第二十四話 さよならのイヴニング(一)
鉛色の空から雪が静かに降り、すべてを埋めつくす。この冬初めての降雪に、街は白く染められた。目覚めた人々は白い世界を見て、ホワイト・クリスマスになるようにと祈った。
雪の上にはふたつの足跡が続いている。
聖夜と月島は肩を並べて歩いていた。会話はかわされることなく、静寂のみが続く。
まもなく訪れる夜明けに、街は最後の静けさを保っていた。
「今年ももう終りか。春からはわたしもひとり暮らしだな」
だれに言うでもなく、月島がぽつりとつぶやいた。
「合格すれば、の話だよ」
抱いた子猫に視線を落したまま、聖夜が答える。
返事があるとは思ってなかったのだろう。月島はふと歩みを止める。聖夜もつられて立ち止まった。
「大丈夫だ。おまえはこれまでがんばった。努力は必ず報われるさ」
「夕べはそう言わなかったよ。片手間の勉強で入れるようなところじゃない。こんな事件に首をつっこんでる暇なんてないはずだって叱られたんだけどな」
聖夜はなるべく普段の口調で明るく話した。
「そうだったか?」
月島もあわせるように、いつもの笑顔で答える。父の見せるそれに、聖夜は切ないほどに懐かしさを感じた。
「父さんは無理して独身でいることないよ。前にも言ったけど、再婚すればいいのに。知ってる? 担任の稲葉先生、父さんのこと好きだってうわさだよ」
「稲葉先生が?」
月島の頬がわずかに紅潮した。どうやらまんざらでもないようだ。月島は軽く咳ばらいをし、空を見上げる。
「明後日の誕生日——」
「え?」
「今年は久しぶりに一緒にすごすか?」
突然の提案に聖夜が返事できないでいると、
「いや、約束があるなら無理にとは言わないが」
「約束なんて……」
聖夜の視線が足元に落ちた。
「ここ数年は一緒に祝ってなかったからな」
高校生になり特定のガールフレンドができてからは、父よりも、友だちと祝うようになった。
だが一緒にすごすはずだった葉月はとらわれの身になった。
美奈子もすでにこの世の人ではなく、唯一残った孝則は衰弱してそれどころではない。
それは父も同じはずだ。
聖夜はしばらく考えたあとで答えた。
「じゃあ……ぼくと父さんと、それからこの子も一緒に」
聖夜の胸元にいた子猫がにゃあと鳴いた。月島は頬をかきながら苦笑いを浮かべ、
「わかった。飼ってもいい。そのかわり、自分で世話をするんだぞ」
「ありがとう、父さん。よかったな、おまえ」
聖夜は顔をほころばせ、子猫に頬ずりをする。
そうしてふたりはまた、歩き始めた。
帰宅した聖夜は、暖をとるためにホットココアを淹れた。甘い香りが気持ちを落ち着けてくれる。
カップをふたつテーブルにおき、聖夜はソファーに座った。雪はまだ降り続いている。足元では子猫がミルクをなめていた。
月島がステレオのスイッチを入れると、ラジオからクリスマス・ソングが流れてきた。
これらの曲を聞くと聖夜は、自分の誕生日が近いことと、一年が終わることを実感する。
毎年当然のように向かえてきたその日が、今年は今までにない重要なものになることを、昨夜初めて知った。
「ゆうべドルーに会ってきたよ」
聖夜の言葉に月島の眉がわずかにひそめられた。そしてうつむき、小さくため息をつく。聖夜の行動を予想し、その結果をある程度覚悟していたのだろうか。
「あの人、自分がぼくの父親だって言ったよ。そして母さんも、それを認めた」
月島は手にしたカップを落とした。ココアが床をぬらし、子猫が驚いてソファーの上に跳び乗る。
「あいつが? おまえを苦しめて喜んでいるようなやつが父親だと?」
聖夜は聞いたばかりの話を、月島に伝えた。
「ぼくはどうしても、あの人たちの言葉が信じられない。お願いだ、父さん。知ってること、すべて話してよ」
月島は目を閉じたまま、あごに手をあて、しばらく沈黙した。
キリストの生誕をたたえる歌が、優しい女性ボーカルに奏でられる。聖夜はそれに耳を傾けながら、父が決断するのをじっと待っていた。
どのくらいの時間がすぎただろう。あるいはほんの数秒だったかもしれない。聖夜には永遠にも感じられる時間だった。
やがて月島は聖夜に視線を戻した。
「わかった。十七年前の体験と、わたしの知っている事実を語ろう」
そう答えた父の声に迷いはなかった。
* * *
月島と流香は幼なじみだった。親同士が親しく、家族ぐるみでつきあっていたため、ともにひとりっ子のふたりは、互いのことを兄と妹のように感じながら育った。
月島はいつのころからか、流香にそれ以上の感情を抱くようになっていた。
流香が高校生になったとき、父親の仕事の関係で一家は欧州に渡る。だがその生活は、両親の死で終った。
単身帰国したとき、流香は身重だった。
十八歳になったばかりで身寄りもなく、高校も中退した流香に世間は冷たい。仕事もろくに見つけられず、その日を暮らすのがやっとという日々を送っていた。
当時の月島は、教師になって二年目だった。
両親は、彼が大学四年の夏、交通事故に巻きこまれて帰らぬ人となった。月島はわずかな保険金を頼りに大学を卒業し、教師になった。
両親が住むところを残してくれたことが幸いして、流香とは対照的に、贅沢しなければすむ程度の生活が送れていた。
そんな孤独なふたりが偶然街で再会したのは、運命の巡りあわせだったのかもしれない。
ひとりで途方に暮れている流香に、月島はプロポーズした。同情ではなく、愛していたからこそ助けになりたいと思った。
「わたしはほかの人の子供を身ごもっているのよ。秀貴さんと結婚はできない」
「きみの子供なら、おれにとっても大切な子供だ。おれを父親にしてくれないか?」
流香はかたくなに拒否し続けた。月島はそれでも、何度も何度もプロポーズを繰り返す。
強い思いはやがて少女の胸を動かし、青年の申し出を受け入れる。
結婚式は数名の友人を呼んだだけの、ささやかなものだった。流香の着るウェディングドレスは、被服科の友人が手作りしてくれた。月島の衣装はレンタルだ。
教会で式を挙げたあとは、披露宴と称して、友人たちが手作りの料理でもてなしてくれた。派手さはないが、仲間たちの心が込められた、温もりのある結婚式となった。
身内はいなくとも、友人に恵まれているふたりだった。
そして年もおしせまったクリスマス・イヴに、流香は男の子を出産した。
その日は朝から雪が降り、街は白く染められている。
流香が産気づいたと連絡を受け、月島は部活動の指導もそこそこに学校をあとにし、タクシーをとばして産院に急いだ。
雪になれていない街は、交通が麻痺状態になっている。いくら待っても進まないタクシーを途中で降り、雪の中、月島は産院まで走った。
やっとたどり着いたとき、流香は出産を終えていた。
「男の子よ。秀貴さんの願い通りに」
ベッドで優しく微笑む姿に、月島は初めて母親の姿を見る。
聖夜と名づけられた男の子。母親の顔を見せる流香。このとき月島は、自分の両肩にふたりの幸せがかかっていることを実感した。
事件が起きたのは、それから半年後、まだ梅雨も明け切らない日のことだ。
月島たちの住む街で、連続猟奇事件が起きた。被害者は十代後半の女性ばかり。どれも遺体は無惨に切り裂かれ、死体を見なれた刑事たちでも吐き気をもよおすものが何人もいたという。
事件の一報をニュースで目にしたとき、流香の顔色が変わった。
食い入るようにテレビを見、新聞を読む姿を、月島は不思議に思いつつも、とくに気にとめることはなかった。
運命の歯車が大きく動き始めたのは、数日後のことだ。
教師仲間との宴会で帰宅が遅くなった月島は、自宅前に人だかりを見つけた。
「よかった。やっと帰ってきたんだね」
隣に住む老婦人が、月島の顔を見て安堵の声を上げる。
「流香ちゃんがさっき救急車で病院に運ばれたんだよ。あんた、何度携帯に電話しても、全然連絡取れないんだから」
月島はあわてて携帯を取り出した。電源がオフになったままだ。
授業が終わったあとオンにするのをときどき忘れる。今日も同じミスをしていた。
「流香が? どこの病院ですか? なにがあったんですか? 聖夜は?」
矢継ぎ早に質問を投げかける月島に、老婦人は落ち着いて対応した。
「心配しなさんな。流香ちゃんにはうちの嫁がつきそっているわよ。大丈夫だってさっき連絡があってね。せいちゃんはうちであずかってるわ。あんなことがあったのに、すやすやと眠っちゃって。たいした大物だわよ」
老婦人によると、日が落ちたころ、月島の家に強盗が入ったという。
火のついたように泣きだした聖夜の声で、隣人たちがようすを見にきた。それが功を奏したのか、犯人はなにも盗らないで逃げたらしい。念のため流香は病院に行き、現場検証も先ほど終えたばかりだった。
駆けつけた病院で月島は、警察からひと通りの話を聞かされた。病室では隣家の婦人が流香につきそっている。
月島は礼をのべ、今夜のところは引き取ってもらった。そして聖夜を一晩あずかるようにお願いした。
その夜流香は、睡眠薬を処方してもらったようで、朝まで目を覚ますことがなかった。
月島は妻の寝顔を見ながら、大変なときにそばにいてやれなかった自分に苛立ちを覚える。
幸いにして大事にはいたらなかったが、もしものことがあってからでは、後悔してもしきれない。流香と聖夜を守れないで、なにが幸せにするだ。
これから先、ふたりを危険な目にあわせることはしない。か弱い存在を脅かすものがいたら命を賭けても阻止する。
月島は改めてそう決意した。
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