1 熱い飲みもの
――ぽたり。
と、落ちる聞こえない音に耳を澄ます。
指先に吊るされたティーバッグから、カップの中に、最後の一雫が沈む。
琥珀色の透き通る液体を覗き込めば、頭上の小さな灯りが溶けて揺れていた。仄明るい室内に、柔く細く立ち昇り薫るベルガモットが鼻を擽り、瞬きをすれば睫毛が蒸気を集めて重たい。唇に触れる熱い飲み物を、そうっと一口含む。身体が内側から、じわりじわりと温められてゆく。
目を上げると冷たい暗がりの先、剥き出しのコンクリート壁に付いている垂直の
……きっと、もうすぐ。
心配しても仕方がないと知っている。それでも忍び寄る不安に、紅茶をまた一口、飲み下すとカップを置いて読みかけの本を開き、安心出来る物語の中へ逃げ込んだ。
物語の中は、美しいもので溢れている。
壊れてしまった外の世界とは、違って。
金の石盤の上にダイアモンドの石筆で文字を書く、十一人の王子さまたち。鏡ガラスの椅子に座り本を読む、たった一人の妹である
頬に手を当て、お兄さまたちのする、おひさまのような接吻を想像してみる。おひさまは、また、青い葉っぱに開けた
おひさまって、なあに?
どんなに美しいものなの?
初めて読み聞かせをして貰ったときに、尋ねた私に、おひさまとは太陽のことだよ、と言って沢山の溢れる本の中から太陽について書かれている図鑑を持って来ると写真を眺めながら、傍にある文章を読んでくれた。
文字を読み上げる優しく穏やかな声を聞きながら、美しいとは、恐ろしいものなのだと、知ったあの日。
それももう、随分と遠くなった。
それでも『今日も昨日のように、毎日、まいにち、過ぎる』のは物語と同じ。
優しく穏やかな声を思い出したら、突然、静寂が耳を塞ぎ、寂しくなってしまった。
早く、帰って来てくれたら良いのに。
どこにも、行かないでくれたら良いのに。
天井の丸いハッチのハンドルロックを期待を込めて見つめていると、まるでその気持ちが通じたかのように、低く軋む音を立てて動き始めた。
息を詰め、じっと見ていると、脚が片方ずつ梯子に掛けられ、続いて真っ黒な防護服に包まれた身体が、ゆっくりと降りて来る。
「……おかえりなさい」
大切な本さえ投げ出すように数歩の距離を走り寄れば、相手が頭部を覆う球状の被り物を脱ぐのも待ちきれず、抱きついた。
被り物を脱いで現れた顔に、微笑みが浮かべられているのを見て物語の、おひさま、とはこのようなものをいうのだと思う。
「約束したよりも遅い。心配したんだから」
「ごめん、
言いながら背負い鞄を下ろし、外の世界で調達してきたものを広げて見せてくれる。
お砂糖、お塩、小麦粉、いくつかの缶詰、紅茶の箱、チョコレート、本が一冊。
「誰かに、会えた?」
「……駄目だった。今度は、もう少し遠くへ行ってみようと思う」
顔を歪ませ、私の身体に腕を回すと「大丈夫。きっと、どこかに同じような人が、いる筈」と耳元で囁きながら、きつく抱き寄せられた。
「そう……だよね」
「ビタミン剤は、ちゃんと飲んだ?」
「うん」
外へ排出できる水回りの設備があり、特殊空気濾過フィルター機と自家発電を持ち、必要最低限の生活が出来る地下にある、この広さ三十五平方メートルが、私の世界だった。
――私と
「もう紅茶も、無かっただろ? 手に入れて来たから、お茶を淹れてチョコレートと一緒に本でも読まない?」
睦月は回していた腕を私から離すと、身体を覆う防護服を脱ぎながら「新しい本にする? それとも、この前の続き?」と優しく笑う。脱ぎ終えた防護服をクリーニングボックスに吊るして、振り返ろうとする睦月の腰に後ろから抱きついた。
「……それより、睦月が私を見つけてくれたときの、お話が聞きたい」
ふっと吐息と共に笑った睦月は、私の両手を持って向き直ると形の良い唇を指先へ寄せながら「かしこまりました。僕のお姫さま」と、怖いくらいに真剣な眼差しを向けた。
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