第16話 病院への帰還

 受付で突然の逃亡を詫びると、担当医と看護師長がすぐにやってきた。ずいぶんと心配をかけたようである。


「まったく。あれだけの大怪我をして、よくうちに帰ろうだなんて考えたものですね」

「すみません。入院費が払えそうもありませんでしたので。今日は昨日までの清算で来ました」

「清算じゃ済まないんですよ。お金に関しては高額療養費制度の説明もしましたし」


「高額療養費制度を使っても先に払い込まなければならないんですよね。それは払えませんので、昨日で退院したと思って──」

「そういうわけにはいかないな。どんな経緯でそんな大怪我を負ったのかは知らない。でも、その体を押して帰宅しようとした君を止められなくて後悔していた患者さんもいるんだ」


「生津さんですね。あの人にはご迷惑をおかけしました。あの人にも気づかれないように出ていこうと思ったんですけどね。大部屋は意外と行動が筒抜けなんですね」

 医師がため息をついた。

「大部屋は患者さん同士でコミュニケーションをとって、病気や怪我を乗り切ろうって人のためにあるんだ。君のように、本来なら絶対安静の人が入る場所じゃない。同じ部屋の人に迷惑がかかるからね」

「そういうことでしたら、やはり再入院はできません。苦学生では個室のベッド代なんて支払えませんから」


「ご両親を頼ればいいでしょう。なんのための親だと思っているのですか」

「少なくとも迷惑をかけるための親ではありませんよ」

「いや、親は好むと好まざるとにかかわらず、子どもの迷惑を引き受けるものだよ」

 見解に相違があるな。

「それに大学と警察にも容態を報告しなければならないんだ。君ひとりだけの体じゃないんだぞ」

「でも自分がどうしてこんな状態になったのかも憶えていませんし。お役に立てませんよ」

「まあいい。とりあえず、患部の消毒とヒビの入った骨の固定をするから、こっちへ来なさい」

 医師と看護師長に従って処置室へと入った。


「じゃあその浴衣を脱いでベッドで横になって」

 医師はなにかに気づいたようだ。

「君、勝手に包帯を替えたね?」

「はい、シャワーを浴びるのに邪魔でしたから」

 呆れた顔を見せられた。

「全身痛いはずなのに病院から逃亡するわ、血が固まってガーゼだって剥がしにくいはずなのにとるわ。まったくたいした度胸だよ」

 褒められているわけでないことはニュアンスでわかる。完全に呆れているようだ。


「じゃあ包帯とガーゼをとるから、痛かったら言ってくださいね。あ、お母さんとお嬢さんは外で待っていてください」

「いえ、目を離してまた逃亡されたら困りますので」

 これはなかなか厳しい状況だな。だけどこれから血を見ることになるんだけど、本当に外していなくてだいじょうぶかな?


 医師は器用に包帯を解いていく。やはり本職は手際が違うな。素人が適当に巻いた包帯でも簡単に巻き取ってしまった。

「じゃあガーゼをとるからね。患部が乾いているとかさぶたは剥がれるし血も出るからね。覚悟しておいてください」

 明らかに嫌味だ。素人にきちんとした手当なんてできないとわかったうえでなのだから。

 ガーゼと脱脂綿もテキパキと湿らせながら剥がしていく。そして患部があらわになった。

「ヒッ……わ、私、怪我は苦手で……」

「お母さんは表で待っていてくださってけっこうですよ」

「わかりました。それじゃあ新井さん、後はお願いね」

 新井が応えると母さんは看護師により処置室の外へ案内された。


「これ、市販の消毒液と化膿止めを使ったでしょう」

「はい、そうですが」

「市販のものは化膿止め効果が低いんだよ。もし戻ってきていなかったら傷口が膿んでたいへんなことになっていたはずだ。場合によっては患部を切らなきゃならなかったかも」

 新井の顔が青ざめた。仕方ないか。まさか俺も切るほどの怪我だとは思ってもいなかったからな。

「まあ今はちゃんと消毒して化膿止めを塗るから、切らずに済むはずだよ。ただ明日まではちょっと熱を持つかもしれないけどね」


「処置が終わったら、どうする? 個室に戻るか大部屋のままのほうがいいか」

「生津さんにご迷惑をおかけしたので、謝る意味でも大部屋でお願いします」

「それがいい。きちんと謝るんだよ」



 すると新井のスマートフォンに着信があった。電源を切っていなかったらしい。画面を見た彼女はすぐに通話ボタンを押したようだ。

「今はある程度だいじょうぶだけど、医療機器は敏感だから電話なら受付あたりまで出てから使ってください」

「わかりました。ちょっと失礼致します」


 消毒と化膿止めを塗り終わり、ヒビの入った骨をサポートするために包帯を固くぐるぐる巻きにされた。

「ヒビが入っているのは左右の腓骨と右肋骨、右尺骨の四本だ。それ以外は打ち身こそひどいけどヒビは入っていたり折れたりしていないから」

「わかりました。ちなみに退院はいつ頃できそうですか?」

「普通の怪我なら君がちゃんと僕たちの言うとおりにしてくれたら、二週間もあればヒビも半分くらいはくっつくから、早ければその頃には退院できるよ。まあその後も完全にくっつくまでは通ってもらうけどね」

「意外と重傷だったんですね」


「あとは運び込まれた際、頭部にも強い打撲と出血もあったから、これは長い時間をかけて経過観察していかなきゃならないね」

「どうしてですか? 頭は今痛みがないんですけど。まあ記憶もありませんけどね」

「それだな。君のカルテを見たけど脳震盪のうしんとうを起こしていたのは確かだから。頭部への外傷は異変が出るまでに一週間とか一カ月とか一年とか。そのくらいいつ発症するかわからない時限爆弾みたいなものなんだ」

「患者に平気で怖いこと言いますね」


「当たり前だよ。君が運ばれてきてから目が覚めるまでに三日かかっているんだから」

「えっ、三日間寝たままだったんですか?」

「聞かされていなかったの?」

 母さんも新井も看護師長も言っていなかった。てっきり当日に少し寝ていたくらいな認識だったのに。

「先生も言わなかったですよね?」

「ご家族から聞いていると思ったからね」

 この医師も調子のいいことを言っているな。本来なら医師が告げなきゃいけないことだろう、そこは。


 そうこうしていると新井が戻ってきた。

「あ、お嬢さん、これから吉田さんを病室に案内しますので、お母さんを呼んでください」

 彼女が処置室の外で待っていた母さんを呼び入れた。

「それではご案内致しますので、看護師長ご案内してあげて」

 俺の歩くスピードに合わせて、皆ゆっくりと進んでいく。


 エレベーターを待つ間、新井に先ほどの電話の相手を聞いてみた。

「映画サークルの人たち。吉田くんに直接謝りたいんだって……」

「新井さん、それお断りしてくださいな」

「え、ですが……」

「息子をこんな目に遭わせた人たちは二度と近づけさせません!」

 俺もまだ会って冷静に話せるだけの心持ちではなかった。


「俺、本当に吹き飛ばされたんだよな? 記憶がまだ戻ってないんだけど」

「うん、あの場にいた全員が見てた。だから吉田くんが病院からいなくなったときに、映画サークルの人たちも全員手分けして探してくれていたんだって」

「どうせ警察で懲らしめられて、少しでも心証をよくしようって腹なのね。自分たちの責任を棚に上げて。なんて自己中心的な人たちなんでしょう」


 まだあの日の記憶は戻っていない。

 あの日、いったいなにがあったのだろうか。



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