許可なくこの部屋に入ることは出来ない。
だから、この部屋はエルフリードが王女であることに煩わされずに籠もることが出来る部屋でもあった。
やがて、蝶番の軋む音と共に部屋の扉が開いた。
「遅かったではないか」
ちょっとだけ唇を尖らせて、エルフリードは言う。
扉から入ってきたのは、漆黒の大外套をまとった魔術師の少年。
体をすっぽりと覆うフード付き大外套に覆われて肌の露出を最小限にしたリュシアンは、お伽噺の中に登場する魔法使いそのものだった。杖を持たせれば完璧だろう。
その姿は本当に少年が望んだものだったのか、エルフリードは疑問に思う。
記憶の中にある子供時代のリュシアンと、今の勅任魔導官としてリュシアンはあまりに変わり果てていた。
いや、顔の作りは細部は違うものの昔と変わらない。だが、そこから受ける印象はまったくの別人だった。
かつて様々な感情を映し出して輝いていた瞳は、今は虚無を湛えたようにがらんどうとしている。
髪はかつての色を失って白くなり、艶もまったく喪われていた。
元々外遊びをあまりしなかったために色白だった肌は、今はさらに青白くなって病人のそれのようである。
暗鬱とも言い切れない、どうしようもない空虚さをまとった少年だった。
人間とは、こうまで変わってしまうものなのか。
そう思うたび、エルフリードは胸を締め付けられたようになる。
「ただいま、エル」
その声だけが、見た目の印象を裏切って温度を保っていた。
「うむ」
鷹揚に頷くエルフリード。彼の感情を刺激する数少ない対象、それがエルフリードなのだ。
そのままリュシアンは彼女の座る長椅子に腰を下ろした。エルフリードがわずかに右に寄り、彼女の左手側にリュシアンが座る。
「ありがとう」
そう言った切り、リュシアンは沈黙した。
エルフリードは即座に問い質すことはしなかった。リュシアンが沈黙を欲していることを理解しているからだ。彼が言いたくなったときに言ってくれればいい。
どうせ、ファーガソンはろくなことをこの少年に吹き込んでいない。
だからこそ、エルフリードはあの諜報官が嫌いなのだ。リュシアンのことを、骨の髄まで利用しようとするあの男のことが。
その姿がまるで自分のようで、だからこそ余計にエルフリードはファーガソンを嫌悪するのだ。
だが、自分と違ってあの将軍は野心を持っていない。常に国家や王室のために利用出来るものをすべて利用しようとしているだけなのだ。
それに対して自分は、ただ自分の野心のためだけに幼馴染の少年を利用しようとしている。
その罪深さを判っていてなお、エルフリードはリュシアンを自分のモノにしたいと思っている。それは、出逢ったあの時からずっと自分の中に燻っている感情。
どうしようもないほどの独占欲。
「……」
エルフリードは陸大の教本を静かに閉じた。そのまま、沈黙を続けるリュシアンの頭をそっと自身の膝の上へと持ってくる。
「……」
少年は抵抗しなかった。ただ、顔をエルフリードに見られたくないのか、横向きに姿勢を変えた。
エルフリードは、ちょっとはねっ気のあるリュシアンの髪を梳きながらただ待っている。
「……俺は、エルにとっての“死神”になるつもりはない」
「うむ」
やがて、リュシアンはぽつりと零したのだ。
「昨日の夜、クラリスに言われたことが気になって、街の外れに行った」
リュシアンは訥々と、昨日から始まったことの顛末を話し始める。それをエルフリードは、相槌を打ちながら聞いていた。
「……准将は、俺だけじゃなくてエルまで利用しようとしている。俺は、それが嫌だ」
まるで駄々っ子のような口調。
「はん、あの狐め。いい度胸をしているではないか」
エルフリードは鼻で嗤った。本当に、あの狐は王国の敵を討つことに手段を選ばない。そのためには、あえて王族を餌とすることも辞さないというわけだ。
「それでお前は、私の身を案じてくれているわけだな」
「……」
リュシアンは膝枕をされたまま、小さく頷いた。
何とも癪な話だと、エルフリードは思う。実質的に、こちらの逃げ道は塞がれているようなものだ。確かに、エルフリードが迎賓館での夜会に参加する義務はない。先ほどの午餐会で、南ブルグンディアの宰相をもてなすという王族としての義務は果たしているのだ。
だが、単にファーガソンの思惑に乗るのが気に入らないからという理由で夜会に出席せず、万が一の事態があった場合、リュシアンはまた心に傷を負う。夜会に出席する人間には、彼の伯父である外相クルーアリン公ライオネル・ド・モンフォートもいるのだ。
子供の頃から、リュシアンは実父よりも外交官であった伯父の方に懐いていた。
もしリュシアンにこの件の判断を任せたら、きっと彼は参加しない決断をするだろうとエルフリードは思う。彼は伯父よりも王女たる自分の身の安全を確保することを優先する。
リュシアンは、内心でどれほど苦しもうがそうした決断が出来てしまう。
ファーガソンが国家と王室を優先するように、リュシアンはエルフリードを何よりも優先する。
一方のエルフリードは自身の野心のための行動を最優先する。そうでなければ、リュシアンが自分のために積み上げた屍を無駄にしてしまうと思うが故だ。
そして自分は、ただリュシアンに守られるだけの籠の鳥には絶対になりたくないと思っている。彼の重荷にだけはなりたくなかった。
これが例えば戦場での話であれば、リュシアンもエルフリードが危険な選択肢をすることに疑問を覚えないし、むしろその決断に賛成して全力で支援してくれる。軍人となることが幼い頃からの夢であったエルフリードを、彼は絶対に否定しない。
だが今回は、ファーガソンの思惑に誘導されて、危険な選択を取らされる状況に追い込まれているのだ。
エルフリードの矜持が、リュシアンに守られるだけの状況に我慢出来ない。ファーガソンの思惑と判っていても、自分は乗ってしまうだろう。
だからリュシアンは最初、沈黙を欲していたのだ。
ファーガソンの思惑に自分を乗せたたくないという、リュシアンなりの強い思い。それでも彼は、エルフリード自身がどうしたいかを決めてもらうために、話してくれたのだ。
昔から変わらない、エルフリードの意志の尊重。
この世界で自分を最初に肯定してくれたのはリュシアンであるし、それは今も変わらないのだ。
「リュシアン、お前は本当に優しい奴だな」
「……優しくなんか、ない」
聞き分けのない子供のように、リュシアンは否定する。
「そんなお前には悪いが、私はまた危ない選択肢を取ることにする」
「……」
リュシアンは、反対しなかった。そうなることが判っていたからだ。
付き合いが長い分だけ、二人は相手の気持ちが判ってしまう。
「私は、“私”であることを止められない。私は、“私”であることを証明したい。そのために必要なら、ファーガソンの思惑にだって乗ってやるさ」
「……そんな君が、俺は好きだよ」
エルフリードの耳にようやく届くか届かないかといった声で、リュシアンはそう告白した。
「……ああ、知っている。安心せよ」
そしてそれを、エルフリードは当然のように受け止めたのだ。
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