1 幽霊屋敷と魔術師
運河から霧を含んだ冷たい風が吹いていた。
ガス灯の明かりが霧の中に鈍く光り、夜の闇に弱々しい抵抗を続けている。
背の高い
たいして掃除もされていない薄汚れた窓のはめられた建物の合間を、リュシアン・エスタークスは歩いていた。
路地裏には塵芥にまみれて眠る出稼ぎの労働者や、下級労働者を相手にする娼婦たちがたむろしている。
人口の増加によって王都外縁部は薄汚く、狭苦しさに満ちていた。人の温もりの感じられぬ、人工的で病的な街並みだ。
繁栄と退廃が同居する歪な都市。
それは、産業革命と海外進出によって発展への道をひたすらに突き進もうとするロンダリア連合王国が内に孕んでいる社会矛盾の縮図でもあった。
しかし、それらはこの魔術師の少年の興味を惹くものではなかった。
だからリュシアンは足早に路地を抜けていく。
月夜の中に寝静まったかのような街でも、意外に人とすれ違うものだ。ただ無気力に地面に座り込んでいる者、胃のむかつくような酒の臭いを発している者。
そのような者たちを気にも止めずに、リュシアンは進んでいく。
―――なぁ、坊ちゃん。キレイな
時折、リュシアンにそんな声をかけてくる物好きな連中もいる。腕を掴まれた瞬間には、相手の鳩尾にリュシアンの拳がめり込んでいるのだが。
しかし、そうした人の多い地区というのも、再開発によって労働者向けの
再開発の波が届かなかった地区には老朽化した煉瓦造りの建物が閑散と並んでいる。王都の工業地区からも遠く、再開発以後は人が流出してしまって、住民の数は少ない。
ガス灯の数すらまばらになっていくその地区を歩くリュシアンの前に、一つの建物が表れた。
正面の窓ガラスが鈍くガス灯を反射する、四角い箱のような建物だった。
ただ、人の気配はない。それも当然で、すでに工場はつぶれていたのだ。蒸気機関の普及によって、手工業を行っていた工場は経営難から次々と姿を消しているのが、この時代のロンダリア連合王国の状況であった。
リュシアンの目の前にある工場兼住居も、かつては親方職人と多数の徒弟によって経営されていたのだろう。しかし、今はただの廃屋である。扉には鎖が絡められているが、特に錠で固定されているわけではない。恐らく、建物内は誰でも入れるだろう。
だというのに、浮浪者の気配一つ、建物からはしてこなかった。
文字通り打ち捨てられたその廃墟の前で、リュシアンは立ち止まった。
網膜に、見慣れたものが映った。
まるで蔦のように、建物を取り巻く何重もの線が視界に浮かぶ。ぐしゃぐしゃに絡まった線に包まれた建物は、さながら繭のよう。
「ああ、なんだ」
感情の籠らない、淡々とした声。
「やっぱり、こういうことか」
別に、自分の予想が当たったからといって、嬉しくもなかったが。
リュシアンは迷いのない足取りで一歩、建物へ向けて足を踏み出した。
◇◇◇
「幽霊屋敷?」
その話をリュシアンが聞いたのは、王都全域を管轄下に収める王都警視庁の一室であった。
「ああ、イースト・エンドの外れにある建物のことを、住民たちはそう呼んでいるらしい」
説明したのはクラリス・オズバーン特別捜査官。ここは彼女に与えられた事務室だった。
糊のきいたシャツに、折り目がしっかりと付いたズボン。赤い髪を短く切り揃え、鋭い目つきをしたこの女性は、どことなく俊敏な鷹を連想させた。
「そう」
淹れたての珈琲をクラリスに渡しながら、リュシアンは短く反応した。
「相変わらずの反応だな」
可笑しがるように口元を緩めながら、クラリスは少年の淹れた珈琲を口に含んだ。
「ほう、美味いな、これは」
そして、幽霊屋敷の話題を忘れたかのように、珈琲へ感嘆の声を上げる。
「姫が分けてくれた、王室御用達の豆だからね」
さして有難くもなさそうに、リュシアンは淡々と言った。
「なるほど、姫殿下には感謝せねばならんな」
一方のクラリスの方も、感謝の念は伝わるものの、王室への敬意が感じられない口調だった。二人の間では、いつものことであった。
クラリスが珈琲に満足したのを見届けたリュシアンは、貴重な豆を挽いた自分の分に惜しげもなく多量の砂糖を投入した。ただし、牛乳は入れない。
「相変わらず、甘党だな」クラリスは笑う。「牛乳を入れんのが、いつも不思議だが」
「砂糖の甘さが消えるから」
そうとだけ、リュシアンは答えた。
珈琲から立ち上る芳醇な香りが、しばし、室内を満たす。
「ああ、それで坊や。話を戻すがな」
ひとしきり珈琲を堪能した後、クラリスは話題を戻した。
「まあ、幽霊屋敷といっても、
王都の治安は、地域によってかなりの差がある。主に王宮や官庁街、そして貴族の町屋敷や高級商店が立ち並ぶ中心部ほど治安が良く、第三運河の東側にある下級労働者たちが住む地区が最も治安が悪いと言われている。
「幽霊屋敷と言われ出したのは、ここ数ヶ月のことのようだ。あの建物を寝床にしていた連中が、一斉に発狂して運河に身を投げるか、三階から身を投げたらしい。その後も、建物に入り込もうとした連中が次々に発狂していったらしい。今では不気味がって、誰も近づかんという」
「どこまで本当か疑問だね」
「そうだな。こうした怪談話は、何かにつけて尾ひれが付くものだ。ただ、何かしらの犯罪組織の拠点になっていないとも限らないので、一応、警察が捜査に入った」
「それで?」
「特に異常なし、だ」クラリスはおどけたように肩をすくめた。「結局、住民たちの間で勝手に広まった怪談話、というのが警視庁の結論だな。警視庁も暇ではない。実際に起こった犯罪ならばともかく、そんな怪談話に付き合っていられないというのが、イースト・エンド担当らの総意だそうだ」
「ふうん」
と、リュシアンはどうでもよさそうな声を出して、
「あの辺りで最近問題になっていることといえば、共和主義者どもが撒き散らしている
「大変だね」
「姫殿下の専属魔導官とは思えん台詞だな」皮肉そうに唇を曲げて、クラリスは言う。「先日、前蔵相の暗殺未遂事件があったばかりだぞ。実行犯は逮捕されたが、背後関係の解明がまだだ。過激派どもは王族や政府要人の暗殺が趣味みたいなものだからな。せいぜい、共和主義者どものテロに姫殿下が巻き込まれんよう、気を使ってやれ」
「テロの情報でも?」
わずかばかり、リュシアンの喰い付きが良くなった。
「いや、警察の方には何も。そいうことは、お前の友人のファーガソン准将の方が詳しいだろう?」
「……そうだね」
目にわずかな険を宿して、リュシアンが言った。
「まあ、師匠と弟子の茶飲み話にしてはちょっと物騒だったかな」
そう言ってクラリスは飲み干した珈琲の碗を名残惜しそうに眺めていた。
◇◇◇
キン、と空気が軋むような独特の感覚を覚えた。
その軋みが自分の錯覚であるのか、それとも実際にこの場だけ空間が歪だからなのか、それは判らない。
リュシアンはその感覚に頓着せずに、扉に絡まった鎖を解いた。金属同士が触れ合う音を立てて、鎖が地面に落ちる。
やはり、建物内に人の気配はない。
どこまでも虚ろな窓ガラス。
ガス灯の光にわずかに照らされた薄汚れた鏡のような面に映るのは、何事にも関心を失ったかのような無感情な目。
上下を黒で統一し、それに不釣り合いな白髪と赤紫の目をした少年の姿がそこにはあった。
そんな己の姿を横目で見ながら、リュシアンは建物の扉を潜り抜けた。
建物の中は、当然ながら真っ暗だ。わずかに窓の近くにだけ、ガス灯や月明りが差し込んでいる。
そんな中でもリュシアンの瞳は確かに、無数に張り巡らされた線を捉えていた。
埃っぽさを感じる建物の内部。もう長く人に見捨てられた場所であることを如実に示していた。
だというのに、暗い空間は人の体を圧迫するほどの悪意に満ちていた。皮膚に無数の棘を突き刺されたかのような、形のない圧力。
その場は激しい
「こいつは確かに、発狂するな」
ぼそりと呟いたリュシアンの網膜は、はっきりとそれが映っていた。
室内に無数に浮かぶ唇。床にも、天井にも、壁にも、そして窓にも、ありとあらゆるところに唇が存在していた。
それらが蠢き、囁く様はまさしく怪異だった。
―――死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
ただそれだけを、唇の群れは一心不乱に囁き続ける。
繰り返す怨嗟の声。それは強い暗示。この声を聞いた者はすべて、「自分は死なねばならない」と思うことだろう。
「お前が、死ね」
ただ一言、リュシアンは言った。浮かぶ唇の群体が、一瞬怯んだように口を閉じた。
そして今度はより強く、脳に直接響くように唇たちは囁き始めた。
一瞬、リュシアンの頭がぐらりと揺れ、足がたたらを踏む。
「―――っ!」
だが、彼は少し顔をしかめただけだった。
「だからさあ、ごちゃごちゃうるさいよ」
怨嗟の声を無視して、リュシアンは独り言のように呟いた。
そして腰の後ろに交差するように差してある二振りの
彼の瞳に映る無数の線の連なり。
斬、と刃物を一閃して切り裂く。
手には何の感触も、それこそ斬る際のわずかな抵抗感すら感じなかった。しかし、リュシアンの目の前で絡み合った線は確実に切断され、まとまりを失い、そして潮が引くかのように消滅していった。
同時に、怨嗟の声を作り出していた唇の群れも消えていく。
後に残ったのは、廃墟とは思えぬほど整然とした室内であった。
最初に感じた埃っぽさも、なくなっている。それはつまり、この建物を今も人が使っている証拠でもあった。
明らかに、幻影の類の魔術が使われていた。
ぼう、とリュシアンは呪文詠唱もなしに手の平に炎を顕現させた。途端に、室内の闇が払われていく。
最初に入った時に目についた朽ちた機織り機は、真新しさを覚える印刷機に変わっていた。
リュシアンは床に落ちている紙を拾い上げた。
そこに書かれていたのは、国王や内閣、そして資本家を風刺する絵と王政打倒を謳う扇動的な文句だ。
リュシアンはそれを無造作に
さらに三階に上がるが、ここも二階と雰囲気は変わっていない。リュシアンは梯子に足をかけ、屋根裏部屋へと上る。
そこは、何もないただ月明かりだけが差し込む空間だった。
「……」
リュシアンは一瞬だけ目を閉じ、そして開く。彼の赤紫の瞳が、虹色の妖しい光を放ち出した。
「……ああ、やっぱりね」
再び彼の網膜に映る、無数の線の連なり。
高度な幻術魔法を何重にもかけて偽装工作をしているが、不可視の力であるはずの魔力や魔術を“視る”ことの出来るリュシアンには通用しない。
魔力が連なり絡み合い、魔術を構成している複雑な線の集合体。だが、それも双剣の一振りで解け、術式としての構成を失い、最後は魔力までもが大気中の
その部屋にあったのは、銃架に掛けられた何丁もの小銃。部屋の棚には、実包や手製の爆弾らしきものまである。
小銃は、一世代前の前装式マスケット銃である。現在では前装式ではあるが紙薬莢を使用する銃が各国の陸軍で主流となっている。
恐らく、装備更新に伴う余剰在庫が軍から横流しされたのだろう。
クラリスの話が気になって来てみれば、とんだ収穫があったものである。正直、警察の魔導犯罪に対する捜査能力が疑われる事件であろうが、優秀な魔術師を王室魔導院が独占している現状では無理からぬことだろう。
それに高名な魔導の家ほど、犯罪捜査のような「雑事」に関わることを嫌う傾向がある。リュシアンからすれば、無駄な矜持としか言いようがないが。
だからこそ、あの師匠も自分にこの話を持ってきたのだろう。
「まあ、後はクラリスかファーガソンに任せればいいか」
自分の成果を誇るでもなく、リュシアンはどうでもよさそうな口調で、独り呟くのだった。
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