115.遅すぎた拳
リリンにとって、母親の印象は薄い。
お淑やかと言えば聞こえはいいが、自由放胆な父の背後に隠れて主体的に動く事ができない、影の薄い女性だった。
「リリン……」
カレリオン家が王国内の政争に敗れ、貴族の地位を失い奴隷に堕ちた時。
カレリオン伯夫人であった彼女は、何の行動もとる事が出来なかった。
獄中の伯爵から、リリンだけでも逃してくれと伝令を受けていたにもかかわらずだ。
「リリン……お願い……」
だが、それでもリリンにとって母親は母親だ。
シロウに連れられ王国を去って五年の間、一度も思い出した事はなかった母親ではあるが、負の記憶がある訳でもない。
「勇者様に……従って……ちょうだい……」
「お母さん」
その母にボロボロの姿で懇願されれば、動揺しないはずがなかった。
「ハッ、隙だらけだぜぇリリン! 魔旋!」
「きゃうッ」
躱す間もなく、リリンはシロウの技の直撃を受けて跳ね飛ばされた。
「リリンっ! ……勇者さま!? 協力すれば、娘の命は助けて下さると……!」
「分かってんよ。安心しな、この女はこの程度でくたばる程ヤワじゃねえ。だろ? リリン」
「く……!」
地面に這いつくばったリリンは、顔を上げる。
シロウの言う通り、手加減されていた魔旋程度で大きなダメージは受けていない。だが。
「コイツは没収しておくぜ」
「しまった……!」
腰に下げていたレーヴァテインを、鞘ごとシロウに奪われていた。シロウは初めから神殺しの剣を狙って技を撃ったのだ。
「へへッ……神をも滅する異世界の剣か。オレにこそふさわしいね。マスター・ソードとの二刀流ってのも悪くねぇな」
「返してシロウ! その剣はっ……」
ギルドマスター・ガイルズに託されたものだ。
そしてエフォートから、レーヴァテインは世界を女神の支配から解き放つ為の切り札だと、告げられたものだ。
リリンは頭に血を昇らせて、なりふり構わずシロウに飛びかかろうとする。
「動くなよ」
だがスラリとレーヴァテインが抜き放たれ、切っ先がリリンの母親に突きつけた。
「ひぃっ……!」
「お母さん!」
リリンは凍りついたように動きを止める。
止めるしかなかった。
シロウは満足気に笑う。
「さあリリン。これで大義名分は立っただろ?」
「……え?」
「帰ってこい。そしてまた、オレの奴隷に戻るんだ。そうしたら、あの反射ヤロウの操り人形から解放してやる」
「はっ?……な、何を言ってるの……」
「お前を救ってやるって言ってるんだよ」
リリンには、シロウの言葉の意味が分からなかった。
いや、言葉の意味は分かるが、その内容が支離滅裂なのだ。
人質を取っておいて救ってやるなどと、正気の沙汰とは思えない。
「シロウ、あなたおかしいよ」
「はあ? 狂ってんのはテメーの方だろ。主人公を裏切るヒロインとか馬鹿な真似しやがって」
「主じ……? シロウ……」
(どうすればいい? どうしたらお母さんを……ラビを、ガイルズさんを助けられる!?)
リリンはシロウの背後にチラリと視線を移す。
ガイルズたちの磔台の前には、王国軍の兵士たちが先端に穴の開いた槍状の武器をこちらに向けて構え、展開していた。
サフィーネが言っていた、ラーゼリオンが量産した『神の雷』を装備した部隊だろうと、リリンは理解する。
(ゲンダイニホンの兵器は、魔法じゃない。
「おいおい、精霊の声なんざ聞かなくてもお前の考えてるこた分かるぜぇ。無駄無駄ぁ! 剣もねえ。精霊術も無意味。お前はもう詰んでんだよぉ! リリぃン!」
ケラケラとシロウは笑う。そして。
「さあ、もう無意味な時間は終わりにしようぜ」
「ぐゥッ!? あアアァアアア!!」
「お母さんっ!?」
リリンの母親を、罰則術式が襲った。
胸の奴隷紋が薄く光っている。シロウの意思で発動しているのだ。
「アアアァアアアァッ!!」
「お母さん! シロウ止めて、お願いッ!!」
「止めてやるぜぇ、簡単だ。リリン、お前がここまで来て跪いて、土下座してオレに頼めばいい。二度と逆らいません、もう一度わたしを奴隷にして下さいってなあ! ひはははははっ!」
「……狂ってるよ……」
「だからそりゃあお前だっつってんだろ!!」
叫ぶと同時に、シロウは罰則術式の出力を上げる。
「ギャアアアァアアッ!!」
「止めてぇッ! 分かったから! シロウの言う通りにするから!」
母の悲鳴に耐え切れず、リリンはシロウの脅迫を受け入れた。
歩み寄り、膝をつく。
「よぉし……精霊で悪さすんじゃねえぞ。オレには
「分かってるよ……」
そして手をつき、こうべを垂れるリリン。
「シロウ……もう、二度と裏切らないから……あたしを……」
「ああ? 聞こえねーよ!」
「あ、あたしを……」
(ごめん、エフォート……!)
リリンがすべてを諦めた、その時だった。
パシャッ。
「……あ?」
「えっ……」
リリンの首筋に、生暖かい液体がかかった。
顔を上げると、シロウが何が起こったのか理解できないと唖然としている。
その視線の先には、レーヴァテインに自らの身を投げ出し、胸を貫かせたリリンの母親の姿があった。
***
「ほう……」
王の御車の中からすべてを見ていた彼は、興味深そうに吐息をつく。
「隷属魔法で、もっとも罰則術式が強く発動するのは自害しようとした時だ。たとえ鍛えられた屈強な兵士でも、自死しようと考えただけで死よりも辛い激痛に襲われ、本懐を遂げることができない。だが……」
目の前で、リリンの母親はそれをしてみせた。
自分のせいで、娘が再び奴隷になるのを防ぎたかったからだろう。しかし。
「彼女は、はじめは勇者に従えと言っていた。カレリオン家のご夫人は、没落の際に娘一人も逃せなかった非力な女性だったはずだ。……それが隷属の術式に逆らい、自ら命を断ってみせた? ふ、そんなはずないだろう」
ふふ、とその者の口から笑いが漏れる。
その吐息のような笑い声は、ひどく冷たい。
「……これだから、この世界は面白い」
ハーミットの顔をしたその者の呟きを、この時は誰も耳にしていなかった。
***
「バカ、な……」
シロウは無意識的に、リリンの母親を貫いた剣をズルリと引き抜く。
当然、その胸からは鮮血が噴水のように噴き出した。
「お母さんッ!」
倒れる母親を、リリンは飛びついて支える。
「リリン……あなたは……自由に……生きて……」
「お母さぁんッ! ……シロウ、早く治癒魔法を! 奴隷にでもなんでもなるから!」
顔を上げリリンは叫ぶが、シロウは状況の理解を拒むように首を振る。
「ありえねえ……こんな、ただの女が……隷属の戒めに逆らうなんて……」
「わた……しは……」
リリンの母親は、血を吐きながら言葉を絞り出す。
「昔、リリンを……助けられ……なかっ……がふっ」
「お母さんもう喋らないでっ! シロウ早く!!」
「……今さら……だけど……せめ、て……母として……今度……あなた……自由、に……」
「……? お母さん? お母さんッ!」
そして母だった物は、ピクリとも動かなくなった。
「そんな……あたし、今までずっと、お母さんのこと忘れてて……なのに……!」
滂沱の涙を流すリリン。
その後ろでシロウはまだ、現実を受け入れられずにいた。
「……ありえねえ。母親だから? だから子どもを守る為に、自分を犠牲にした? 反抗を許さない隷属魔法の戒めを突破して? ……ありえねえぞ。母親ってなぁ」
(あーあ。お母さん、あんたの育て方、間違えちゃった)
転生しても、魂に呪詛のように張り付いて離れないその言葉。
シロウにとって母親とは、失敗したらゴミのように子どもを捨てるクズのような存在のはずだった。
そうでなければならなかった。
「認めねえ、こんなのオレは認めねえぞ。……そうだリリン! てめえ、オレに隠れてこっそり精霊術を使ったな!? だからこの女の隷属魔法は無効化されたんだ! リリンてめえは、またオレを騙して――」
「うるさぁいッッッ!!!!」
ドゴォッ!
鈍い音が、荒野に響いた。
リリンの拳が、転生勇者の顔面を打ちつけたのだ。
「ゴハァ!?」
心を千々に乱していたシロウはまともに喰らい、歯を折られ血を吐き吹き飛ばされる。
「……シロウ・モチヅキ。もう許さない。前世がどうとか、もう関係ない。あんたは……あんただけは」
殴られた際にシロウが落とした、神殺しの剣をリリンは拾う。そして。
「あんただけは、あたしが殺すッ!!」
まだ呆然としているシロウに向かって、栗色の髪の剣士は斬りかかっていった。
***
「……ここまで、うまくいくとは……思わなかったんじゃ、ない?」
『なんのことかニャ? ラビ』
磔にされながらウサギの獣人・ラビが漏らした独り言のような言葉に、何もない空間から返答があった。
「とぼけ……ないで……ついさっきまで私は、ラーゼリオンの新しい魔法に、操られてた……助けに来た者を、返り討ちするように……」
ラビはそう言うと、旧知の猫の声がした方向を見てニッと笑う。
「その私が、今……正気を、取り戻してる……ニャリス、呪術の腕を上げたわね」
『反射の魔術師が、惜しげも無く承継図書を開示してくれたおかげニャ。調子に乗られるから、リリンには内緒だったけどニャ』
キン! と金属音が小さく響いた。
ラビの、そしてガイルスを拘束していた鎖が砕け散る。
「さあ……反撃開始ニャ!」
磔台の上に立ち、姿を現したニャリスは雄々しく叫び声を上げた。
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