第四章 入院、そして……

第13話 なんで入院しているんだろう?

 ──ああ、もう朝だな──早く起きて大学に行かないと──。


 まぶたが重くて、なかなか開けない──。


 でも早く起きないと──単位が──。


 体もだるくてまったく動かせない──でも単位が──せっかく大学へ通えているのに──。


 意識を集中させていると、うっすらまぶたが開いていく。

 そこには見知らぬ光景が浮かんでいた。


 うちはこんな真っ白で高い天井じゃない──。しかもカーテンレールもある。俺の部屋にそんなものはない。

 傍らから誰かが覗き込んでくる──。

 あれ? なんで新井がいるんだ?


「吉田くん! 吉田くん! 聞こえる? お母さん、吉田くんが!」

 ここは新井の家なのか。でもいつ彼女の家に行って、ベッドで眠ってしまったんだろう──。

 それにしても、なぜ彼女の母親を呼んでいるんだろうか──。

「一哉! 目を覚ましたのね!」

 なんで俺の母さんが……。


「お母さん、今看護師さんを呼んできますから」

 新井が視界から消え、ドアの開く音がする──「看護師」?──。


「まったくお前って子は……なんて無茶をしたのよ……。あとで意識が戻ったと大学や警察にも連絡するからね」

 逆さに見える母さんの目に涙が浮かぶ。俺、親不孝なこと、なにかしたかな? バイトして稼いだ金で大学へ行っているし、部屋も借りている。


 そういえば新井が「看護師」って言ってたっけ……。

 ということはここは病院か……?。

 大学とバイトと撮影で忙しかったから、過労で倒れたのだろうか……。



 倒れた日がいつなのか、まったく思い出せない。しかしバイトのシフトを飛ばしてしまったのだから、もうクビだろうな。

 となれば学費は払えなくなるし、部屋も退去せざるをえないか。

 大学も中退で、これまで苦労して働いたものがすべておじゃんだ。


 しかも入院費なんて払ったら、食べることすらできなくなっちまう。


 ハハハ。結局人生のすべてが終わってしまったんだな。

 やはり誰かの趣味で撮っている映画なんかに参加するんじゃなかった。


「吉田さーん! 吉田さーん! 聞こえますかー!」

 男性の声が聞こえる。白衣を着ているからおそらく医師だろう。

 ペンライトが目に当てられていく。けっこう眩しいな。


 これって、瞳孔の反応から意識のチェックをするやつか。

 かなり大袈裟なことをするんだな。ただ疲労で倒れただけだっていうのに。


「お母さん、意識は回復したようです。瞳孔も呼びかけも応えています。ただすぐに話せるかはわかりません。これからの回復次第です。とりあえずひと安心してくださいね。それじゃあ入院の手続きがあるので看護師さんに事務所まで案内してもらってください」

「先生、ありがとうございました。よかったねえ一哉」

 母さんはまだ涙を流している。そうしてしまった自分が許せない。


 すると看護師さんが母さんを先導して病室を出ていく。


 いったいどうしてこんな目に遭ってしまったのだろうか。

 そのせいで人生が詰んでしまった。

 もう将来を夢見ることさえできなくなったんだな、俺。


 ひとり残された新井が俺を覗き見ている。

 すまない、新井。俺、もうお前の隣で笑っていられなくなっちまったよ。

 本当にごめん。

 お前とももうお別れだな。

 視界が波打って見える。きっと涙を流しているんだろうな……。


 もう、すべては終わったことだ。終わったんだ、俺の人生。

 せいぜい今くらいはしっかりと体を休ませておこう。

 新井と笑って話せるようになるまでは……。



 二日後、ようやく声が出せるようになり、すぐに看護師さんを呼び出した。

「吉田さん、どこか痛みますか?」

「痛みより動かせないほうが堪えますね。それで急でなんなのですが、病室を変更したいのですが」


「病室の変更? 患者から直接言われるとは思わなかったわね」

 なかなか貫禄のある看護師さんだった。看護師長さんなのかな?


「ここ個室じゃないですか。一日どのくらいのベッド代になるんですかね?」

「それなりにはかかりますね」


 俺に貯金はほぼない。バイトの給料で学費と生活費を賄ってカツカツなのだ。こんな何万ともしれない病室になどいたら、莫大な借金を背負うようなものである。


「ですが頭部も強打しているようでしたので経過を観察しなければなりませんし、個室のほうがプライバシーも守れますよ?」

「プライバシーよりお金の問題です」

「どういうこと?」


 手早く苦学生であることを伝えた。

「でも病室の契約をなさったのはお母様ですよね? お金の心配はしなくてもよいと思いますよ」


「いえ、自分で稼いで学費と家賃を払うのが大学に行く条件なんです。だからこんな高い部屋に泊まっていたら、いつまで経っても借金を返せませんよ」

「低利率のローンも組めるけど?」

「大学生のアルバイトです。ローンなんて無理ですよ」


「どうしましょうかね。先生に伺ってみましょうか」

「すぐにお願いします」

 看護師が部屋を出ていった。すれ違いでドアをノックされた。

「失礼します」

 現れたのは新井だった。


「新井じゃないか、久しぶり」

 ちょっとびっくりした顔をしている。


「吉田くん、話せるようになったのね」

「まあね。過労で倒れたくらいで病院に長居するつもりもないから」

「えっ?」

「ん?」

 どうも話が噛み合っていないようだ。


「過労じゃないのか?」

「吉田くん、“事故”の記憶がないの?」

「事故って、俺、車にでも轢かれたのか?」

「ううん、そうじゃなくて……」


 言い淀んだ姿を見せられると、真相が知りたくなるな。


「吉田さん、先生をお連れしました」

 一昨日に見た顔の医師だった。


「急にどうしたんだい、部屋を替わりたいだなんて」

「俺、バイトで学費と家賃を払っているんで、貯金がないんです。個室は高すぎるので八人部屋とか十人部屋とかにしたいんですけど」

「珍しいな。たいていの患者は個室を指定してくるくらいなのに」

「バイトのシフトを飛ばしてしまったんで、おそらくクビになったと思います。するともう医療費を支払うこともできません」


「高額療養費制度って知ってる?」

「いいえ」

「治療を受ける前から医療費が高額になるとわかっている場合は、申請すれば一定額以上は健康保険から補填してもらえる制度なんだ。君の場合は医療行為が先だったから、まずは全額支払ってもらう必要はあるけど、だいたい月十万円を超えたぶんがまるまる戻ってくるイメージでいいんだけど」


「それでも一度は全額を払わなければならないんですよね。そんなお金はありませんよ」

「お母さんはどうなんだい?」


「ダメですね。俺が大学への進学を許されたのも、自分で働いて学費と家賃を払うことが条件だったんです。つまり両親も俺にかけるお金なんてありませんよ」


「困ったね。うちの病院の相談員にでも話を通しておこうか。医療費についての相談や生活支援などもしてくれるから」

「それにしても、個室で療養するぶんの支援は得られそうにありませんよね。それならまずは大部屋に移して、そのうえで相談するのがいいんじゃないでしょうか」

「確かに君の言うとおりか」

 医師は俺を説得するのが無理だと悟ったようだ。


「師長、彼を今空いている大部屋に移してください。仮に支援が受けられたら、また個室に戻ってもらえばいい。今は患者さんの申請を拒絶しないように」

「わかりました」


「吉田くん……」

 俺の傍に立っていた新井から、弱々しい声が聞こえてきた。



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