第4話
私は天真爛漫な亜由美が大好きだった。気の合う大好きな親友だった。どんな話をしていても楽しくて、どんなことでも亜由美と一緒にしたかった。亜由美が困っていたら助けたかったし、亜由美が悲しい時には側にいたかった。
それでも私は一番大好きな友だちだとしか思っていなかった。
それが違うと気付いたのは亜由美に彼氏ができたと聞いたときだ。智代に彼氏ができたときは友人として祝福した。彼氏への誕生日プレゼント選びを手伝ったこともある。
だが三年生の春、亜由美に彼氏ができたと聞いて自分でも驚くほど動揺した。なんとか亜由美たちの前では平静を保っていたが、一人になるといつも泣いていた。胸が痛くて、苦しくて、どうしてそんな気持ちになるのか、そのときはまだ理解できなかった。
「傷心の九条さんを救ったのが、秋野先生なんですね」
店長さんが静かに言う。私は思わず飲んでいた白ワインを吹き出しそうになった。
「なぜそこまで知ってるんですか」
「ストーカーっぽくてちょっと怖いですよね」
店長さんは眉尻を下げて笑みを浮かべた。
「でもこれは九条さんたちが悪いんです。生物室にノートを忘れて取りに行ったとき、偶然見ちゃったんですよ」
「何を?」
「キス」
「それは……私が軽率でした」
まさか見られていたとは思わなかった。いや、見られていなくても学校であれはまずかったのだろう。本当に問題にならなくてよかった。
もしも見たのが店長さんでなければ表沙汰になっていたかもしれない。もしもそうなっていたら秋野先生は笑顔で同窓会に参加することもできなかっただろう。
私は元生徒たちに囲まれる秋野先生の姿を目で追う。
「三年生になってすぐくらいに九条さんの様子がおかしいなって気付いたんです。その後、池田さんに彼氏ができたと知りました」
「そんなに分かりやすかったですか?」
「何か無理をしているように見えました。ちょっと痛々しいくらいに……。他の人が気付いていたかは分かりませんけどね」
「店長さんは、本当に私のことを観察してたんですね」
そう言うと店長さんは気まずそうに目を逸らした。
「あの頃の私には見ていることしかできなかったので……」
これほどまでに私を気に掛けていてくれる人がいたのに、それに気付かない私は本当に鈍すぎる。それは自分の想いだけに精一杯だったからだろう。
「あ、そういえば毎年バレンタインにチョコを贈ってくれていたのって、もしかして店長さんですか?」
「え、あ、はい……」
「そうだったんですね。名前がなかったからお返しもできなくて」
「ごめんなさい、気持ち悪かったですよね」
「いえ、びっくりしましたけど、うれしかったです」
「今思えば下駄箱に食べ物を置くなんて、非常識甚だしいですよね」
「あー、それは確かに」
二人でクスクスと笑っていると秋野先生と目が合った。私はペコリと頭を下げる。秋野先生も小さく笑みを浮かべた。
すると「さて」と言って店長さんが立ち上がる。
「もうすぐ終わりの時間ですし、私はもう少しクラスメートに挨拶をしてきます。九条さんは秋野先生と少しお話してはどうですか?」
「え……」
秋野先生とは少し話をしておきたいとは思う。だけど店長さんとも、もっと話がしたかった。だが引き留める間もなく、店長さんは「それじゃあ」と言ってあっさり背を向けて歩き去ってしまう。
それと入れ違うように秋野先生がやってきた。私は去って行く店長さんの後ろ姿を目で追うのを止めて秋野先生を見上げた。秋野先生は店長さんが座っていたのとは反対隣の椅子に座る。
「久しぶりだね」
「はい」
「九条さん、すっかり大人になったね」
「先生は相変わらずかわいいままですね」
「何言ってるのよ、私ももうアラフォーって言われる年だよ」
秋野先生は少し照れながら笑った。
亜由美に彼氏ができたと知り、その光景を直視できなかった私は、一人になれる場所を探して校内を歩きまわった。そしてたまたま辿り着いたのが生物室だった。放課後の静かな生物室に近づきたいと思う生徒はあまりいなかったようだ。
私はそこでただ泣いていた。涙が出る理由も、胸が痛い理由もわからないまま、ただ泣いていた。
そこに秋野先生が現れたのだ。生物を担当していたのだから生物室に来るのは当然のことだけれど、そのときの私には私を救ってくれる存在のように思えた。
秋野先生は涙の理由を聞こうとともせず、ただ私の肩を抱いてずっと側にいてくれた。そして少しずつ胸の痛みを打ち明けると、秋野先生は「九条さんは池田さんのことが好きだったんだね」と静かに言った。その言葉で私はようやく自分の気持ちを理解して、同時に失恋をしたのだと知った。
その日から、私は度々放課後の生物室に足を運ぶようになった。亜由美と彼氏を直視できなくて生物室に逃げ込んだ。先生はいつでも笑顔で迎えてくれた。そうして私は秋野先生に依存していき、いつしか先生と生徒以上の関係になっていた。
「私、先生にお礼が言いたかったんです。あと、お詫びも」
「あー、それは私も同じかな」
そうして二人揃って苦笑いを浮かべる。
私と秋野先生の関係は長く続かなかった。
あのときの私は秋野先生のことを好きだと思っていた。いや、好きだったことに間違いはない。だが、それはとても身勝手な想いだった。まだ亜由美に想いを残しながら秋野先生に依存して、秋野先生のやさしさに甘えていただけだ。そして秋野先生はきっと、私への想いと教師としての立場に悩んでいたのだろう。
私は、私の自分勝手な想いに気付けず、先生の苦悩も理解できなかった。あの頃、若かったという言葉では片づけられないほど先生を傷つけたと思う。
「先生、あのときはありがとうございました。先生がいたから私は前を向けたんだと思います」
すると秋野先生は静かに首を横に振った。
「それは私の台詞。九条さんに会えたから私は今でも教師を続けられてるの。あの頃、私、教師を辞めようかと思ってた頃だったから」
「そうなんですか?」
「教師になって三年目で、何をやってもうまくいかないし、生徒たちには馬鹿にされてると思ってたし。教師は向いていないんじゃないかって思ってたの。だから九条さんに頼られたのがうれしくてね」
秋野先生は懐かしむように目を細める。
「九条さんを助けたかったし、泣いてる九条さんはかわいかったし、とにかく何とかしてあげたかったの。だから、つい、ね」
「つい、ですか?」
私と秋野先生は目を合わせて吹き出す。
「でもね、九条さんのおかげで私がどうして教師になりたいと思っていたかを思い出せたの。だから、ありがとう」
「私も、先生のおかげで救われました。ありがとうございます」
そして一呼吸おいてから私は先生に問う。
「先生は、今、幸せですか?」
「うん、幸せだよ」
秋野先生の笑顔はとてもきれいだった。その笑顔を私は心からうれしく感じる。
「九条さんは、幸せ?」
返ってきた質問に私は少しだけ考える。そして真っすぐに秋野先生を見て答えた。
「はい。幸せです。色々ありますけど、前を向いて進めています」
「そう、よかった」
そう言って浮かべた秋野先生の笑みは、教師としての笑みに見えた。
そのとき「宴もたけなわではございますが……」という声が響いた。どうやら締めの挨拶がはじまるようだ。
辺りを見回すと店長さんが会場を出て行こうとしていた。
「すみません先生、私、行かないと」
そう言って立ち上がり、秋野先生に頭を下げる。そして私は慌てて店長さんの後ろ姿を追った。
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