第2話 バー『宵月』にて


「ニートになりました……」


 週一の楽しみ、お気に入りのバー【宵月】でのひととき。

 私──塚森美沙つかもりみさは、カウンターに突っ伏して悲痛な声でそう宣言した。


 大学を卒業したばかりの、二十二才。

 平均身長マイナス五センチほどの小柄な体格が少しだけコンプレックス。

 背中にかかるくらいの長さの黒髪を低めのポニーテールでまとめている。

 マイペースが信条であまり負の感情が長続きしない性格なので、ここまで落ち込むのは珍しいかもしれない。


「は? いや、だって、ミサ、四月から入社決まっていただろ?」


 幼馴染みの甲斐カイが不思議そうに尋ねてくるのを虚ろな瞳で見返した。


「その会社がね、潰れたの」

「あー、そうか…。まあ、このご時世じゃ、仕方ないか」


 宥めようと言葉を探す甲斐も同じく肩を落とした。

 甲斐御幸かいみゆき。女の子のような可愛い名前の持ち主だが、れっきとした男性だ。

 幼馴染みの彼も自分と同じく、小柄な青年である。はっきりと教えてはくれないが、身長は165センチほど。背は低いが、運動神経はすこぶる良い。

 性別をよく間違えられる名前がコンプレックスで、かたくなに苗字呼びを強いてくる。

 性格はさっぱりとして兄貴肌。下に三人弟がいる母子家庭の大黒柱だからか、とても頼りがいがある。


「仕方がないのかもしれないけれど、納得はできないよ……」

「だよなあ……」


 とある新型のインフルエンザウイルスの蔓延で世界的パンデミック状態に陥ってから、一年近くが経った。人類はそれなりに順応して生き抜こうとしている。個人でも出来得るかぎりの感染対策をし、リモート生活にも慣れた。

 新しい生活様式はどうにか浸透してきたが、生き残れなかった中小企業は多数ある。

 大学をこの三月に卒業予定だった私の内定先の会社もその不幸な企業のひとつとなった。


「四月から無職生活開始。三月末まで働く予定だったバイト先のカフェも今週で閉店するって……」


 せめてバイトで食い繋いでいければ、その間に求職活動に励むことができたのだが。


「貯金が全くないわけじゃないけど、正直言うと来月からの家賃を支払うのも厳しい」

「ミサさん、ちなみに賃料はおいくら……?」


 飲み仲間の北条晶ほうじょうあきらが端正な眉を顰めながら、そっと訊ねてくれた。


「駅から徒歩十五分、オートロック付きマンション1K、六万五千円ですね」

「それなりにしますね……」


 バイト先が安泰ならば、どうにか払えた金額だが、無職の身にはキツい金額だ。

 気の毒そうに向けられた視線をありがたく拝む。美人は癒しだ。

 クールだけど優しい晶さん。ふたつ年下の二十才の女性だが、とても頼りがいがある。

 すらりとした長身でスレンダーな美人だ。

 あまり性別を感じさせない、どこかストイックな雰囲気をまとっている。

 柔らかな猫毛は栗色で顎下でカットされたショートヘアがよく似合っていた。

 理想の王子さま姿の晶さんは涼しげな外見通りに穏やかで落ち着いた性格をしている。


「電気水道光熱費に通信費はもちろん、食費その他がプラスされると貯金なんてすぐ底をつきます……」


 その優しさに甘えて、つい愚痴を吐いてしまう。

 オリジナルカクテルのグラスを傾けながら、晶さんも切なそうに瞳を伏せた。まつ毛長い。


「分かります。私のバイト先のイタリアンレストランも今月いっぱいで閉店するので。専門学校の方は三か月前からオンライン講義オンリーでしたが、とうとう寮も閉鎖することが決まりました」

「えっ、それ私よりもヤバいんじゃ?」

「そうですね。だから、荷物を抱えてカナ兄のところへ押しかけようかな、と」

「ちょっと聞いてないわよ? 勝手に決めないでちょうだい」


 バー【宵月】の名物バーテンダー、北条奏多ほうじょうかなたが妹を呆れたように見やる。


「ダメかな?」

「ダメに決まっているでしょう! いくら兄妹だって言っても、腹違いなのよ。男の一人暮らし先に押しかけるなんて、とんでもないわよ?」


 綺麗にネイルされた指先がひらりと閃く。

 180センチ越えの美丈夫の彼は、その端正な顔にしっかりとメイクを施している。

 派手すぎない、ナチュラルなそれは彼にとても似合っていた。服装はバーテンダーらしく、白のシャツに黒のネクタイ、タイトなベスト、細身のソムリエエプロンがばっちり決まっている。

 外見だけなら、完璧な美貌のバーテンダー。だけど、なぜか女言葉。

 彼のセクシュアリティについて特に尋ねたことはないが、意外というか、このキャラクターがなぜだか好評で、ファンの客も多いと言う。


「カナ兄の部屋、広いし」

「いくら広くても1LDKなの! 一部屋しかないのよ、ダメでしょ?」

「別に私はリビングの片隅でも……」

「あ、き、ら、ちゃ、ん?」


 にっこりと迫力のある微笑を向けられ、晶さんは渋々と口を閉じた。


「それに、うちも先行き未定なのよねぇ」

「うちって、【宵月】が……?」


 意外な発言に、おずおずと尋ねると、奏多さんは優雅な所作で肩を竦めてみせる。


「そ。うちも営業自粛を余儀なくされているサービス業。どうもオーナーが今月いっぱいで閉店を考えているみたい」

「えー! 【宵月】潰れるんすか! こんなに良い店なのに!」


 黙々とビールを飲んでいた甲斐からも悲鳴があがる。


「仕方ないじゃない。あのクソウイルスのせいで客も少ないし、ここしばらくずーっと赤字営業よぉ?」


 ぐるりと周囲を見渡しても、客は自分たちだけだ。お喋りをする時はマスク必須。頻繁な換気やアルコール除菌などのウイルス対策に、カウンター席もひとつずつ空けて座り、透明な板壁で仕切ってはいるが、感染者が一日に千人を越えた段階で客足は三割を切ったと云う。


「多少の蓄えはあるけど、私もすぐ次の仕事が見つかるとも限らないし。どこか家賃の安い拠点を見つけないとね」

「いいね、いっそ兄妹二人で片田舎の一軒家を借りるというのは?」


 諦めてはいなかったらしい晶さんが良い笑顔で兄に提案している。

 ハイハイ無理ーと奏多さんが軽くいなす姿をぼんやりと眺めていたが、ふいに脳裏をよぎったのは懐かしい古民家の光景。


「…っ、そうだ! それですよ、それ! 片田舎の一軒家でスローライフ!」

「「「は?」」」


 唐突な提案に三人がきょとんと振り返る。


「だから、田舎でスローライフ、自給自足生活、送りません? ちょうど良い物件があるんですよ!」


 鼻息荒く訴えると、さすが幼馴染み、何かに気付いたのか、甲斐が眉を寄せて呻った。


「お前、あれか、田舎のばあちゃんち……」

「そう! 相続した祖父母の家が、私にはあったのよ! 都心から車で一時間かかっちゃいますけども、静かで広くてのんびり過ごせるお家です!」


 ぱっと顔を輝かせながら、美形二人に詰め寄った。


「築百二十年の古民家なんですけど、今なら家賃一ヶ月二万…んー、一万五千円で! 電気水道光熱費込み、WiFi完備、畑の野菜食べ放題。……どうです?」

「えっ、え…? どうって……?」


 怒涛の展開についていけないのか、戸惑う晶さんにたたみかける。


「古民家ですけど、ちゃんと住みやすいように水回りの手は入れています! 母屋は居間がわりの大広間ひとつ、客室ふたつ、屋根裏部屋もあります! あと増築した新屋は二階建て、こちらは何と洋室二部屋ですよ。ちゃんと簡易キッチンにお風呂とトイレもついていますから、男女きっちり別棟で過ごせます。これなら安心ですよね、カナさん!」

「安心って」

「だから、古民家シェアハウスです! うちで!」


 興奮する私を呆然と見やっていた奏多さんが、やがて小さく吹き出した。


「ふっ…、んっふ、そうね。なかなか良い条件だとは思うわよ? ただ、さすがに内見なしはちょっとね」

「カナ兄?」

「アキラちゃんにも良い条件よ。その場合、私が保護者として一緒に暮らすことにはなるだろうけど。まずは、」

「内見ですね、了解です。明日にでも案内しますよ」


 美形兄妹ふたりとのシェアハウス生活を思い浮かべてにこやかに頷く私の前で、それまで黙って聞いていた甲斐がすっと片手をあげて割って入ってきた。


「それ、そのシェアハウス? まだ部屋が余っているなら、俺も参加したい」

「は? なんで? カイ、仕事いくつも掛け持ちしてなかった?」


 下に兄弟が四人いる母子家庭の長男、甲斐はバイトを三つかけもちしていた。

 メインは賄い目当ての居酒屋、週六で入っている。昼間はこちらも賄いありの定食屋の皿洗いに配膳スタッフ。残りの一日は肉体労働。警備員や工事現場のバイトだ。

 稼いだ金はギリギリの生活費をのぞいて、全て実家への仕送りに回していると聞いたことがあった。


「その仕事先、お前らと同じように、つぶれたり自粛したりでクビになったんだよ」

「なんで言ってくれないの!」

「いや、言えるかよ。お前の方が凹んでたし」


 小柄だけど男らしい性格の甲斐には彼なりの矜持があるらしい。


「週一で入っていた工事現場の方はどうにか首の皮一枚で繋がってるけど。今までみたいに稼げないから、生活費抑えられるのは正直ありがたい」

「……そういうことなら、カイも明日、一緒にくる?」


 気が合う飲み仲間だとは言え、深く事情は知らない他人とのシェア生活に覚えた多少の不安も、幼馴染みの一言にふわりと溶けていく。


「オトコふたりにオンナふたり、ちょうど良いかもね?」

「そうですね、楽しみです」


 差し出された晶さんの手を握り返し、破顔する。


 のどかな田舎の古民家。

 大好きだった亡き祖父母の家が、まさかあんなことになっていたとは、この時の私には思いも寄らないことだった。

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