名無しは今日もひそむ

薬売り

第1話 変な奴

 彼は変な奴だ。


 彼は自分の名を大桜と名乗った。美しい苗字だ。桜という字が入っている名前とは何とも贅沢な。彼自身もこの名字をとても気に入っているようだった。そのため、彼は苗字ではなく名前で呼ばれることをとても嫌がっていた。あまりにも嫌がるので、しまいには両親でさえも名前で呼ばなくなったらしい。そんなに嫌がっている名前はどんなものかと気になるだろう。しかし、何度思い出そうとしてもそれを思い出すことは出来ない。使ってないものは当然、それをどこにしまったか忘れてしまうのだ。


 彼は変な奴だ。


 初めて会ったとき、彼は私に脛を見せてきた。その足は一見何の変哲もなかったが、しばらくして奇妙なことに気が付いた。「君、なんで片足のすね毛だけそっているの?」、私は彼に聞いてみた。すると、「こうすると、軽いんだ」と彼は一言そう答えて満足そうに自分の席に戻っていった。


 彼は大学の一つ年下の後輩だった。いや、最近までずっとそう思っていた。実は、彼はその大学に在籍していたわけではなく、こっそり忍び込んでいたというのだ。実際、彼がそのとき本当は何をやっていたのかは知らない。


 彼と私が一緒に受けていた授業は、仏教文化概論・Ⅰである。よくある教授が自分の研究成果を垂れ流すだけの退屈な授業だ。そのとき私は法学部の四年生だった。卒業論文もなく、就職に関しても家業のクリーニング屋を継ぐことになっていたため、有り余った時間を残り少ない大学生活に費やすことを決め、この授業を履修していたのであった。退屈だったが知識とは面白いものだ。授業の進め方は退屈かもしれないが、その教授の研究成果は非常に興味の持てる内容だった。私は金曜日の三限を、週一回放送のお気に入りのラジオ番組のように楽しんでいた。


 しかし、彼に認識されてから、そのラジオ番組をゆっくり聞くことは出来なくなった。衝撃のすね毛事件の後、彼は毎回私の隣に座るようになった。







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