28
タオルで
もし
子どもが欲しいという
もし、できたらどうするかという問いには迷いもせずに産んで欲しいと答えた。愛実から見た懐空は常にブレることなく、前を見ているように見えた。一度決めたら突き進むタイプ、それでいて必要と感じれば柔軟に対応する、そんな人だと思う。
そんな懐空だから、妊娠に気が付いた愛実は
ふと愛実は思う。なぜ懐空はわたしなんかを好きになったのだろう。アパートの隣人、時折 顔をあわせ、アパートにあった桜の木の下でちょっとだけ会話し、たまにくる地域猫のサクラに
接近していったのは愛実のほうからだ。自宅で仕事をするようになり、話し相手が欲しくなると何かしら理由をつけて懐空の部屋を訪ねるようになった。
最初は戸惑ったが拒絶することもなく懐空は部屋に入れてくれた。きっと愛実を意識していなかったからだ。そして二人きりの部屋で過ごしても、桜の木の下で過ごすのと同じ時間が流れていた。
愛実の母親は三つ違いの弟だけに愛情を注ぎ、愛実をかえりみることがなかった。母と呼べば
もし、ごく普通の姉弟の関係が築けていたら、こんなふうに笑って会話することもあったのかもしれない、と懐空と話しながら何度 思ったことだろう。まったく気を使わないわけではないけれど、懐空との時間は肩の張らない、楽しい時間だった。
話し相手が欲しい、なんて言い訳だったのかもしれない。初めて懐空を見た時のことを愛実は思い出す。親の愛を
だとしたらわたしはなんて罪深いのだろう。さして恋愛経験のない
今となっては判らない。意識してそうした覚えはなかったけれど、気安く腕や肩や背中に触れたことが何度もあったように思える。それが懐空の中に眠る男を刺激していないと言い切れない。
つまりわたしは、と愛実が思う。その気がないフリをして、懐空を誘惑し、その気になった懐空を拒んでさらに気持ちを
地域猫のサクラの死に打ちひしがれ、心の
その言葉をわたしは待っていなかったか? 愛実は自分に問いかける。誰にも愛されない、愛される資格がないと言いながら、それを否定してくれる誰か、愛してくれる誰かを、わたしは待ち
父親からの長年に渡る虐待で肉欲を教え込まれた身体が、心と裏腹に男を求める。逃れようと
知られれば非難され、
「僕にはあみの苦しさなんか判らないんだ。本音を言えば、判ろうとも思ってないし、判るはずないと思ってる ―― 判ろうと思えば、それは同情だと思う。判ったつもりになってしまう。それよりも僕は、そこにあるものとして受け止めようと思う。あみは心に傷を負っている。その傷は僕が頑張っても
と言った。
愛実が悪夢に
「僕はあみの気持ちを知ってる。あみは僕から離れたくないんだ。あみは僕のことが好きなんだ。あみは自分に素直でいる事をときどき忘れる。僕は
いつでも前を見ている懐空、ブレることのない懐空……
もし懐空がナツミの存在を知ったならどう思うだろう? そう真由美に問われた時、今更 言えない、と真っ先に思った。もし言うのなら、妊娠を知った時、それしかないと思った。もうその時に戻ることはできない。五年も前に過ぎてしまった。
懐空にとって一番に優先すべきは愛実のこと、それでもあの時、懐空は掴んだチャンスに挑戦することを選んだ。慎重で堅実な懐空を愛実は知っている。先を見据えた準備を怠らず、努力を重ねることを忘れない。確実にできることを常に選び、決して無茶をしない。そんな懐空が、挑戦したいと言った。
許して欲しい。愛実に負担をかけることになるかもしれない ―― その言葉は、少しでも愛実のためになるように、いつも懐空が考えている証拠だと思った。そんな懐空が初めて愛実に、苦労を一緒に背負って欲しいと言ってくれたのだと愛実は感じていた。
嬉しかったし、安心もした。これで自分は懐空に負担をかけるだけの存在でなくなったと思った。だから……
妊娠を知った時、懐空には言えないと思った。懐空が知ればきっと軌道修正をする。愛実は決して負担とは思わなかったけれど、懐空にとっては愛実に負担をかける専業作家は諦めるだろう。
愛実に負担をかけてでも、と口にするのに、懐空はどれほど悩み考えたことか。わざわざ言いはしないが、相当の覚悟をしていると思った。その覚悟を
だから何も言わずに懐空から離れた。それが懐空にとって一番だと思った。
(懐空にとって一番……)
ナツミの寝顔を見つめていた愛実が気付く。
(わたしは自分にとって一番 大事な懐空のために、懐空の子であるナツミを犠牲にしているんだ)
子どもを犠牲にするなんて、きっと懐空は許さない。愛実が自分の
今、私にできるより良い選択は何だろう? このままここでナツミと二人、懐空から離れて暮らす? ナツミに懐空のことを知らせないのは無理だ。すでにナツミは懐空に気が付いている。隠しようもなくなるのが見えている。
懐空の強さが懐かしい。真直ぐに進みたがるのに、間違いに気が付けば修正することを恐れない。見習わなくてはいけない ――
でも、どうしろと? あの時 言えなかったのに、今更なんていう? 子どもが生まれたの。あなたの子よ。
そんなこと言えない。そんなこと言ったら、そんなこと知ったら ―― 懐空はどんな顔をするのだろう? 何と愛実に言うだろう?
愛実の脳裏に懐空の顔が浮かぶ。いつも通りの穏やかな笑顔を見せる。
「一人で頑張らなくていいんだよ ―― 約束だ。二人で未来を築いていこう」
懐空の声が聞こえた気がした。濡れた頬に手を伸ばす。涙が温かいことを、愛実は思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます