シガーレス・チョコレイト

2ka

シガーレス・チョコレイト

「院内は禁煙ですよ」

 優しげな口調と凛とした声はどこか春の朝の温度と似ている。

 そんなことを思いながら振り向くと、青いストライプのシャツにデニムというラフな服装の女性が立っていた。

 俺は彼女の方に向けた顔を正面に戻して、肺の中いっぱいに吸い込んでいた煙をゆるりと吐き出す。それから携帯灰皿にまだ長い煙草をねじ込んだ。

 今は柔らかい苦笑を浮かべている彼女だが、なかなか厳しい態度も備えていることは知っている。怒られて怖くない相手ならば言うことをきかないのか、と問われれば、もちろんそんなことはない。誰であろうと病院のスタッフの指示ならば従うつもりだ。

 ベテラン看護師なら、なおさら。

「建物の外でもダメなんですか?」

 だからそう質問したのは、彼女ともう少し会話をしたかったという不純な動機による。

「病院の敷地内は禁煙です」

「帰りの車の中でも?」

「たとえ院長でも、駐車場を出るまでは我慢して頂きます」

 彼女は生真面目な表情でそう言ったが、口調は笑っていた。チャーミングな人だ。

 病院内にはちゃんと指定の喫煙場所がある。各階にある喫煙所と屋上。病院にしてはかなり寛大な対応だろう。それなのにわざわざ関係者用出入り口の植えこみに座り込んでいるのは俺個人の都合だ。狭い密室で他人と一緒に吸う煙草は余計にストレスがたまるし、屋上は退屈を持て余した子どもたちが入れ替わり立ち替わりやってくるので落ち着かない。俺は子どもと嫌煙者の前では喫煙を控えるのが愛煙家の生き残る道だと信じている。

 関係者用駐車場に続くこの通用口は、当然病院スタッフと業者しか使わないので、時間次第で極端に人通りが少ない。夜勤明けのスタッフたちが帰宅していったあとの短い時間が俺の癒やしタイムだったのだが、残念ながら今日で最後になってしまった。

「すみません、知らなくて。もうしません」

「喫煙場所はご存知ですか?」

「はい、大丈夫です」

 これを機に禁煙してもいいかもしれない。今更なんの得もないが、まあ国に払う税金が少しだけ節約できる。

 ポケットの煙草を出して中を覗くとまだ三分の一ほど残っていた。吸いきるにしても誰かにあげるにしても中途半端だ。

「ごめんなさい」

 突然謝られた。顔を上げると、眉がハの字になった彼女が小さく首を傾げた。たぶん頭を下げようか迷った結果だと思うけど、俺には謝られる覚えがない。俺が気づかない一瞬のうちにイタズラでもされたんだろうか。額に肉って書かれたとか?

「えっと、なにが?」

「タバコ、中断させて」

 吸いたかったんでしょう? と彼女は目顔で俺の手元を示した。どうやら彼女には俺がよほど物欲しそうな、あるいは恨めしそうな顔をしているように見えたらしい。

「少しくらい待てばよかったんですけど。でも見つけてしまった以上注意しないわけにはいかなくて……あ、私、ここの看護師なんです」

「ああ、いや、えっと、知ってます」

「え?」

 彼女は当然のことをしただけだし、俺は煙草が吸えないくらいでイライラするほど重度のヘビィスモーカーではない。それなのに本気で申し訳なさそうにする彼女に、俺は久しぶりに少し焦った。そして言わなくてもいいことを口にしてしまった。できればスルーしてほしかったのだが、彼女はじっとこちらを見つめている。説明せずに済ませることはできなさそうだ。

「その……あなたがここのスタッフだってこと。小児病棟で見かけたことがあって」

 子ども三人を叱りつける態度が凛々しくて覚えていました、というのは伏せておく。

 彼女はまた不思議そうな表情になったが、

「そうでしたか」

 二回の瞬きで俺の説明を受け入れてくれた。

 俺が別館の入院患者だというのはひと目見れば誰でもわかる。髪の色が白くなるのがこの病気の特徴のひとつだ。色の変化は人それぞれで、ひと晩で雪のように真っ白になるパターンもあれば、徐々に白くなっていくこともある。俺のように部分的に白くなって止まるというのは稀らしい。

 その俺がなぜ本館の小児病棟に、と彼女が訝るのは当然だった。追求しない賢明さがいいなと思う。

 強い風が吹いて、緩く結わえた彼女の髪がサラサラと舞った。チョコレートのような深い茶色だ。思ったより短い。いつもきっちりまとめられていたからわからなかった。

 彼女を知ったのは入院する前のことだ。仕事でこの病院に来たとき、何度か見かけた。彼女を覚えていたのは第一印象ももちろんだが、顔が好みだったというのも大きい。

 もう少し話していたかったけれど、生憎と話題の手持ちがなかった。入院生活もひと月を越えると、昨日も今日も変わりがない。もっとも入院前だったからといって、俺に彼女を引き込む会話ができたとは思えないが。

 それじゃあと面白くもない挨拶をして立ち去ろうとしたとき、「ちょっと待ってくださいね」と彼女がカバンをさぐり始めた。

「よかったらどうぞ」

 差し出された彼女の手のひらには、個包装のチョコレートが三つ。

「ああ……えっと、どうも」

 どうぞと言われたので受け取ったが、なぜ急にチョコレートなのか。戸惑っていると彼女がくすりと笑った。

「口寂しいようなので」

 ああ、なるほど。彼女は俺が煙草に未練があって箱の中を覗いていたと思っているのか。そういえば、その誤解は解いていなかった。

 しかし、それにしても疑問は残る。普通こういうときは飴かガムが出てくるのではないだろうか。単に彼女の持ち合わせがなかっただけ?

「チョコ、お好きだったと思ったんですけど違いましたか?」

 まるで俺の疑問を読みとったかのようなタイミングでの彼女の台詞に、俺はさらにぽかんとしてしまった。なんで知ってるんだ?

「前に院内のネットワーク工事のときにいらしてましたよね?」

 確かに来ていた。でも、それはもう半年以上前のことだし、なにより俺は一度も彼女と話してはいない。それなのになぜ。

「すれ違ったとき、ほかの作業員の方はみんなタバコのにおいがしていたのに、あなただけチョコレートのにおいがして。それで印象に残ってたんです。ちょっと痩せられたようなので最初は気づきませんでしたけど」

 最後に付け足されたひと言でなんとも言えない居心地の悪さを感じて、俺は思わず彼女から目を逸らした。

 半年前といえば、ちょうど禁煙失敗の直前だ。三ヶ月目だっただろうか。

 禁煙を始めてから一日三回の食事量にとどまらず、間食が爆発的に増えた。口寂しくて何気なく買ったチョコレートが手放せなくなってしまったのだ。体質なのか、ニキビができることはなかったが、あっという間に五キロも太った。しかも、俺は顔から肉がつくタイプだ。人相が変わっていても不思議じゃない。

「やっぱり私の勘違いでした?」

 彼女の声音に少し不安が混じった。慌てて顔を上げると、眉尻が下がった彼女と正面から目が合う。きっとどんなときでも真っ直ぐに人を見るのだろう。強い人だ。

「いえ、正解です」と伝えると、彼女はにこりと笑った。安心したという微笑みではなく、やっぱりというどこか勝ち誇ったような笑顔。強くて、負けず嫌いな人だ。

「あ、一応確認しますが、食事制限はないですよね?」

「はい、特には」

 それもこの病気の特徴だった。熱も出ないしどこも痛くはならない。髪の色が変わるというわかりやすいサインが出たときには、中期くらいまで進行している。徐々に睡眠時間が長くなり、やがて夢と現実の境がなくなるらしい。

 原因は不明。一応有効な薬はあるが、効果は個人差が大きいそうだ。最近久しぶりに新薬が実用化までこぎ着けた。たぶん来週の診察でその話があるだろう。

 体力低下以外に目立った症状がないので、入院していても何かを制限されることはない。むしろ、よく食べて運動しろと言われる。けれど、さすがにチョコレートを食べ過ぎたら怒られるだろう。

「でも食べ過ぎたらダメですよ」

 またも内心を読み取られたかのようなひと言に、おののくよりも笑ってしまった。

 俺につられてか、彼女も笑った。今度はただの微笑みらしく、少し柔らかい印象だ。この表情をまた見たいなと思う。

 けれどそれ以上会話は続かず、彼女は「それじゃあ」と会釈すると裏門の方へ歩いて行った。大股で早足らしく、ずんずんと彼女の背中が遠ざかっていく。底の平たい靴を履いているため、足音もしない。

「今日は昨日とも明日とも違う日だったな」

 不意に口からこぼれた感想に、俺は一人で笑ってしまった。どうやら思った以上に浮かれていたらしい。

 もし薬が効いたら、あの背中に今度は自分から声をかけてみようか。いや、それよりも前に、もう一度偶然を装って彼女と話ができないだろうか。そんな現金なことを考える自分を微笑ましく思う。

 通りへ出た彼女がこちらを見てもう一度会釈をしてくれたので、俺も軽く頭を下げる。

 かすかな風に乗って、手のひらの温度で溶けたチョコレートの香りがした。

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