世界
春雷
僕の旅
僕は昔から引っ込み思案な性格で、何をするにも尻込みしていた。けれども、人は誰しもいつかは旅に出なくちゃならない。僕はそのことをちゃんとわかっていた。でも、なかなか一歩が踏み出せなかった。
「今はまだ、屈む時期なんだよ」
僕の父が言った。
「高く跳ぶためには一度屈む必要がある。お前は今、力を溜めているんだ。これからだよ、これから。これからお前は大きく跳ぶんだ」
そう言われても、僕の焦りに変わりはない。周りの友人は皆将来に向けひた走っている。僕だけが、取り残されている。僕だけが、立ち止まっている。このままでいいはずはないと知りながら、行くべき先がわからない。僕はどこへ行けばいいのだろう。社会が大きく変容し、僕の向かうべき先は無限にあるように感じられる。実際は選択肢はそれほどないのに、僕はその理屈の上での無限に圧倒され、動けないままでいるのだ。
大学三年になった。僕はいまだに自分が何をしたいのかわからない。色んなことに挑戦しなければならないと思っているのだけれど、どうしても挑戦することができない。僕は自分に甘いのだろうか。あるいはそうなのかもしれない。
大学の研究室で一人、レポートを書きながら、僕は自分という存在について考えた。僕とは何だろう。僕は自分をできる限り客観的に見ようとした。でもうまくいかなかった。結局目の前の現実的な作業に追われ、考えを深める間もなかった。
レポートが一段落したところで、ペットボトルのカフェラテを飲む。何だか自分を見失ってしまいそうだ。おそらく自分一人で抱え過ぎているのだろう。もっと世界は単純で、人生は明快なものなのかもしれない。思わず頭を掻きむしった。
その時だった。研究室のドアが開いた。先輩が入ってきたらしい。
「おお。日馬くんか。レポートやっているの?」
「はい。明日提出なんで。でも大体終わりましたよ」
「そうか。それはよかった」
先輩は気さくな人で、割と誰にでも話しかける。僕は彼のコミュニケーション能力を羨ましく思っている。
「教授に怒られてしまったよ」
「そうなんですか?」
「うん。ゼミにもあまり顔を出していなかったからさ」
確かに、先輩はこの頃ゼミの発表会を欠席していた。
「どうして休んでいたんですか」
僕はそう訊こうとしたが、あまりにも踏み込んだ質問だと思い、やめた。
無言の時間がしばらく流れた。
「俺はこの世界に向いてないのかもなあ、とか子どもみたいなことを時々考えることがあるんだ」
唐突に先輩は語り出した。僕はパソコンから目を転じた。
「世界?」
「ああ。世界。何だか窮屈だなあと思わないか?」
「まあ、多少は」
そう感じることは僕自身頻繁にあった。先輩が同じ思いを抱いているとは、意外だった。
「先輩でも悩むことがあるんですね」
思わず僕は言った。
「ああ。悩みばかりさ。でも、最近は安定しているかもしれない」
「安定」
「ああ。そうだ。お前もやらないか」
「やる?何をですか?」
「殺しだよ」
頭が真っ白になった。殺し?その単語の響きはどこまでも恐ろしく、僕の胸を締め上げた。
「冗談ですか」
でも僕は何故か彼が冗談で言っているとは思えなかった。
「勿論合法的な殺しだよ。人の型をとって、そっくりな人間を作るんだ」
「クローンみたいなことですか」
「そうだね。それに近い。髪の毛一本取ってくれれば、翌日には作れるんだよ。最近友達に誘われて一緒に商売しているんだ」
「いいんですか、そんな商売。何というか、倫理的に」
「そんなの俺が決めることじゃない。社会が決めることさ。でも誰も困っちゃいないし、客はみんな喜んでくれるし、いいと思うんだけれどなあ。君は結構頭が固い方なのかい?」
頭が固いとか、そういう次元の話でもない気がする。僕は頭が痛くなってきた。
これは現実だろうか。つい疑ってしまう。夢を見ているようだ。
「一度友達でも誘って店に来ないかい?僕を通してくれれば安くするよ。君も殺したい人の一人や二人いるだろう」
この人は何を言っているのだ。頭がおかしくなってしまったのだろうか。そんな商売、許されるわけないじゃないか。
「倫理なんてものはその時々で変化するものだよ。時代によって人の価値観は流転する。戦国時代に命は大事だと言っても人は戦いをやめなかったろう」
「でも、今はそんな時代でもない」
「まあ、それは俺も認めるところだ。でも窮屈すぎるだろう。ちょっとくらい羽目を外してもいいんじゃないか」
「別の方法で羽目を外すべきだと思います」
「君、反論するようになったね。きっぱりものを言えるようになったじゃないか」
言われてみれば、そうだった。つい熱くなって直接的にものを言えるようになっていた。
「今の話は冗談だよ。君が殻を破れていない感じがしたから、ちょっと言ってみただけなんだ。どうだい?人と話せるようになっただろう」
「ええ、まあ」
「それならいい。今の話は忘れてくれ。戯言だから」
話はそれきり終わり、先輩は研究室を出て行った。僕は一人残された。何だか今の話は、嘘じゃないような気がした。
大学四年の春になり、僕は未だどこへ向かうべきか迷っている。僕は方位磁石を欲した。でもそれは自分で生み出すしかなった。僕の旅は、これからも続くだろう。僕は迷ったまま、この先も生きていくのだろう。
そう思った。
ある日、久しぶりに会う友達が、ひどく怯えた様子で僕の部屋を訪れた。
「どうした」
「いや、ちょっとやらかしてしまって」
「やらかした?」
「ああ。お前知っているか。ここら辺で噂のあのお店」
「いや、僕は流行とか噂に疎いから」
「そうか。実はな、何と言うか、人を殺せる店があるんだ」
その言葉を聞いて僕は研究室でのあの出来事を思い出した。先輩の店だ。
「それで、俺、友達と二人でその店に行ったんだよ。ちょっとムカつく先輩がいたから」
そこで彼は言葉を切った。
「あの店、嘘ばかりだ。先輩の髪の毛を持って、クローンを作ってもらった。俺は友達とその先輩のクローンをナイフでめちゃくちゃに切り刻んだんだ。そのクローンは椅子に縛り付けられてあって、ものすごく叫んでいた。俺と友達は気分爽快だった。やがてそのクローンは動かなくなった」
本当にある店だったとは。やはりあの時先輩は本当のことを言っていたのだ。
「で、何が問題なんだ。確かに倫理的には問題だけど」
「いや、違う。そういうことじゃないんだ」
「そういうことじゃない?」
「ああ」
そこで彼は一拍置いた。そして言った。
「クローンなんて、どこにもいなかったんだ」
僕は一瞬何も考えられなくなった。クローンなんていない?
「そう、俺は先輩のクローンを殺したんじゃない。
先輩を、殺したんだよ」
頭が真っ白になった。何が起きている。どういうことだ。頭がおかしくなってしまいそうだ。
泣きすがる彼を眺めながら、僕は呆然とある一点を見つめていた。
そして思った。先輩の店に行こう。
僕は彼が泣き止むのを待って、店の場所を聞いた。
店は商店街の奥の方に、ひっそりと開いていた。当然だ。こんな商売をしているのだから。店は半地下の構造になっているため、階段を下りる必要がある。僕は一段一段石の階段を踏みしめながら、呼吸を整えた。まず警察に通報すべきだっただろうか。しかし、店側も何らかの対策はしているだろう。とにかく、先輩だけでもこの店を辞めさせなければ。
店のドアをノックする。僕は紹介状を郵便口から入れる。しばらくして、ドアが開いた。
「ようこそ。画豆様からの紹介ですね。どうぞお入りください」
全身刺青の入った、いかにも怪しいスキンヘッドの男に案内された。
「初めてですか」
「ええ」
「やはり色々溜まっているんですねえ、現代人は」
「そうかもしれませんね。ところで」
僕は先輩の名前を出した。
「ああ。いますよ。副社長ですね」
副社長だったのか。
「会えますかね」
「ちょっと聞いてきます」
案外すんなりと会えそうだ。何だか拍子抜けしたが、これでいい。
奥の部屋に通された。部屋の入り口はカーテンで仕切られていた。赤い照明を使っていて、何だか映画の中の世界に来てしまったという感じがした。部屋は二人もいればちょっと狭く感じるほどの大きさだった。
「よお。久しぶりだな」
先輩がいた。髪を緑に染めていて、違う人のように見える。
「誰から聞いた?殺したい奴ができたのか?」
「そうじゃないです」
「そうじゃない」
「はい」
僕は息を吸って、吐いた。
「僕は先輩を辞めさせるために来ました」
先輩は僕の顔を驚いた様子で眺めた。そして苦笑した。
「馬鹿言うな。これからが稼ぎ期だってのに。社会が不安定になりゃ儲かるんだよ」
「こんな商売、存在するべきではないのだと思います。それに、クローンなんて嘘じゃないですか」
「嘘?いや、本当だよ。俺たちはクローン技術を持っている」
「でも、友達は本当に人を殺したって」
「ああ、たまに手違いがあるんだ。先日クローンを逃した奴がいてな。みんなで捕まえに行って、全員無事に帰ってきたんだが、その中に本物が混じってしまったらしい」
「心は痛まないんですか」
「なあ、クローンと本物の違いとはなんだ。どちらも同じ存在なら、どちらか一方が消えたとしても、社会的には何の損失もないだろう」
「馬鹿な論理を持ち出さないでください。それに、クローンなんて本当は作れないのでしょう」
「証拠を見せようか」
先輩は誰かを呼びつけ、耳打ちした。しばらくして、誰かがカーテンを開けて、この部屋に入ってきた。僕はその姿を見て、驚いた。
僕だったのだ。
僕と瓜二つの人間が、部屋に入ってきた。
本当にクローンを作っているのか。しかし、僕の細胞をどこで入手した?
僕はあの日の出来事を思い浮かべ、そして気づいた。
「ああ、そうだ。研究室に落ちていたお前の髪を採集して作ったクローンだ。実験として作ってみたんだが、こいつは働き者でな。使えないお前とは違って、話も通じるし、優秀なやつだ。お前のクローンなのに、お前よりも優れた存在。もはやお前は不要なんだ」
僕は目の前の光景をとても信じられず、呆然としてしまった。鏡のように、何から何まで同じ自分がいる。勿論、服装や髪型には微妙な差があるのだが、そういう表面的なところよりも、根本の部分で全く同一個体だという印象を受けた。
「いるんだよ。稀に本体よりも優秀になるクローンが。ちょうどいい。お前を殺したいと言っていた客がついさっき来たんだ。これを機会に、このクローンの方を本体にしてしまおう」
僕はその言葉を聞き、咄嗟に逃げ出そうとした。でもスキンヘッドの男に捕まえられ、おそらく鉄の棒で殴られ、気絶してしまった。
起きると、血生臭い部屋にいた。赤い照明が目に眩しい。口の中で血の味がする。唇が切れたみたいだ。頭もひどく痛む。僕は椅子に縛り付けられていた。手首と胴、足首が縄で縛られていて、身動きが取れない。かなりきつく縛ってあるため、特に手首の鬱血がひどい。手先の感覚が消えかけていた。部屋の入り口の方を見ると、男が僕を睨みつけていた。逃げるのは不可能だ。男の手には鉄パイプが握られていた。
やれやれ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。手出しするんじゃなかった。この問題は僕には大きすぎる。他の誰かが解決すべき問題だ。警察に通報しておけばよかった。
男が二人入ってくる。おそらく客だろう。
僕は今から殺されるのだ。そう思うと、何だか虚しさが込み上げてきた。僕の人生は屈み込んだまま終わるのだ。いや、僕はきっと跳躍するために屈んでいたわけじゃなく、ただ面倒だからしゃがんでいただけなのかもしれない。僕は何もしないまま、何もできないまま、人生を終える。旅はここでおしまい。
僕が死を覚悟した、その時だった。
客の一人が、入り口の男の顔を殴り、男を押さえ込んだのだ。男は反撃しようとしたが、もう一撃、顎を殴られ、気絶した。
「どういうことだ」
思わずそう呟いていた。
「援軍だよ」
客の一人が言った。よく見ると、見たことのある顔だった。訊くと、彼は僕の友達の知り合いだと教えてくれた。
「君を助けてやってくれと頼まれてね。勿論警察にも連絡済みだ。そろそろ来る頃合いだろう。僕とこいつは空手をやっている。だからまあ、並のチンピラには負けやしない」
そうは言っても、こんな怪しい店に二人で来るとは。
いや、それは僕も同じか。
「とりあえず逃げよう。こんな場所、警察に任せておけばいい」
彼は僕の縄を解いた。
「人を殺したいと思うことは、誰しもきっとあるのだろう。でも僕は現代社会で殺人は起きてほしくない。誰も人を殺さないでほしい。そう思うんだ。何のことはない、僕のただの願望なんだけどね。難しいことはよくわからないから」
「わかります。人の可能性を奪うべきではないんだ」
「そうだね」
僕は彼らと店を出た。階段を上り切った時、店のドアが開いて、先輩が顔を出した。先輩は僕を一瞥すると、店の中へ戻った。僕らはそのまま商店街を駆けて行った。
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