第二十三話 闇につつまれた真実

 十七年前、自分を産んだ半年後に死んだと聞かされていた母。記憶の中にあるのは、数枚の写真だけだった。そして目の前の流香は、そのころと寸分ちがわない。

「聖夜、会いたかった。この日をどんなに待ったことか」

 流香は聖夜の腕にすがりつき、涙を流す。だがその姿を見ても、なんの感情も生まれない。


 自分よりも小柄で華奢きゃしゃな少女。クラスメートのひとりだと言われても違和感がない。そんな少女を母だと言われても実感がわかなかった。温もりのない記憶しか持たないと、情もわいてこないのだろうか。


 聖夜は流香の肩に手をのせ、そっと身体を離した。

 流香は顔を上げて聖夜を見つめると、頬の涙をぬぐい、暖炉の前で膝をかかえて座った。

 パチパチと音を立てて燃える炎をじっと見つめている。流香の影が部屋中に広がり、ゆらゆらと揺れる。


「わたしは高校生のとき、父の仕事の関係で欧州に渡った。そこでドルーと出会い、彼のことを愛した。そして聖夜、あなたを身ごもったのよ」

 そう言ってふりかえる流香の瞳には、弱い光しかなかった。


 流香はそのままドルーとともに暮らし、子供を産んだのちにヴァンパイアになるはずだった。

 だが両親の事故死が運命を変える。海外での生活が困難になり、ドルーと離れ、単身帰国しなくてはならなくなった。


 そんな流香を迎えたのは月島だけだった。


 ふたりは幼なじみだった。月島に対して兄のような感情しか持っていなかった流香に対し、月島は流香のことをずっと愛していた。

 欧州に戻りたくとも戻れない流香を説得し、強引に結婚した。


 その年のクリスマス・イヴの夜、流香は男の子を出産した。

「今から十八年前のことだった」

 流香は窓のそばに移動し、当時を思い出すように遠い目をして外をながめる。


「その年はめずらしく、街を雪が覆いつくした。めったに訪れないホワイト・クリスマスに、人々は歓声を上げていたの」

 外の雨は、いつしか雪に変わっていた。十八年前のその日を思い出させるように、雪が舞い始める。


「赤ちゃんを抱えたわたしは、月島を頼る以外に術がなかった。でもいつかはドルーが迎えにきてくれると信じて、ずっと待ち続けていた」

 暖炉の炎を反射し、流香の瞳が獣のように光る。それはまぎれもない吸血鬼のものだ。

「流香が帰国して一年がすぎた。いつまでも戻らない彼女の身を案じ、わたしはこの街にやってきた」

 ワインをグラスに注ぎながら、ドルーが話をつなぐ。


 月島のもとで一緒に暮らしている流香と聖夜。その姿がドルーの理性を砕いた。

「流香は裏切ったのか? いや、そんなはずはない。これは流香の意にそったことではない」


 ――月島が流香をうばいとった。


 それに気づいたとき、ドルーの中で深い悲しみと激しい憎悪が生まれる。強い感情は、ヴァンパイアの中に眠る凶暴性を解放した。


 月島たちの前に現れたドルーは、理性をなくし、本能のままに生きる凶悪なヴァンパイアだった。

 流香のこともわからず、ひたすら血を求めるだけの獣。一度目覚めた魔性は、血の洗礼をうけるまで決して鎮まろうとしない。それはヴァンパイアの性質だ。


 洗礼は、流香の血によっておこなわれた。目の前に現れた流香を見つけると、ドルーはその首筋に食らいついた。

 炎のように激しく燃える憎悪を、その身をもって鎮める。それは、白い雪がすべてのものを覆いつくす姿にも似ていた。


 理性が戻ったとき、目の前にあったのは、命の火が消えかかった流香の姿だった。

 死なせるわけにはいかない。命の源を与えることで、消えかけた炎をふたたび灯したい。それだけが望みだった。ドルーは自分にそれができることも解っていた。


 ドルーは爪で自分の胸の皮膚を切り裂いた。流香を腕に抱え、傷口に唇をあてさせる。流香は最期の力で口に含み、そのまま意識をなくした。

「それが死を意味するのか、ヴァンパイアへの変化の兆しなのか、そのときはまだ解らなかった。いつまでも目覚めない流香をあきらめかけたころ、ようやく彼女は目を覚ました」


 ワイングラスを静かにテーブルにおき、ドルーは視線を流香に向けた。暖炉の炎は音を立てて燃え続ける。

 血を求める魔性と、命を与える魔性。ドルーはそのとき、自分の中に潜むヴァンパイアの本性を、どのように感じたのだろうか。


「幸いにして流香は命をとりとめた。ヴァンパイアとして」

「でもそれはわたしの望みでもあったこと。いつかは仲間になり、未来永劫ともに暮らしたかった」

 流香はドルーのそばに歩みより、胸元に頭をもたれかける。


「流香を見捨てた月島は、おまえをつれて教会に身を隠した。あの地は我らが近づくことのできない聖なる領域。おまえをこの腕に抱き、つれていきたくともかなわなかった」

 流香のうるんだ瞳が、当惑する聖夜を映す。

「あなたのことを一度はあきらめた。でもどうしても忘れられなかったの。だからわたしたちは、あなたが覚醒できるうちに会い、すべてを伝えることにしたのよ」


 一粒の涙が、つつ、と頬を伝う。流香は聖夜に両手を差し伸べた。

「今ならまにあう。あなたはすでに覚醒のときを迎えている。このままわたしたちとともに、夜の世界を生きましょう」


 流香が流す涙、差し伸べる両手。

 絵に描いたような悲劇の母親像だ。ともすれば情に流されて、母の腕に抱かれそうになる。


 しかし聖夜はどうしても、ドルーや流香の言葉が信じられなかった。

 自分の中に流れる血を忌わしく思う者が、愛する者たちを同じ運命に引き込もうとするだろうか。

 愛しい人の命を救おうとする者が、あのような残虐な殺人を犯すだろうか。


 ちがう。そうじゃない。


 もっともらしい話を並べられても、聖夜は素直に信じられなかった。

 罪もない女性たちを次々と殺したこと。美奈子をスレーブにして、その未来を奪ったこと。ドルーはまるでゲームを楽しむかのように、それらの残虐行為を重ねた。その姿と、今の話に出てくるドルーは、まるで別人だ。


 それは流香も同じだ。数枚の写真だけが聖夜の知る流香だが、そこに写る姿は、どれも母親の顔をしていた。

 だが目の前の流香からは、母親の姿は少しも感じられない。笑顔を浮かべていても涙を流していても、聖夜を見つめる目はときとして邪悪な影を宿す。差し伸べる手は愛情ではなく、相手を誘惑しようとする手だ。


 ここにいる女性は本当に自分の母親で、傍らに寄りそう人物は本当に父親なのだろうか。

 そんなふたりに「未来永劫ともに生きよう」と言われても、気持ちがついていかない。


 だが月島はちがう。


 きっかけはどうであれ、男手ひとつでここまで聖夜を育ててくれた。十八年のあいだ、ともに笑い、ともに泣いた姿は偽りではない。本物の愛情だけが持つことのできる優しさで、常に聖夜を包み、見守ってくれた。

 そして父は、たったひとりですべてをかぶり、聖夜をこの事件から遠ざけようとしている。


 ドルーの言葉と、聖夜の知る現実。

 父を信じようとするのは、自分がまだ人間だからなのか。吸血鬼になれば、ドルーや流香の気持ちも理解できるのだろうか。


 真実が見えなかった。


「あと二日、ですよね」

 聖夜は流香の手を取れない。ふたりに背を向け、口を開く。

「十八歳の誕生日まで、まだ時間がある。一晩だけ考えさせてください」



   *   *   *



 夜明け前に聖夜は、レンの運転する車で元の公園までつれてこられた。

 車を降りて見上げると、東の空が少しずつ明るくなっている。夜明けの訪れだ。その中で行動できるレンは、まちがいなく人間だ。

 空には鉛色の雲がひろがり、太陽は顔を出さない。


 雪が静かに降り、小さな街を白く飾る。聖夜は小雪の舞い散る公園に足を踏み入れる。

 昨夜残してきた子猫のことが気にかかっていた。気まぐれな動物だから、どこかに行ってしまっただろう。でも聖夜は、朝には戻るという約束を忘れていなかった。

 すがるような声で鳴いた子猫。おき去りにされることを恐れるように、聖夜の背中に向かって鳴いた。


 いや、そうじゃない。

 ひとりになりたくないのはあの子ではない。待っていてほしいと願っているのは、自分のほうだ。


 空を見上げる瞳に雪が落ち、視界がぼやける。輪郭をあいまいにしかとらえられなくなった聖夜の目は、昨夜雨宿りをしていたベンチに座る人影を見つけた。まばたきを繰り返して溶けた雪を流し、もう一度人影に目を凝らす。


「あ、父さん……」

 そこにいたのは聖夜の父だった。背中を丸めうつむく姿勢で、じっと膝の上を見ている。聖夜のマフラーがおかれ、中には夕べの子猫がくるまれていた。

 音もなく近づく聖夜に子猫が気づき、にゃあと鳴く。

 子猫につられて、月島も顔を上げた。聖夜を見て瞬間、安堵の表情を浮かべる。だがそれはすぐに消え去った。


 月島は聖夜のことを見つめるだけで、決して自分から歩みよろうとはしない。

 父の思いに気づきもしないで、一方的に家を飛び出した。

 そのままドルーたちとともに去ってしまう可能性もあった。実際彼らに呼ばれ、話次第ではともに旅立ってもおかしくない状況だった。


 帰らないかもしれない人を一晩中待っていたのか。寒さに凍えながらずっとここにいたのか。

 逆らって出ていったのはこちらなのに。


 血のつながりがない子供がどうなったっていいじゃないか。

 本当に、あきれるくらいのお人好し。それが自分の父親だった。

 聖夜は息を吸い、ほんの一瞬それをためたあとで口を開いた。


「父さん、ただいま」

「あ、ああ、おかえ……」

 突然子猫が月島の膝を蹴り、聖夜の胸に飛び込んだ。言葉は途切れてしまう。

 苦笑する月島を尻目に、子猫はゴロゴロと喉を鳴らして聖夜に甘えてきた。柔らかい毛皮の温もりが冷えきった身体に心地よい。


 月島はようやく立ち上がり、

「寒くないか?」

 と問いかけた。聖夜はだいた子猫の頭をなでながら小さく、うん、とうなずく。

 月島は傘を広げ、聖夜にさしかけた。無言でそれを受け取る。

ふたりはゆっくりと、雪の中を並んで歩き始めた。

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