・スパイ
言葉の本音は見えないが、文字に起こすと本音がルビに出てしまう。
そんな世界のお話。
***
モスキエフはローレンシア連邦共和国に潜入したスパイである。
ウクリアナ人民共和国の
全身を黒で固めた壮年の男、モスキエフ。
彼はローレンシア某所の自室にて、電灯の弱い明かりの下、ウクリアナ諜報部へと定期連絡をするところであった。
連絡には国際電話を使うのだが、もちろん普通に話すわけではなく、
この暗号はウクリアナ諜報部が考案した独自の暗号であるが、もちろん、モスキエフがその解読方法をローレンシア側の諜報部に
ローレンシアはウクリアナ国内のテロに見せかけた化学兵器による攻撃を
もちろんモスキエフはローレンシア側のスパイなので、それをウクリアナに知らせるわけにはいかない。
だから、事前に用意した偽の報告をするのである。
モスキエフが用意した偽の情報は下記のとおり。
《ローレンシアではウクリアナに侵攻するという計画があったが、現在は反乱分子との内部衝突を警戒して身動きが取れない状況にある。少なくとも今年中にローレンシアが動きを見せることはないと考えられる》
これをモルース信号にすると長くなるので、モスキエフは偽の報告内容を簡潔にまとめたものを紙に記載する。モスキエフが変換表を見ながら記載すると、記した文章の上に自動でモルース信号が表記された。
モスキエフが書いた文字には自動的にルビが振られたが、これは何かの装置を使ったからそうなったわけではない。
文字を手書きすれば、勝手にルビが振られるのだ。
ここは、文字に自動的にルビが振られる世界。
しかしモスキエフはそれを便利だとは思わない。
なぜなら、モスキエフにとってはそれが
モスキエフは一度、深呼吸をした。
彼はスパイとしてはダブルスパイの任務を与えられるほどの熟練者だが、ウクリアナにモルース信号を送る任務は初めてなので、やはり多少の緊張がある。
しかし彼に抜かりはない。事前にしっかりと練習をしているので、信号を間違えることなどあるはずがない。
モスキエフは電話口にモールス……、じゃなくて、モルース信号を出力するための装置であるところの
・―・― ・― ―・― ― ― ― ・―・―・ ― ―・―・ ― ―・ ―・・・
― ― ― ― ・・―・・ ― ―・―・ ―・・・
・・― ― ― ― ― ・・ ・―・・ ・―・ ・―
ウクリアナでは、諜報部の担当者がその信号を紙に書き取る。
変換表を見ながら書き取る余裕はないので、視線は手元に固定したまま、
やはりこの世界は便利なもので、書き取った信号には自動でルビが振られる。
信号の書き取り担当者が邪念で上書きさえしなければ、そのルビはモスキエフの思考が反映されて表示されるので、当然ながらそれが解読結果になっているはずである。
それを見たウクリアナ側の担当者は思わず息をのんだが、すぐに情報を展開した。
ウクリアナはただちに警戒態勢を取り、国境や国内の要所に軍隊を配備した。
それから、モスキエフにすぐさま帰還するよう命令を下した。表向きは任務終了と配置転換のためであるが、もちろん真意は異なる。彼を尋問し、すべての情報を吐かせた上で処刑するためである。
一方、ローレンシア側でも諜報部が大騒ぎになっていた。
モスキエフがウクリアナへ送った暗号の内容が、事前に知らされていた内容とは異なっていたからだ。
モスキエフはなんと、自分がダブルスパイであることや、内密に進めていたテロ偽装作戦の情報をウクリアナへリークしたのである。
すぐさま諜報部から政府へと連絡がいき、政府から警察およびローレンシア軍に通達がいった。
その内容は「モスキエフを探し出し、ただちに捕らえよ。逃亡の恐れがある場合は生死を問わない」というものである。
モスキエフはローレンシア内で最上級の指名手配をされたのだった。
その後、モスキエフのモルース信号がきっかけとなり、ローレンシア連邦共和国とウクリアナ人民共和国は全面戦争となった。
ローレンシアによる非人道的な化学兵器の使用計画がウクリアナによって暴露されたことにより、ローレンシアは世界中の国々から非難された。
ローレンシアはそれに反発したのか、なりふり構わず攻撃するようになり、ウクリアナに躊躇なく化学兵器を使用した。
その結果、過去最大規模の世界大戦へと発展し、世界人口の約10%が失われる事態となった。
モスキエフの名は歴史上最大最悪の戦争犯罪人として知れ渡ることになるが、それは彼がローレンシア内でひっそりと処刑されたずっと後のことだった。
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