第15話 周囲の心配をよそに

 タクシーで部屋に帰り着いた。


 運転手には「忘れ物を取りに来ました。料金がもったいないので帰りは別のタクシーを呼びますので」とだけ伝えてあった。

 ただでさえこの包帯だらけの体を見たら乗車拒否されそうだったので、点滴の針を外して病院の裏口からタクシー乗り場へまわり込んだのだ。

 そしてさりげない態度でタクシーに乗り込んだのである。深夜料金をとられたのは痛かったが、それでも一万円以内でどうにかなった。


 久しぶりに帰ってきたわが家はあいからわず狭かった。

 だが、体が痛いときはこの狭さがかえってラクに感じる。

 病院ほど大きいと、トイレにいくだけでも一苦労だが、ここなら少し歩けばすぐに用を足せる。

 まずはスマートフォンを充電しておこう。入院期間ですでに充電切れだったからだ。

 そのあとはとりあえずベッドで寝よう。

 病院から抜け出すのに神経を使いすぎた。それに痛みがさらに眠気を誘ってくる。普通痛みがあると気になって眠れないものだが、これほど強く痛むとむしろ眠りたくなってくる。

 その日は疲れと痛みですぐに寝つけた。



 朝になり、まずはお風呂に入ろうと全身に巻かれていた包帯を解いていく。

 固く巻き付けられていたせいか、外していくたびに痛みが増していく。これはまだやってはいけないやつなのか? と思ったが、一度始めたものは最後までやるしかない。

 包帯の下にはガーゼと脱脂綿の層があった。細菌の感染を予防するためと思われる薬品の匂いもする。当て物をゆっくりと剥がそうとすると、一部患部に貼り付いていてとれなかった。

 まあシャワーで血の塊を溶かしながらならいけるかな、ということでとりあえず当て物をしたままお風呂場に入る。

 久しぶりのシャワーは全身にとてもしみたが格別だった。この瞬間は「生きている」と強く感じる。

 なんとか当て物を外すと、その下はなにか刺さったものを取り除いたような痕があった。やはり新井が言っていたことは正しかったようだ。


 湯船に入るのはさすがにやめておき、バスタオルを押し当てて水気を吸い取る。さすがに「こする」という選択はしなかった。せっかく塞がり始めている傷口を開きかねないからだ。


 冷蔵庫の中を見ると、賞味期限切れのパンや卵や牛乳などがあった。

 食べずに捨てるのはもったいないが、この状態で食あたりしても困る。なので牛乳は流しに捨て、卵は焼いて固めてから生ゴミの袋に入れていく。

 食べられるものを探してみると、チーズとハムが見つかった。菜っ葉類はヘタっていたが、根菜類は日持ちがするので問題ない。


 とりあえず、細かくしたじゃがいもを茹でている間にチーズとハムを切っておく。茹であがったらチーズとハムと混ぜてマヨネーズで和えた。即席のポテトサラダだ。

 なにも食べないよりはましだから、まずはこれを食べてそれから食材の買い出しに行こう。ついでに消毒液とガーゼ、脱脂綿も必要かな。

 あとはやはり包帯も必要だろう。ある程度圧迫しているほうが痛みが小さくて助かっていたからな。医師はなんの計算もなく包帯を巻かないのだなと考えを改めた。


 外出するために服を着ようと思ったのだが、どれも肌にくっついて痛みを感じる。

 ダボダボの服がないかクローゼットを調べると運動用のスウェットが見つかった。ダボダボでも人目は惹かないからこれを着よう。

 すねから下は傷もないので、スニーカーを履けばとりあえず不審者には見られないはずだ。

 昨日の残り一万二千円と五十パーセント充電が完了したスマートフォンを持ち、備蓄していたマスクを一枚つけて、買い出しに出ようと外へ出る。


 するとスマートフォンが鳴り出した。

 着信画面を見ると新井からだった。ということはもうバレたのか。

 応答はせず、着信音が鳴り終わるのを待ってから電源を切った。これで当分こちらの居場所はわからないはずだ。


 どうせ退学になるのだから大学へ行く予定はない。また新井は俺の部屋がどこにあるのか知らないから、居場所を突き止められるはずもなかった。


 痛みでゆっくりとした足取りだったが、手早くドラッグストアとスーパーマーケットを巡って、目当てのものを買って帰ってきた。

 給料日まであと二日だが、仕事を飛ばしてしまったうえ明日からも出勤がないので、振り込まれない可能性もある。だが今は致し方ない。

 家賃も払えなくなるかもしれないので、この部屋で暮らせるのもあとわずかだろう。


 買ってきた消毒液で傷口を消毒していく。かなり痛い。いやとんでもなく痛い。自分ですべての傷口を処理していくと考えると気が遠くなりそうだった。

 しかし、化膿させてしまったらさらにひどいことになるのは目に見えているので、我慢して消毒していく。ドラッグストアで聞いた化膿止めのクリームを塗りつけて、ガーゼと脱脂綿で蓋をしていく。その上から包帯を巻いていけば、みすぼらしいながらも病院を抜け出したときと同じ格好になった。


 この格好のまま勤め先のコンビニに行けば事情を理解してくれるかもしれないな。食事を済ませたらさっそく向かうことにしよう。


 とりあえず今朝は菓子パンふたつに牛乳を合わせることにしていた。調理するのも億劫なので、そのまま食べられるものを選んだのだ。


 よし、食べるものも食べたし、コンビニへ行こう。

 辞めさせられるにしても、きちんと面と向かって解雇されたほうが遥かにましだ。飛んだままでそのまま消えるのは道義にもとるからな。



 コンビニの店長はなんとか事情を察してくれたが、シフトを飛ばした責任をとらされることとなった。とりあえず大判の制服を貸してくれ、そのまま仕事をするよう言い渡された。



 仕事先から帰ってくると、アパートの前で新井と母さんが待ち構えていた。

 そうか、親が賃貸契約の保証人なのだから、どこに住んでいるのかはすぐ探せたわけか。


「一哉、あんた今までなにしていたの?」

 こんなとき、なんて言おうか迷ってしまうな……。

「仕事をしてきただけだって」

「仕事って?」

「吉田くん、まさかコンビニのバイトに入っていたの?」

「まあな。立ち話もなんだから、部屋にあがっていってよ」


 階段を昇って二階のわが家へ案内する。

「なにもない部屋だけど、よかったら入って」

 忘れていた。血の着いたガーゼや脱脂綿を出しっぱなしだったんだ。

「ちょっと待っててくれる? 見せたらまずいものがあるんだ」

「待ちません。すぐにあがらせてもらいます」

 母さんはそのまま部屋に入ってきた。新井もそれに続く。


「キャーッ、血っ、血が!」

 それは普通にあるだろう。こっらは怪我をしているんだから。

「吉田くん、病院に戻ろう。先生も看護師さんたちも心配しているよ。同室の生津さんって人も止められなかったって後悔していたし」

「お金がないんだから入院なんてできないよ。借金したところで返すあてもないのに」

「お、お金なら私たちがなんとかします。こういうとき少しは親を頼りなさい」

 青ざめた顔をして母さんが俺の体を掴んだ。すっげえ痛い。

「お母さん、手を離してください。吉田くんまだ傷口が塞がっていないんですよ!」

 その声で我に返ったようだ。慌てて体にかけた手が離された。

「あんたが小さいときから、医療保険に加入しています。これを申請すれば入院費くらいならなんとかなるから……」


 さてどうしたものか。


 全身の痛みと疲労で今にも眠りたいのだが、母さんと新井の顔を立てるには病院へ戻らなければならない。

 するとドアをノックする音が聞こえてきた。渡りに船だな。

「はい、どなたですか」

 ドアを開くと、そこには映画サークルの山本監督と大川助監督、スタントマンの松山さんが立っていた。


 どうやってここを割り出したんだ、この人たちは。

 あ、大学の事務局で聞けばいいだけか。同じ学生で行方不明になったと知れば、住所くらいは教えてくれるかもしれない。

 いや、個人情報の保護が求められる現在、その手で不正する輩もいるだろうから教えないはずだ。新井が知らせでもしたのだろうか。でも電話番号も知らないはずだよな。


 とはいえ、俺は怪我をした経緯をまったく憶えていない。その状態で謝られても、素直に受け入れられるはずもない。


「吉田くん、あの、私たち、本当に──」

「すみません。これから急いで病院へ戻らなければならないのでここで失礼致します」

 すぐにドアを閉めた。

 外からなにかを言っている声が聞こえてくるが意に介さずスマートフォンと充電器、それに部屋に隠してあるへそくりを取り出した。

 これでなにかあったらまた逃亡してここに帰ってこられる。


 スマートフォンの配車アプリでタクシーを予約した。

 これでじきにアパート前にタクシーが到着するはずだ。それに乗ってこの場を切り抜けよう。

「母さん、新井、病院に戻ろうか」



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