第三章 現代映像研究会のスタントマン

第9話 撮影復帰

 それから一週間、映画サークルの人が来ても無視して講義とバイト以外は静養に努めた。

 おかげで体がそれまでよりも軽く感じられる。やはり休養があるだけできちんと生活がまわるのだ。

 このまま撮影がなくなれば、どれだけ楽しい学生生活を送れるだろうか。


 しかし幸せな時間はそう長くは続かなかった。


 講義を終えて新井と部屋から出ようとしたとき、山本監督が行く手を遮る。

「一週間待ってあげたわ。そろそろ撮影に臨める体調に戻っているはずよ」


「いっそクビにすればいいと思いますよ。そうすればこちらは薔薇色の学生生活を満喫できるんですけどね」

「コンビニのバイトには毎日通っているようだけど?」

 監督が嫌味を交えてきた。


「バイトしないとここには通えませんからね。俺の将来を台なしにして、その責任がとれるというのであればかまいませんが? たとえば一生食べていくに困らないだけの金額を与えてくれるとか」

「いくらくらい?」

 まぶたを半開きにして鋭い視線を送ってくる。


「サラリーマンの生涯収入がだいたい三億円だそうですよ」

「三億円!? あなた、私たちに払えもしない額をふっかけているんじゃないでしょうね」


 発言内容を疑うくらいなら、最初から主役なんてさせなければいいのだ。

 信頼関係のない監督のもとで働くいわれはない。

 そもそも俺は推理サークルであって映画サークルでも演劇サークルでもない。それで演技を要求されたって、どだい無理な話である。

 新井も知っているように、俺の演技力は限りなくゼロに近い。


 隣に控えていた助監督の大川さんが、スマートフォンで検索をかけていたようで、その画面を監督に見せている。

「どうやらただのブラフじゃなかったようね。でもそれだけの資金があるのなら、最初から演劇サークルに協力を仰いでいるところよ。私たちには資金がないの」


「そちらの資金のあるなしは俺には関係ありません。苦学生を撮影に引っ張り込もうとするなら、相応の対価は求めて当然ですよね。こちらは講義とバイトで汲々としているんです。皆さんのように遊びで青春を謳歌する立場にないもので」


 ふたりの影に隠れるように身を潜めていた松山さんが歩み出て、山本さんと並び立つ。


「彼の言い分にも一理ありますよ、監督。僕たちは青春を懸けて映画を作ろうとしています。そこにまったく他人の人生まで勝手に賭すのはフェアじゃない」


「松山くん、あなたね。このままじゃオープンキャンパスまでに映画は完成しないのよ? 撮影だってまだ全体の半分くらいしか進んでいないんだし」

「それはこちらの理由です。彼の動機にはなりえない。少なくとも彼のバイト代くらい補填してあげなければ、僕たちの道楽に付き合わせるのは割に合わないはずです」

 監督は頭を掻きながら聞いていた。

「しかし、うちの活動資金じゃ補填なんてできやしないわよ」


 ちなみに俺の時給は千五百円だ。一日八時間働いているので一万二千円ということになる。

「一日一万円も払えやしないわ」

「一万二千円です」

「わかっているわよ」


「監督、どうでしょう。プロデューサーに相談してみては。あの人がうちの金庫番なのですから交渉してみましょうよ」

「しかしねえ」


 どうやらスタントマンの松山さんは俺に理解を示してくれているようだ。

 単身ハリウッドに留学して自活していただろうから、俺の境遇をいちばん理解してくれる人なのかもしれない。


「吉田くんはどうですか。もし一日一万二千円の出演料が払われたら撮影に復帰してもよいと考えていますか?」

 正直それを聞かれるのが怖かった。


 確かに演技は難しくてリテイクの嵐で、とても楽しいとは思えない。それでもOKをもらえたらそれなりの満足感は味わえる。

 でも門外漢の演技なのだから、冷静に見直せばとても人様に見せられるような演技ではない。演劇サークルの平木部長からすれば、まさに小学生のお遊戯だ。

「今の演技レベルで一日一万二千円頂けるのであれば改めて考えます。少なくとも現時点では必ず頂けると確約されていませんので、態度は保留します」


 松山さんがここまで助け舟を出してくれている。やはり本場仕込みなだけあって、金銭感覚がまともなようだ。

「わかったわ。今日村上さんに聞いてみます。それで吉田くん、きちんと出演料が払われれば撮影に復帰してくれるわね?」

「あまり本意ではありませんが、そちらに相応の誠意を示していただければ、こちらもそれに応えるつもりです」

 監督は大川さんを連れて、来た道を引き返していく。松山さんはついていかずこの場にとどまった。


「松山さん、ありがとうございます」

「なに、僕もアメリカで苦労したからね。君の境遇は理解できるつもりだ」

 やはりわかる人がいてくれるだけでもありがたい。

「その代わり、次の撮影からは僕も交えたものになるからね」

「えっ、スタントマンが役に入るんですか?」

「いや、吉田くんのスタントをするだけさ」

 とても危険な香りのする言葉だ。


 これまでに感じていた変なところを新井が指摘する。

「この作品、本当に推理ものなんでしょうか? 最初に渡された台本では純粋な推理もので、一哉はその主役の探偵でした。しかし次に渡された台本では真犯人は探偵の一哉で……。どうにもそれだけじゃないと思い始めていたんですけど……」


「新井さんの考えもあながち間違ってはいない、かな」

「つまり派手なアクションシーンが加わる、と考えていいわけですか」


「そういうことです。僕が持っている台本では、主役を真犯人に陥れた組織と壮絶な殴り合いのバトルが入っているから──」

 彼の持つ台本を新井とこの場で読ませてもらった。

「こ、これって……」


「どうですか、気合が入るでしょう」

「殴り合いだけでなく、車に轢かれるシーンや爆破シーンまであるんですか、この映画?」

「そういうことです。でも安心してください。危ない演技をするために私が戻ってきたんですから」


「ということは、松山先輩がスタントをするために、背格好の似ている吉田くんが主役に選ばれたんですか?」

 新井は忙しなく台本と松山さんと俺とを視線で追っている。

「ご名答です」


 つまりこのシーンが来るまで、主役に途中降板してもらいたくなかったということか。それでわざわざ複数の台本を用意して、先を読ませないように謀っていた。やはりあの監督は信用がおけない。


 危ないシーンを撮影したいがため、主役を逃さないような小手先のごまかしを繰り返していたわけだ。


「プロデューサーには僕からもなんとかならないか交渉してみるよ。そもそも僕ありきの台本なんだから、僕の言うことなら多少の無理は聞いてもらえるはずだから」


 あの監督はいけ好かない印象が強くなっていたが、スタントマンの松山さんは信頼に値する人のようだ。

 これが単身アメリカで修行してきた器ということなのだろうか。


「その代わり、君を主役から降ろせなくなるから、覚悟しておいてくださいね」

 その言葉がやけに引っかかった。



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