ぼくだけの朝に
西谷水
ぼくだけの朝に
高校時代のぼくは、少なくとも外面に関して普通の人間を演じていたように思う。
その証拠に両親へ反発して非行に走るような不祥事を起こしたことはなかったし、成績で落ちこぼれるような不真面目もなかった。もちろん人並程度には、他人と反発することもあったが、両親が望んだ通りの真面目一辺倒な人間だったと言ってもいいだろう。
高校を卒業したぼくはというと、父の望む通りに就職することを選んだ。しかしながらこれは、きっかけがどうあれぼくの選択であり、強いられたものではない。
それからぼくは、三月の桜が咲くころに地元を離れ遠い街で勤務することとなった。職場では、今まで通り人並に努力を重ね、何度か表彰されることもあった。これからさきも、こうしてずっと生きていくものだと思っていたのだけれど、一年が経った頃、僕は、人生の転機とも言える衝撃をあることから受ける。それは、とあるドキュメンタリー番組にて取り上げられていた声優の言葉だった。
どうして声優を目指したのか、そう聞かれた彼は、こう答えるのだった。
「昔から自分が嫌いだったんですよ、僕。なんというか人並程度に合わせようとする自分が。気が付いたら周りを観察していて、真似をしようとしている。それでどうしたら自分を好きになれるんだろうって考えて、そのとき社会人だったんですけど、今の仕事じゃ無理だなって。何か他人の真似ばかりしている自分を活かせないかと思って、気が付いたら声優を目指してましたね。いつも人の真似ばかりしているから、案外演技が上手いんじゃないかと思って」
そして彼は、番組の最後にこう言い残した。
「大人だって夢を持っていいんです」
ぼくは、一日中興奮してしまい夜もまともに眠らず、一晩中「声優」について調べていた。どうすれば志せるのか、どういう人に向いているのか、業界の年齢層など。そうして迎えた朝のことをぼくは、忘れない。
あの日の朝焼けは、見たこともないくらいに美しかったのだ。
一月ほど悩んだぼくは、両親を説得して「声優」の道を志すことにした。とは言え両親は、ぼくと違って「夢」や「希望」と言った言葉に何かを感じることはなかったらしく、度々「現実」という言葉を使ってぼくを否定してきた。結局のところ「最初で最後のわがままだと思って欲しい」と頭を下げて許しを得ることができたのだけれど、ぼくとしても、あまりいい気分ではなかった。
現実という言葉は、夢を見ているぼくを子供っぽいと示唆しているようで、嫌だったのだ。思えば僕は、人並程度に努力をすることで年相応の人間を演じようとしていたのかもしれない。
だからなおさら嫌だったのだろう。
このときに抱いた両親への不信感は、ぼくが東京の専門学校へ進学し、家を出て行くその日までなくならなかった。
「ぼくは大人だ」
――三月。
そう、思って家を出た。
新幹線を降りて東京駅の改札を抜けたとき、都会の景色を前にぼくは思わず足を止めてしまった。
行き交う人の多さ、建ち並ぶビル群の黒々とした輝き、吹き抜ける風が頬を撫でる感触、建物の隙間から覗く空の深い青色、これからこの街で一人生きていくのだと想像するだけで夢のようだった。
東京暮らしの始まりを実感したのは、拠点づくり。つまり新居の家具選びからだった。社会人時代から訳もなく貯金をしていたぼくは、比較的お金に余裕があり、家具は納得がいくまでこだわった。家具のテーマは、落ち着いたダークオークのカラーで統一することだ。
一週間ほどが経ち、生活環境が大体整ったぼくは、地理を把握するために早朝の街を歩くことにした。人が多い時間帯を歩くのは、何だか恥ずかしい気がしたので、ぼくはその時間を選んだのだけれど、早朝を選んでいて正解だったように思う。あの日、あの時間帯でなければ、ぼくはこの街のもう一つの姿を見逃すところだったから。
「綺麗だ……」
住宅街を歩き、視界の開けた坂の上でぼくはその景色と出会った。
――低い雲の黄色、空のグラデーションは高い位置ほど深い青色で、昇り始めた陽は街の水平線に光の海を生み出している。電柱の下にあった植物の葉には、いくつもの雨粒があり、それらは宝石のように虹色の光を内に宿していた。
しっとりと冷たい空気の中でぼくは息を呑む。
全てを包み込むような、優しい温もりを前にしてそれ以上言葉が出てこなかった。
雨上がりの早朝は、息を呑むほどに美しい朝焼けをぼくに見せてくれたのだった。
「大人になってもぼくは、美しいものを美しいと思えた」
学校が始まるまでの期間、高校以来の春休みを楽しんでいたぼくだけれど、暫くすると独り暮らしの寂しさを感じるようになっていた。社会人時代も、寮で暮らしていたぼくは、およそ人生において独り暮らしというものを経験したことがなかったせいだろう。
誰とも関わらない日常が何となく寂しくて、時間潰しも兼ねてぼくは出会い系アプリを始めてみることにした。思いのほか、すぐに相手は見つかり、ぼくらは実際に駅前で待ち合わせをして会うこととなった。
「もしかしてアプリの人ですか?」
上野駅を少し歩いて、目立つ街の桜の木の傍で待っていると声を掛けられ、振り返ると彼女が不安そうな表情でこちらを見ていた。ぼくよりも三歳年上だと聞いていたこともあり、緊張していたけれど、優しそうな人で安心した。
そんな風にして落ち合い、あてもなく街を歩き始める。
食事に行こうという話だったので、特に目的地という目的はなかったのである。
「そろそろ食事にしよっか」
時間を見て喫茶店に入ったぼくらは、注文したパスタへの感想もほどほどにして、雑談に花を咲かせていた。ぼくが東京へ来た理由を話すと彼女は眼を丸くして「私も声優目指してる!」と言った。
「一応事務所に入ってるけど、収入はほぼないからバイトと掛け持ちしてる」
「夢に向かって一生懸命なんですね」
「夢って良い言葉だよね。そういうのに弱いかも」
「めっちゃわかる。ぼくらって夢とか情熱とか希望みたいな言葉に弱いですよね」
そこから好きなアニメや声優、自分の理想とする将来、価値観について話題を広げているうちに時間はあっという間過ぎて行った。
「私ね、純愛ものの作品が好きなんだ」
「僕もです。キュンキュンしますよね」
続けてぼくは、言う。
「でも愛って何なんでしょうか」
「分かんないよね、でも私はとっても綺麗なものだと思ってるよ」
綺麗なもの、そう言った彼女の言葉にぼくは自然と頷いていた。
「たとえば好きな人ができたときとか。第一印象でビビッときて、だけど何処がどんな風に良いのかは上手く説明できないあの感じって何か透明でふわふわしてて綺麗な感情だと思う」
「愛っていうか恋ですね」
「言われてみるとそうだ、頭悪いな私。でも、説明するのが難しい感情っていう意味では一緒じゃない?」
「確かに」
けれどそれは、周りの大人たちが言うように、ひどく抽象的で、現実という言葉の前には、あまりにも幼稚で無力なものなのかもしれない。
しかし、ぼくらだって大人だった。
それでも幾度となく説明の難しいその感情についてぼくらは、言葉を交わし、共感し、日が暮れるまで時間を共にしていた。
――彼女はきっと、ぼくと同じで世の中の美しいものを美しいと言える大人なのだと思った。
店を出ると街の風景は、色とりどりの灯りで溢れていた。その景色に足を止めてしまい、街を見渡していると数歩先へ進んでいた彼女が「どうしたの?」と言った。 ぼくが、ふわふわとした心情で「綺麗だなと思って」と答えると彼女は言った「来たばかりだもんね、そのうち慣れるよ」。
繁華街を抜けて、ぼくらは小さな公園に入った。そこは幾つもの桜の木が植えられ、砂場や遊具などもある比較的大きな公園で、月明かりが降り注ぐように辺り青白く照らしていた。
桜の花弁は、昼間とは異なり藤紫のような淡い紫色に見えた。ぼくらは、公園を囲うようにして植えられている桜を見上げながら、ベンチに座った。
「夜の桜が一番好き」
彼女が手のひらに舞い落ちた花弁を眺めて、呟くようにそう言った。
ぼくは、彼女を真似しようとひらひらと舞う花弁を捕まえ、その手の隣に並べる。お互いに何を言うこともなく、静寂が続く限りその花弁を眺めていた。
風が吹いて、手のひらの花弁が飛んで行ってしまうと笑って彼女は言った「飛んで行っちゃった」。ぼくもまた空気を合わせるように微笑んだ。
「そういえば、普段はどんなバイトされてるんですか?」
「えーどうして急に?」
「ロマンチストっぽかったから、きっと素敵なお仕事をされてるんだなーって思って」
「何だそれー」と彼女は、くつくつと笑い、少し間を置いて答えた。
「春をひさぐ、そういう仕事」
ぼくは、聞き慣れない表現あるいは言葉の意味が分からず、首を傾げる。どういう意味なのかをぼくが訊くよりも先に、彼女が言葉を続けた。
「ねえ、お金で愛って買えると思う?」
「値札があるものしか買えませんよ」
「もしも買うことができたらどうする?」
「買いません、綺麗じゃないと思うから」
「そっか。でも私は、買えたらいいなって思う」
「どうしてです?」
「だって値札があれば、その愛に一体どれだけの価値があるのかわかるでしょ」
「そういうものなんですかね」
「この桜の景色にも値札があれば、どれだけ美しいかわかるじゃない」
「はあ」
「…………ごめん」
彼女の声は、どこか寂しげであり、ふと、ぼくが隣を見るとその頬には一筋の光があった。その涙の理由は分からなかったけれど、あまり見るべきではないそんな気がして、ぼくは視線を前に戻した。それから彼女のすすり泣く音がぼくの隣で続き、暫くして彼女は、ぼくの肩に寄り掛かってきた。
「結局さ、私は信じられないんだ」
「…………」
「本物の価値がね。今だって、みんなが桜を綺麗って言うから私も綺麗って思っているだけかもしれない」
彼女は、かすれた声で続ける。
「夢とか希望とか愛とか、昔は本当に綺麗だと思っていたけど、今はどうなんだろう。もしかすると私は」
肩に触れる彼女の肌は、じんわりと熱かった。きっと、ぼくが「声優」に憧れたあの日の心と同じくらい熱かった。
「君みたいな本物の綺麗な人に憧れているのかもしれないね。私は、誰かが落とした宝石みたいなものを拾い上げてるだけなんだ」
「ぼくにはさっぱりですよ」
「いつか、きっとわかるよ」
言い終えると彼女は、ぼくの肩から頭を起こし、立ち上がった。
「とりあえず私みたいには、ならないでね」
彼女は、まるでぼくが子供であるかのようにそう言った。
そうしてぼくらは、解散した。
「いつか見慣れるのかな」
翌日、ぼくは朝焼けを見に家を出た。
新品のスニーカーを履いて、きつく紐を結び玄関の扉を開く。朝の冷たい空気が肌に触れ、毛穴が縮まるような妙な感覚に身震いしてしまう。踏みしめたアスファルトの感触は、靴のせいかいつもとは違っていた。
とは言え、昨日と今日が違うことは当たり前のことだろう。
ぼくは、昨日より少しだけ大人になっているのだから。
歩きながらぼくは、色々なことを考えた。両親のことや、夢のこと、この街のこと、僕自身の将来のこと、今日の朝焼けのことも。
そんなことを考えている内に、あの坂の上へと辿り着く。
きっとぼくは、背伸びをしていたのだと思う。それは、色々な意味合いで。
いつかこの場所の景色を見慣れてしまって何も感じなくなった時、ぼくはあのお姉さんの言っていた意味がわかるのかもしれない。
それがどんな大人なのかは、分からないけれど、それは大人になれば分かるのだろう。
両親のように、誰のものかは分からない現実を押し付けているかもしれない。
春をひさぐ彼女のように、自分を見失っているかもしれない。
あるいは、自分を信じられる人になっているかもしれない。
それでも。
少なくとも今のぼくは、この朝焼けを心から美しいと感じられる。
「ぼくはまだ」
そんなぼくはまだ、子供なのかもしれない。
ぼくだけの朝に 西谷水 @nishitanimizu
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