特別求公列車

こあ

特別求公列車

「そういう訳だから、平くん。今週の日曜に本社まで出向いてくれないか」

「はい、かしこまりました」


 平等たいら ひとしはスマホ越しに会釈し、笑みを浮かべて「はい、はい」と繰り返した。

 通話を切ると彼は途端に死人の様な顔になって大きなため息をつく。等はその名に恥じぬ平等な男であるが、それ故にまるで世間の不景気を物語るような不景気な男であった。


「参ったなぁ」


 彼は帰り道の夜空を見上げてぼんやりと呟いた。遠くの空の方から赤紫色が広がっていて、天辺は群青から黒に染まっている。


「金沢かぁ。新幹線今から予約できるかなぁ」


 嘘の心配。声に出すと安心できる、一見可哀想な理由を口にする。

 いつも通りの陰鬱な表情。その遠い目の先にはいくつもの不安が乱立している様だ。



 家に帰ると等は申し訳なさそうに頭を低くし、まるで親の表情を窺う子供の様に娘のしずかを見た。


「そういう訳で、日曜日の試合。応援にいけそうもないんだ……」


 彼は申し訳ない気持ちであったが、同時に仕方のないことだと割り切りの気持ちも備えていた。しかし、娘がそうだとは限らないとも理解していた。


「もういい。父さんが約束守ったことないもん。いつもそうやって。私のことどうでもいいんだ。仕事仕事。上司がどうだ。会社がああだ。私の約束なんか知らんもんね。いっっっつもそう。勝手に行けば。知らん。もう。顔も見たくない」


 静の言葉に彼はううっ、と唸った。心の痛みが肺から心臓まで届いて、ギュッと身体を絞った。これには堪らず大きなため息をついてしまう。


「ため息吐きたいのはコッチだよ!」


 静は泣いた。荒々しく去っていった彼女の背を見送って等もまたさめざめ泣いた。妻ゆかりの冷ややかな視線だけがこの空気を貫いて刺さった。縁は退屈そうにため息をついた。



「参ったなぁ。はぁぁ。どうしよう」


 スッカリ落ち込んでいた等は、静にバスケットシューズでも買って罪滅ぼしをしたいという、良心と狡さの混じった考えを抱いて自ら悶々と5日も悩んでいた。というのも、バスケットシューズというのはかなり高く、新幹線の電車賃やホテル代などが掛かることを考えるととても買えそうもない代物であったのだ。

 当然、経費になるのが当たり前なのだが、そんな良心を等の会社は持ち合わせてはおらず、ただただ狡い考えばかりを持っている。

 等は悶々と悩みながらも、世の中は夏休みということもあって新幹線は混んでるだろうなぁと気持ちを更に落ち込ませたり、夜行バスはないだろうかと必死になってなんとも惨めな気持ちになったりした。


「ん?」


 しかし、彼は幸か不幸かJ○のサイトの下に『前日までOK。一本で行ける指定席格安チケット』というサイトを発見した。

 タップして開くと簡素なホームページの上部に「とくべつきゅうこう」という平仮名がポップなフォントで大きく書いてあり、少し下に下がって予約表と日付。新幹線自由席の半額以下の値段が書かれており、一行開けて小さく「お電話お待ちしております。」と一行。怪しさ満点であった。


「いやいや」


 等は一度サイトを閉じかけるも、ふと娘の顔が頭の中に浮かんで「少し節約……」とやわらスクロールして電話番号を確認した。

 止めておこうかと逡巡する。しかし、目を瞑って「ええい!」と半ばヤケクソ気味に吹っ切れると、電話番号を素早く入力して鬼か蛇でも待ち構えるかのような様相でスマホを耳に当てた。


「もしもし、お電話ありがとうございます。こちら特別求公です。ご予約のお客様でしょうか?」


 やはりと言うべきか、聞こえてきたのは胡散臭い男の声であった。


「日曜日に金沢へ行きたいんですけど……」

「日曜日ですね。日時はいかが致しましょうか」

「えっと、土曜日の夜8時からの便でお願いしたいんですけど……」

「土曜日の夜8時ですね。かしこまりました」

「あの!」


 自身も驚くくらいに突如出た大きな声に反応して壁がドンッと揺れた。等は誰に見られている訳でもないのに隠れるように身を小さくする。


「はい何でしょう」

「……これ本当に金沢まで行けるんですか? この料金で?」

「当然行けますよ。料金も記載されている通りです。でなければ詐欺になってしまいますからね」


 廊下を歩いていく足音が聞こえ、体を窓の方へ向ける。


「あの、振込はどちらへ」

「当日お支払い頂く形になります。

これから申し上げます五桁の番号をホームページに入力して頂いた後にお名前とご住所、最寄りの駅、今通話している電話番号をご入力下さい。

もう一度繰り返します。

これから申し上げます五桁の番号をホームページに入力して頂いた後にお名前とご住所、最寄りの駅、今通話している電話番号をご入力下さい」


 窓の外からボールの弾む音が聞こえてきて等はスマホに目を向けて全神経を集中させる。しかし、音の主は娘であろうという確信がそれを許さなかった。


「は、はい」

「2、2、5、7、3。繰り返します。2、2、5、7、3」

「す、すみません。もう一度お願いします」

「かしこまりました。2、2、5、7、3。繰り返します。2、2、5、7、3」

「はい」

「それでは当日、案内の者が参ります。後程こちらから時間を指させて頂きます。ご利用ありがとうございました」

「ああ、ありがとうございます。失礼します」

「失礼致します」

「……」

「……」


 通話は切れた。当日の案内とは何なのか。それをどうやって見分けるのか。等は疑問を抱きながらも、一応当日に自由席を買う覚悟をした。



「そろそろ待ち合わせの時間だけど……」


 当日、等は最寄り駅で例の格安チケットを待っていた。しかし、一向に来る気配がない。


「まあ、そんなものだよな」


 彼は溜息を吐いて俯き加減に歩き出す。そんなうまい話あるわけないと思ってはいたが、案外ショックも大きかった。

 そんな様子だからか、彼は眼の前の人に気付かず衝突してまった。尻もちをついた等は「す、すみません」と顔を上げる。


「平等様ですね?」


 そこにいたのは如何にも怪しい男、ではなく恰好は着物に天狗下駄、口には火の付いていないパイポを咥えた時代錯誤な男だった。いや、彼も十分怪しいのだが。


「特別求公の本間と申します。いやあ、遅れて申し訳ない。早速案内しますので着いてきて下さい」

「え、新幹線の席ではないのですか?」

「ああ。よく勘違いされる方いらっしゃるんですが、残念ながら新幹線ではないのですよ。皆様にご案内するのは特別求公。新幹線のようなきれいな眺めは御座いませんが、様々なモノが平等にご利用頂ける素晴らしい列車となっております」

「はあ」


 とくべつきゅうこう、とは乗り物の名前だったのか。等は一人で納得して一人で不安に駆られた。それにしても奇妙な男だ、と不安に拍車をかける前を歩く男に彼は畏怖する。


「着きました!」


 階段を下って連れられたのは見たこともない駅のホームと、見たこともない列車であった。電車には普通に人が乗っていて、等は安堵の息を漏らした。


「それでは料金を頂きます」

「はい」


 等が金を男に渡すと、男は上機嫌にそれを懐にしまった。財布を出すなりしてくれ、と再び不安が舞い戻ってきて顔を青くする。


「そろそろ出発しますよ。ほら、乗った乗った」


 等は催促されて渋々乗ると座席が空いていたので周りの様子を窺ってから座った。

 すると突如隣に座っていた初老の男性が「初めて乗るだろ?」と話しかけてくる。等が「ええ」と苦笑いで答えると男性は「見りゃわかる。まあ、初めは大変かもしれないが慣れればいいものだ」と意地悪な笑みを浮かべた。

 扉が閉まると同時に男性は口を閉ざして不気味に笑みを浮かべるばかりだったので等は間抜けにはぁ、と返事をするしかなかった。すると、早速扉の前に立って居た顔の大きな小男が真っ赤な顔でこちらに迫ってくるではないか。


「貴様! 男の癖に手ぶらでくるとは何事か!」


 等は抱えた鞄に目をやって、なんて理不尽なのだと顔を青くした。


「馬鹿者っ! 化粧道具が無いではないか! 恥ずかしくないのか!」


 等は男が何を言っているのか理解出来なかった。ふと、彼の顔がさらりとしていて唇は自然な肌色なことに気がついた。


「まあまあ中谷さん」

「貴様もだ村上!」


 中谷と呼ばれた男は顔を真っ赤にして怒った。村上はそれをまあまあと穏やかに制してはいるが、その顔にはやはり意地悪な笑みを浮かべており、逆に神経を逆撫でしそうなほどである。


 すると今度は中谷の脚に向かって何かが駆けてきた。犬である。赤柴のそれはワンワンと喚いて中谷を威嚇した。「出たなバカ犬」と中谷は渋い顔をして後退りをした。首にリードはついていないその赤柴の後を追う様にふくよかなマダムがノシノシ歩いてくる。


「ワタクシのマヨちゃんになんてこと仰るの! その汚らしい化粧の方がよっぽど馬鹿に見られますわ!」

「デブ! バカ犬に首輪をつけろというのが分からんのか!」

「マヨちゃんは特別なワンちゃんなんですの。利口なのでそんなものは必要ありませんわ。ああ、なんで人は生き物を管理しようとするのかしら、嘆かわしい嘆かわしい」


 マダムはおいおいと泣き出し、「行きましょマヨちゃん」と隣の車両へと移っていった。


「鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしているな。無理もない。ここはこの世で最も平等な空間だからだ」

「平等だって? トンデモナイ!」

「平等さ。君にも特別なモノがある様に彼らは何かを特別視しているに過ぎず、そこに貴賤はない。じきに分かるさ」


 村上はやはり意地悪に笑って口を閉ざした。等は頭がおかしくなりそうだった。やがて五月蝿いくらいの電車の音に、最早どうにもならないことを悟ってヘナヘナとへたり込んだ。

 すると今度は遠くからお世辞にも上手いとは言えない喧しい歌声が聴こえてくる。


「彼は自称ミュージシャンの保苅。本職は誰も知らない。因みにゲイだ」


 突如電車が止まって身体が流れる。扉が開いて乗ってきたのは杖をついた白髪の老人。老人は杖で席に座っている人を一人づつバシバシと叩いていく。乗客は嫌な顔をしたり泣き出したり気にしていない風だったり様々であった。

 老人は等の前で止まるとムッと皺のよった顔で睨んだ。


「カーッ!」

「痛っ! やめてください痛いです!」

「カーッ!」


 老人は一通り等を殴ると満足したのか、また席に座っている人をバシバシと叩いて歩いて行った。


「相澤さんに嫌われたな」

「酷い! 理不尽だ! こんなモノ何が平等なものか!」

「差別する人間が居る、ということもまた平等なのだ。受け入れなければならない。彼女が差別するのは君が何かを特別扱いすることと変わらないのだ」

「私は何も特別扱いしない!」

「君はとんだ嘘吐きだな。それは自覚していながら無視しているだけだ」

「なんだって?」

「君が働いた金を全生物に配り歩き、全生物に優しくし、全生物の誕生日を祝うとしても、それは自らへの差別だ。逆に全てに対して無関心だとしたら、それは自らへの贔屓だ」


 等は途端に娘の顔が浮かんだ。そして、スマホの検索履歴にある通販サイトに贔屓の形が存在することを理解した。

 等は背中を丸めて頭を抱えてうんうん唸ると、それは傲慢だと自らに言い聞かせた。こんな横暴が許されてはならない。何故なら人は助け合い、協調し合って社会を形成しているからだ。等の心には巨大な反骨精神が生まれ始めていた。それは人生の中で最も大きな嫌悪という感情であった。

 彼の肩を叩いたのは保苅であった。


「あんま難しく考えんと楽しくやりましょや。どうせ一回きりの人生やさかい、やりたいようやって死ぬんがええんとちゃいます? 知らんけど」

「君のような若者が私の何を知っていると? こちらの問題に口出しをしないで欲しい!」

「なんや、オッサン案外しっかりしとるやん。割り切れんタイプやと思うて声掛けたんやけど、損したわ」


 保苅は笑った。青年らしい天晴れとした笑顔に等は彼が過ぎ去った後も彼の背中を目で追った。


「騙されるなよ。さっきも言ったがアイツはゲイだからな。それに相当イカれてる」


 村上の言葉に振り返ると、今度は保苅の去っていった方からつんざく様な男の悲鳴が聞こえた。等はギョッとして「な、なんだ!?」と立ったが村上がその手をグイと引っ張って先に引き戻した。


「見ない方がいいぞ」

「助けなきゃいけない人が居るかも知れないのに放っておけますか!」


 等は枯れ枝の様な細い指を振り解き、『なんとしてでもこの電車を否定してやる」』という気持ちで隣の車両へ飛び込んだ。

 等は目を剥いた。

 そこには服をひん剥かれた太り気味の男と、それを襲う保苅の姿があった。


「なんや、オッサンも混ざりたかったんかい!」


 等は一目散に車両を飛び出すと、車両のドアをこれでもかと言わんばかりに押さえた。窓から見える狂気的な保苅の顔は、等の腕に一層力をこめさせた。


「次は〜金沢〜金沢〜」


 等はアナウンスの声に「やった」と顔を明るくさせて腕から力を抜いてしまった。ドアが勢いよく開く。そこから保苅が顔をヌウと覗かせる。等は悲鳴をあげながら駆け出し、隣の車両、隣の車両へと逃げていく。

 しかし、彼は決して若い訳でも運動神経が優れている訳でもない。若者である男の長い指が彼の腕を掴むのに時間は掛からなかった。


「唆るなぁ」


 最早保苅はその本性を隠そうとはしなかった。彼の手が等の襟に伸び──。


「ワンワン!」

「う、うわ!」


 その手は等に届かず、いつの間に彼の足元へ駆けてきていたマヨに向かった。マヨが脚に噛み付こうとすると、保苅は足をもたつかせて背後に下がる。その瞬間に電車が止まり、保苅はガツンと頭を手摺りの棒にぶつけてそのまま動かなくなった。

 ドアが開いた瞬間に等は飛び出した。階段を駆け上り外に出る。

 澄んだ夏の空気が身体に染みる様で、涙が出た。現実へ戻ってきた安心感に、へたり込んでしまう。周りの視線など気にしないで等は暫くそうしていた。


 等はホテルに着くとグッタリとした様子でベッドに座り、空腹とかそんなものはこの際どうでもいいと直ぐ眠りについた。

 その夜、突如携帯が鳴って目を覚ます。どうやら誰かからメッセージが来たらしい。等が眠け眼を擦ってから見ると、静からのメッセージだった。一気に眠気が吹き飛んで身体を起こすと、興奮に震える手でメッセージを確認した。


「この間はごめん」「試合頑張るからお仕事頑張って」


 等は大粒の涙を流し、声を上げて泣いた。そして、次第に何故自分は娘のことも応援してやれないのか、と苛立ちが湧いてくる。

 そして、次にはもう0時も回っているというのに仕事先から連絡が来た。これに等は今まで無いほどの怒りを感じた。


「この馬鹿野郎め!」


 等はかつて感じたことがないほど気持ちいい優越感を感じた。これは極めて甘美かつ無類であり、等は連絡相手だけでなく上司や部下に対して怒りを向けては優越感に浸った。

 やがてメールを返した後に眠りについたが、それは天国もかくやというような気持ち良さであった。

 翌日、目を覚ましては一目散に会社へ駆け出し、封筒をポストに入れて再び駅へと向かった。


 この幸せは何ものにも変え難い、と等は確信した。娘がコートの上を駆けたり跳ねたりして汗を流す。その表情は真剣そのものであり、その様子にまるで自分事のように手に汗握り、嬉しくなるのだ。ふと視線の端に映った妻に目が行き声をかける。


「縁! これは勝ってるの!?」


 彼女はギョッとした様子で明らかに動揺していた。彼女の横に居る男も目を丸くしているが、そんな男のことはどうでもいい。


「あなた、なんで!? 仕事はどうしたのよ!」

「そんなことはどうでもいい! 兎に角勝っているのかそうでないのかどっちだ!」

「えっ、あ、負けてる」

「そうかぁ! 頑張れー! 静ー!」

「本当、あなたどうしちゃったの? おかしいわよ!」

「父親が自分の娘を応援して何がおかしいものか! 私は応援したいから応援してるんだ! それに、先程から無言で見て居るだけとは! 親として恥ずかしくないのか!」

「え、はあ?」


 呆れた様子の縁が何か言っていたが、等の耳に声は届いてなかった。彼は夢中になって応援し、静がコチラに気付きギョッとして目を背けた時には嬉しくなって小躍りした。周りの人達は彼のことをクスクスと笑ったが、スーツ姿で娘の応援に精を出す彼をつまらない理由で笑う者は居なかった。

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