縁も所縁も無きにしも
池田春哉
第1話
湯気の立つ丼を机の上に置いた。七分目ほどに満ちた暗い水面に小さな波が立つ。
鰹出汁の香りが湯気とともに立ち上り、その中に仄かにたゆたう蕎麦粉の香りを見つけた。大海老天ぷらは衣がつゆに浸りすぎないのが好みなので、食べる直前まで別皿で添える。
年越しに蕎麦を食べる、というのは遥か昔から伝わる慣習らしい。その行為の意味はよくわかっていない。俺自身、小さい頃から親がそうしていたので深くは考えず従っているだけに過ぎない。
まあでも寒い夜に食べる温かい蕎麦は身体によく沁みわたるので悪くはないけれど。
『もうすぐ今年も終わりですね。お蕎麦の準備はよろしいでしょうか?』
蕎麦の思い出に引っ張られるように「そういえば父さんたちは元気かなあ」などと考えつつ、部屋の壁に映し出された映像を見る。
雪の積もる寺社が映し出されており、そこの寺のお坊さんが鐘を何度も
春から一人暮らしを始めて、今回が初めての年越しとなる。以前から一人暮らしをしたいとは考えていたが、やはり一人は気楽でいい。
『さてみなさん。いよいよあと三十秒で新年の幕開けです』
アナウンサーが話している間にも時間は着実に過ぎていく。映像の中では至るところで「良いお年を」という言葉が連呼されている。これも昔から伝わる言葉だ。
それから少しして、カウントダウンが聞こえてきた。
『8,7,6――』
徐々に声が大きくなってくる。
その声量に勢いづいたのか、お坊さんは力いっぱいに
『5,4,3――』
俺は蕎麦の上に海老天を乗せた。熱いつゆを一口啜り、息を吐く。
長い蕎麦を箸で絡めて持ち上げる。その拍子につゆが一滴、天板に跳ねた。
『2,1――』
蕎麦を口に運ぶ。歯切れのいい蕎麦を口いっぱいに頬張りながら、追加でつゆをもう一口啜った。美味い。沁みる。
『0』
年が明けた。
──その瞬間、音が消えた。
映像の中からは人が消え、操り手を失った橦木は残りかすのような慣性に従って、小さくひとつだけ鐘を鳴らす。
「……ああ」
少し戸惑ったが、俺はなんとか状況を理解した。聞いたことはあったがこうして間近に見たのは初めてだ。
大海老天を一口齧る。つゆを吸い込みすぎた衣からは何の音もしない。
タイミング失敗したな。
そうは思ったが、直前にもっと大きな失敗を目の当たりにしたせいか、俺はさほど気にならなかった。
だって全員、年越しに失敗してるんだから。
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