ウンディーネ

増田朋美

第一章 麦わら帽子

寒い日も終わって、温かい日が続いてくれるようになって、ああ良かったと思っていられる日は実は非常に少ないものである。というのも、寒さが消えると必ずやってくるものがあるからだ。そう、花粉症である。そのせいで、耳鼻科はものすごく混雑する。

その日、伊能蘭は、鼻水が止まらないせいで、仕方なく耳鼻科のクリニックを訪れていた。本当は、耳鼻科なんていきなくないと思うんだけど、鼻水が止まらなかったら、それでは、仕事にも支障が出てしまう。なので仕方なく、評判が悪いと言われている、耳鼻科のクリニックを訪れたのである。

蘭は、症状をうるさく聞いてくるうるさい老医師の話を聞いて、丁寧すぎる診察を終えて、疲れた顔で、待合室に戻ってきた。他の患者さんは、長く待たされすぎて疲れてしまった顔をしているし、看護師も、多すぎる患者さんの問診票を書かされているせいで、手がふさがっている。病院なら、車椅子の人が来ると率先して、看護師が、動かしてくれたりするはずなのだが、今日は、それも、放置されるほど、人が大勢いた。

「杉山さん、杉山春さん。」

不意に、受付係が、一人の女性を呼んだ。こういうとき、立って歩けるのは嬉しいものだ。名前を呼ばれた女性は、待合室の椅子から立ち上がり、すぐに、受付へ向かった。あまりに急いで立ったので、被っていた帽子が取れて、蘭の足元に落ちた。

「じゃあ、杉山さんですね。隣の薬局へ行って、おくすりもらっていってください。すぐでなくても構いません。いつでも、処方箋は受け付けてますから。」

受付にそう言われて、女性は、わかりましたと言って、診察料を支払った。蘭は思わず彼女を見てしまった。どこかの女優さんみたいなきれいな女性だった。と言っても、女郎のような色っぽさではなく、いかにも毎日が充実しているというような感じで、長い黒髪を腰まで伸ばし、ピンクのブラウスに白いスカート。正しく、大人の女性という感じの美女だった。彼女は受付から領収書を受け取って、

「はい、ありがとうございます。次の診察は、日付が分かり次第、予約を入れます。」

と、言った。そして、受付にありがとうございましたと言って、そのまま玄関先から出ようとした。

「あの、ちょっとまってください!」

と、蘭は、彼女に声をかけた。

「この帽子、お忘れ物ではありませんか?」

彼女は、蘭が差し出した麦わら帽子をみて、すぐに自分のものだと気がついてくれたようだ。

「ありがとうございます。わざわざ拾ってくださってすみません。危うく、忘れるところでした。」

急いで蘭から帽子を受け取って、彼女は急いでそれを頭に被った。そうしてしまうと、その美しさが半減してしまうかと思われるが、帽子を被っても、彼女は美しかった。

「いえ、いいんですよ。でも忘れられては困るでしょうから。これ、かなり大事にされているみたいだし。」

確かに、帽子の洗濯表示の部分に、杉山春と名前が書いてあった。

「ありがとうございます。あの、失礼ですけど、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?車椅子の方から、帽子を拾ってもらうなんて、ちょっと申し訳ないような気がするんです。それは、必ずお礼をしないと。」

なんだか馬鹿に丁寧な人だなと思った。そうされるのは、車椅子の人間でなければしないことでもある。

「あ、いえ、お礼なんていらないですよ。そんな事、しないで大丈夫ですから。」

と、蘭は急いでそういうのであるが、

「いえ、車椅子の方から、わざわざ頂いたんです。それは、お礼しなければなりません。車椅子の方は、私達より何十倍も苦労していることを、私、知っていますから。それは、ちゃんとお礼しなければならないと思います。」

と、彼女は、にこやかに笑っていった。その顔からは、年齢もいまいちわからない顔であった。たまに、そういう年齢を感じさせない人もいる。セラピストとか、カウンセラーとか、そういう職種の人達は、そういう年齢を出させないように、している人が多い。

「はい、僕の名前は伊能蘭と申します。」

蘭は、とりあえずそれだけ言った。

「わかりました。伊能蘭さんですね。それでは、お礼をしたいので、ご住所教えてもらえませんか?」

と、彼女がそう言うので、蘭は、自分の手帳を取り出し、自分の住所と名前とスマートフォンの番号を書いて、それを破って彼女に渡した。

「ありがとうございます。伊能蘭さん。じゃあ、近いうちに、お礼のお品物をお送りさせていただきますね。」

と彼女は笑ってそれを受け取って、じゃあこれどうぞ、と蘭に名刺を渡した。名前は、杉山春さんと言うことはわかったが、どこに住んでいるかとか、そういうことを聞くことができないほど彼女は美しい女性だった。蘭は、彼女が自分の住所を受け取ったときに、彼女が、指と手の甲に、入れ墨をしていることに気がついた。

「もしかしたら、なにかあったんですか?」

蘭は、思わず聞いてみる。

「手の甲に、」

「いえ、これはただ、私の出身地では当たり前のように行われていることです。」

そういう彼女に蘭は、はあ、そうですかとだけしか言えなかった。

「じゃあ、伊能蘭さん。近いうちに、お礼のお品物が届くと思いますから。それでは、楽しみにしていてください。」

と、杉山春さんという美女は、麦わら帽子をかぶり直して、蘭に一礼し、急いで耳鼻科の病院を出ていった。蘭は、なんでこんな物をもらったのだろう?と、ぽかんとした顔で見送った。

「何をそんなにぽかんとしているんですか?」

と、いきなり声をかけられて、蘭は、後ろを振り向いた。こういうとき、歩けないのは不利だ。すぐに別の場所に行くことはできない。例えば、声をかけられても、今忙しいからと言って、すぐに逃げることはできないというのが、蘭には不利なところであった。後ろにいたのは、黒の紋付羽織袴に身を包んでいる、ジョチさんこと曾我正輝さん、その人であった。

「お前こそなんでここにいるんだ!」

蘭はムキになって答えた。

「ええ、病院を視察にこさせていただきました。それだけのことです。それよりなんで蘭さんが、ここにいるんです?また何か体調でも悪くされましたか?」

ジョチさんは冷静に言った。

「まさかと思いますがそんなにぽかんとしているんであれば、また誰か女性を見つけたんですか?だめですよ。蘭さんには奥さんがちゃんといるんですからね。」

「うるさい!お前にわかるわけないじゃないか!」

蘭は、急いでいうが、右手に持った彼女の名刺が、誰に会ったのかしっかり示してしまっていた。

「はあ、なるほど。蘭さんは悩み事が多いですからね。そういう女性に相談してもいいかもしれませんね。」

ジョチさんは、蘭が持っていた名刺を読んでそういう事を言った。蘭が急いで名刺を見てみると、琉球ユタ、杉山春と書いてある。

「何だこれ。なんだろ、琉球ユタって。」

「嫌ですね、蘭さん。そんな事も知らないんですか。沖縄の人たちは、なにか困ったことがあると、ユタと呼ばれる人に、相談に行く文化が、江戸時代からあったんです。今でも医者半分ユタ半分って言葉があるほど、そういう人に相談するのは珍しいことじゃありません。それに、彼女の手に、ハジチが施されていました。それも、彼女が、沖縄の女性であることに間違いありません。つまり彼女は、こちらで言うところの、カウンセラーのような職業をしていることになります。」

ジョチさんは、やれやれと蘭に言った。確かに、彼女の手には、変な模様が描かれていたけれど、それがハジチであることは、蘭もどこか忘れていた。

「蘭さんは、刺青師なのに、ハジチも知らなかったなんて、ちょっと職務怠業何じゃありませんか?」

ジョチさんに言われて、蘭は、

「うるさい!僕も、それくらい知っている!ハジチは、沖縄で、未婚の女性が、魔除けとして入れるものだろう!それが完成すれば結婚したことになるんだ!」

と言い返した。

「ええ、そういうことです。まあ、蘭さんがそれを忘れるほど、彼女は美しい女性でしたね。なんか、ウンデーネみたいな雰囲気はあると思います。ですが、僕はそれがどうかということは感じませんけどね。」

ジョチさんは、冷静なままそういった。なんかそうやって、誰を見ても、そういうふうに冷静なままでいられるのは、ある意味、波布と言われても仕方ない気がした。

「ウンデーネ。ああ、西洋にある、水の精か。確か、人間の男性と結婚すると命を得るという。」

蘭が急いでそう言うと、

「ええ。基本的に美しい女性の姿をしていると言いますけど、麦わら帽子を被って、なんだか、水商売でもしている女性なのかと思いました。琉球ユタが、あんなきれいな女性であるとは思いませんでした。」

ジョチさんは、蘭を呆れたような顔で見た。

「伊能さん、伊能蘭さん。」

受付のおばちゃんが、ぶっきらぼうにそう言っている。それは先程の、ウンデーネ、つまり、杉山春さんとは、ぜんぜん違うカエルを潰したような声で、なんだか、ウンデーネの声を聞いた後で聞くと、気持ちが半減してしまうような中年のおばさんの声だった。

「呼んでますよ。」

とジョチさんに言われて蘭は、

「わかった。」

と言って、受け受けに向かって車椅子を動かしていった。その後、とりあえず診察料を払って、ジョチさんに負けないように、一人で隣の薬局へ行ったのであるが、そこにウンデーネの姿はなかった。多分、先に薬をもらって帰っていってしまったのだろう。蘭は、ちょっとがっかりした。

それとほぼ同時に製鉄所では。

「水穂さん大丈夫?苦しい?しっかりして!」

由紀子に背中を擦ってもらいながら、水穂さんが、また咳き込んでいた。その近くには、柳沢裕美先生が、水穂さんの採血の結果表を眺めながら頭をかしげている。由紀子は、そのハゲ頭の先生を、どうして頼りにならないんだろうと、いう目つきでじっと見ていた。

「まあそうですねえ。数値的には、別に問題は無いんですよ。それに、悪い食品を与えてしまったとか、そういうことは、まず無いでしょう?」

「ああ、肉さかなは一切食わせて無いんだけどさあ。」

杉ちゃんがすぐ答えた。杉ちゃんという人は、何でもかんでもすぐに答えてしまうくせがある。

「そうですよね。それに薬だって、忘れないで飲んでいらっしゃいますよね?」

柳沢先生に聞かれて、

「おう!そのとおりにしてるよ!」

と、杉ちゃんは答えた。

「薬を忘れたことは、一回も無いと思うけど!」

「そうですか、、、。それでは余計におかしいですね。なんでこんなに頻繁に咳き込むんでしょうね。数値を見る限り、理由がよくわからないんですよ。」

柳沢先生は、首をかしげている。

「理由がわからないって言ったって、こういうふうになっちまうんだから、それはなにか理由があるはずだろ。」

杉ちゃんに言われて、柳沢先生は、また考え込んだ。

「考えてばっかりで、医者は数値と向き合っているというわけですか。あーあ、全く頼りにならないなあ。」

そういうのと同時に、水穂さんが、内容物を出したので、由紀子は急いで口元に付着した赤い液体を拭いた。

「ほらよ。また、おんなじことやってらあ。もう何回同じことしたら気が済むの!」

「そうですねえ。理由がわからないだけじゃあ片付かないですよね。それはわかりますよ。ですが、数値が異常をきたすほどの数値じゃないんですよ。それでなぜ、こんなに咳き込んでいるんでしょうかね。僕もよくわかりませんね。こういうときは、精神科を紹介したほうがいいかもしれませんね。多分、そういうことだと思うんですよね。」

「はあ。それはどういうことですかな?」

柳沢先生の解説にすぐ杉ちゃんが首を突っ込んだ。

「つまり、彼は、寂しいんだと思うんですよ。それかえらく孤独を感じているのかもしれません。それで、症状を出しているんじゃないかと思うんですね。」

「はあ、そうなんだ。僕らが世話をしているのに、それは届かないということか。つまり、同和問題が解決しない限りだめってことかな。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「そんな事ありません!私がずっと、ここにいるんです。そうしてあげていれば、水穂さんは、孤独を感じるということは無いと思うんですが!」

由紀子は思わず言った。

「まあ、由紀子さんが、そう思ってくれれば、そうかも知れないけれど、それが水穂さんに届くのかというとまた別のものだな。ある意味、水穂さんが感じていることと、由紀子さんが思ってくれていることは、また違うからな。」

杉ちゃんが由紀子をそう言って慰めるが、由紀子は、柳沢先生のその発言に、頭に来てしまって、

「とにかく、薬は貰えないのでしょうか。苦しんでいることは、確かなんですから!」

と言ってしまった。

「とりあえず、いつも飲んでいる薬を飲ませてください。咳き込むのは、それで止まると思います。」

柳沢先生に言われた杉ちゃんは、枕元においてある水のみを取って、中身を水穂さんに飲ませた。とりあえず、ぐいっと飲んでくれた音がしたので、一安心する。確かに、先生の言う通り、激しく咳き込むのも、中身を出すのも、止まってくれて、水穂さんは、ウトウト眠りだしてくれたのであった。

「はあ、とりあえず良かったぜ。医者に来てもらえて、助かった。まあ、これからもなにかあったときには、来てもらおうな。素人が、どうのこうの言ってもしょうがないから。」

杉ちゃんはそういっているが、由紀子は、布団を水穂さんにかけてやりながら、どうして先生に御礼なんかしなければならないと思う気がした。だって、医者なんて、数値を眺めて何もないとか、精神科をどうのとか、そういうことばかり言うじゃないか。由紀子は、ありがとうございますという気にはなれなかった。

「また何かあったら、呼ばせてもらいますよ。水穂さん、薬飲ませてもらわないと、止まらないしさ。それは、事実だから。事実は、事実しか無いからな。それは、仕方ないんだから。」

杉ちゃんは納得した様子だったけど、医者というのは、そういうふうに、奉られるところがある。なかなか対等に話をすることができる人ではないような気がする。

「じゃあ、よろしくおねがいします。水穂さんは、疲れてしまうこともあるから、また、見てやってくださいな。」

杉ちゃんは、帰り支度をしている柳沢先生に言った。次の予約とか、そういうことは一切しなかったけど、とりあえず、水穂さんが悪くなったら、また来てくれということを何回も繰り返したのは、杉ちゃんも彼を心配してくれるのだろう。

「じゃあ、またお願いします。」

杉ちゃんが柳沢先生を見送りながら、そう言っているが、由紀子は先生を見送る気持ちにはなれなかった。なんだか、どうして医者というのは、無責任な言葉を繰り返すのだろうか。なんで、水穂さんを、たすけて上げることはできないんだろうか。それは、悔しいというか、悲しくて仕方なかった。

布団の中で眠っている水穂さんを眺めながら、由紀子は、この先どうなってしまうのだろうと思った。水穂さんは、このまま治すすべも無いということだろうか。それだけは絶対に嫌だった。

「とりあえず、今日はもう帰ってくれ。あとは、僕がやっておくから。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は、時計が五時を過ぎているのに気がつく。

「わかりました。」

由紀子は何もできない悔しさを抱えながら、杉ちゃんの言うとおりに、製鉄所を出ていった。せめて水穂さんが目を覚ますまでいてやりたかったが、それは無理なことだった。

由紀子は、道路を車で走っていったが、何故かまっすぐ帰る気にはなれなかった。そこで近くの喫茶店に入って頭を冷やすことにする。喫茶店では、いろんな客がいて、仕事をしている客もいるし、楽しそうにお茶を飲んでいる子供もいる。みんな自分のしているような、重い気持ちでは無いのではないかと由紀子は思った。

その喫茶店の奥のテーブルに、伊能蘭が座っていた。由紀子は、なんだか思い詰めているような顔をしている蘭に、

「蘭さん。」

と声をかける。蘭は、由紀子に驚いて、

「ああ、由紀子さん、どうしたんですか?」

と、急いで言った。

「ええ。あたしは、ちょっと、用事があったというか、ちょっと、一苦労したところがあって。」

由紀子は、無理して笑顔を作って答える。

「いや、由紀子さんいいんですよ。無理して、強がる必要はありません。由紀子さんが、そういうことに耐えるの、苦手なのは僕も知ってますし。」

と蘭は、にこやかに言った。

「蘭さんも、そういうことが苦手だって、ちゃんと顔に書いてあるわ。」

由紀子は、思わず言った。

「そうですか、僕は、意外と単純な男なのかな。あの、波布にもそう言われました。」

蘭は、なんだか意味深い顔をしてそういう事を言った。

「蘭さんどうしたんです。なにか、言われたんですか?あたしで良ければ聞きますよ。」

と、由紀子は、急いで言った。

「いやあねえ。僕は、水穂には良くなってほしいと思うんですが、そう思うことは、いけないことなんですかね。波布に言われました。思えば思うほど、水穂さんには負担になるからやめたほうがいいって。」

蘭は、すぐ言った。

「そうですか。あたしも、そう思ってるんです。今日もお医者さんに見てもらったんですけど、数値ばかり見て、水穂さんの事何も心配してくださらないし。それで、なにかあれば精神関係だって、責任をほかへ転嫁しちゃうし。全く、ひどい人たちです。」

由紀子は、急いでいった。

「まあ、医者なんてそんなもんだと言われましたが。あたしは、どうしても、水穂さんをなおしてあげてほしいのに、そんな事も、聞いてもらえないんですね。誰か、水穂さんの抱えている事を、聞いてくれるような存在がいればいいんですけど。あたしたちは、できないし。」

蘭は、由紀子がそういうのを聞いて、ある女性の顔が頭をよぎった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る