27

 由紀恵ゆきえに呼ばれて杉山すぎやまがキッチンに向かう。どうやら手伝えと言われたようだ。杉山が嬉しそうに苦情を言い、コーヒーでいいのかな、と由紀恵に訊いている。


 リビングに残された懐空かいあの瞳に、なぜか涙が滲んでくる。父親はいないと思っていた。いないと思い込もうとしていた。なのに、今、キッチンに向かう杉山の姿に、この人が僕の父親なんだ、と思ってしまった。僕にも父親がいたんだ、と思ってしまった。


 覚えている限り、由紀恵が懐空の父親について口にしたことがない。覚えている限り、父親のことを由紀恵に訊いたことがない。


 訊けば由紀恵が困る、そう感じていた。だから訊かなかった。僕には父親なんかいない、母さんがいるからそれでいいんだ ――


 そう思ったところで、容赦ない現実は、よその子にいる存在が自分にはいないという事実を隠してくれるはずもなく、寂しい思いをしたことがない訳じゃない。そのたびに思った。僕には母さんがいるからいいんだ。


 周囲を見れば、同じように父親のいない家もあり、母親のいない家もあった。自分だけじゃないと思った。そう思って納得しようとした。


 その時の心情がよみがえり、僕は目頭を熱くしている。自分で思っていたよりも、あれは辛いことだったんだ ――


 そっと目をこする。すでに涙は止まっている。辛いと言ってもこの程度、それとも僕がもう、幼い子どもではなくなったからか。


 そういえば、と思い出す。一度だけ、由紀恵が懐空に父親について訊いたことがあった。小学校1年の時だった。父親が欲しいか訊かれ、今更いらないと答えた。母と二人の生活に満足していたし、知らない誰かと一緒に暮らすのは嫌だと思った。


 その時は思いつかなかったけれど、由紀恵には付き合う相手がいたのかもしれないと中学に通う頃には思っていた。だとしたら、僕は答えを間違えたんじゃないだろうか、母の幸せを奪ったんじゃないだろうか、そんな後悔をすることもあった。


 でも違ったと、さっき気が付いた。あの痴話喧嘩、母さんの焼きもちに杉山が不快感をあらわにしたあれは、きっと杉山の恋愛記事が原因だ。そしてその記事は、由紀恵が懐空に父親が欲しいか訊いた時期に出されたものだと思った。その頃、そんな記事があったかなんて知らないけれど、きっとそうだ。


 杉山がほかの女と結婚する、面白おかしく書かれた記事が、由紀恵を絶望させ嫉妬させ、それなら自分も、と思わせた、そんな気がした。それなら僕の答えは正解だったことになる。もっとも別の答えでも、結局、由紀恵は結婚なんかしなかっただろう。


 すべて憶測だ。訊けば答えてくれるかもしれない。でも、あえて訊くこともない。すべての真相を明らかにする必要などどこにもない。本筋さえ押さえてあれば、そこから僅かに離れたところに残されたささやかな謎は、想像力を掻き立てて、同じ物語が幾通りにも解釈される。奥行きの深いものへと変わっていく。


 キッチンから杉山が声をかけてくる。

「ダイニングのほうが食べやすいがキミはどうする? そちらに運ぶかい?」


後ろで由紀恵が、一緒でいいわよ、と言い、杉山がそれに、気を遣わせるだけだ、と小声で答えるのが微かに聞こえた。


「すいません、こちらでいただきます」


そう答えてダイニングに向かう。自分で運ぼうと思った。すると由紀恵が不満そうな顔でトレーを用意した。


 チキンライスを包んだオムライス、アスパラのベーコン巻き、グリーンサラダ、そしてオニオンスープ。どれも食べなれた由紀恵の味だった。食べながら懐空はしみじみ思う。もうすぐ由紀恵の料理はたまにしか食べられなくなる。母さんは僕ではなく杉山と暮らすだろう。僕はあの家で一人で暮らす。


 いや、あの家に住まわせて貰えるのだろうか? もとはと言えば杉山の父親から貰った金で買ったあの家に、僕は住み続けられるのだろうか?


 やっぱりどこかに部屋を借りて、一人暮らしを始めるしかないか。借地権の問題もあるのだから、由紀恵はあの家を手放すだろう。


 アパートを借りで暮らせるくらいの稼ぎはあると思う。多分、いや……ちゃんと確認しないといけない。どの程度の家賃を払えるだろう? 毎月銀行から引き出す金額よりは収入があるはずだ。貯まる一方だと由紀恵が言っていた。


 でもそれだって、この先何年持つだろう。飽きられて、売れなくなれば収入もなくなる。僕一人ならば、学生のころに住んでいたようなボロアパートで充分だ。


 愛実あいみのチューリップとクリスマスローズはプランターに植え替えて引っ越し先に持って行こうと思った。広いベランダがあるところが借りられるといい。そんな部屋は家賃も高いだろう。だけどあの花を残しては行けない。なるべく安くて、プランターが置ける程度のバルコニーがある、そんな部屋を探そう。


 食べ終わった食器を下げると、由紀恵がコーヒーと灰皿を寄こした。由紀恵はタバコを吸わない。杉山も吸う気配がない。灰皿は来客用に用意しているのだろう。


「灰皿はいらないよ」

由紀恵に灰皿を返した。タバコもライターも持ってきていない。自宅以外で喫煙したことがない、と今更思い出す。


「いつの間に辞めたの?」

と、由紀恵が不思議そうな顔をする。辞めたわけじゃない、と懐空が苦笑する。杉山が、遠慮は無用だ、と言った。


剣持けんもつなんか、勝手に灰皿を探し出して吸っている」

「剣持先生、お元気ですか?」


「あぁ、元気だとも。こないだ会った時もキミの事を気にかけていたよ」

「ありがたいことです」


 デビューが決まり、作家一本でやっていくか、就職して兼業にするか迷った時、懐空の背中を押してくれたのがゼミの担当教授の剣持だった。『キミに期待している』そう言って剣持はさらに、『これほど多くの人に期待されるなんて、人生にそうそうあることじゃないぞ』と言ってくれた。その言葉に勇気づけられて、作家だけでやっていくと懐空は決めた。


「遠慮してってわけじゃないです ―― 自宅以外で吸ったことがなくて。自宅だと完全に吸い過ぎなんだけど……」

「へぇ……それならすぐに辞められるんじゃないかな?」


 辞めるつもりはなかった。愛実と付き合うようになる前、近づかない距離の切なさを紛らわせるために始めたタバコだった。愛実が吸っていたのを真似て始めた。辞めたら愛実との繋がりが一つ消えそうで怖かった。


「彼女に貰ったライターを使いたくて吸っているのかもしれません」


杉山がちらりと懐空の顔を見たような気がした。それに応えず懐空はコーヒーをもってリビングに戻った。


 しばらく水が流れる音や、食器がぶつかる音が聞こえていたが、それが止むと杉山がコーヒーサーバーをもってリビングに来た。懐空の空いたカップに注ぎ、自分のカップにも注ぎ足す。そして懐空に訊いた。


「懐空……キミは愛実さんを待っているんだろう?」

「……」


 唐突な杉山の質問にどう答えてよいか懐空が迷う。だいたい、なんで愛実という名を杉山が知っているんだ? 由紀恵から聞いたのか? 動揺する懐空の答えを待たず杉山が続ける。


「先日、由紀恵にすごい剣幕で怒られた。懐空から仕事を奪うな、と言ってね」

「僕から仕事を奪う?」


「うん。由紀恵が言うには、書き続けることでキミは辛うじて自分を保っているんだと。そのキミから書くという仕事を奪えば、キミはどうなってしまうことかと由紀恵は心配なんだそうだ」


風空ふく!」

遅れて戻ってきた由紀恵が悲鳴のような声をあげる。

「やめて、いきなりそんな話をするなんて。何を考えているのよ?」


「どういうことですか?」

由紀恵を無視して懐空が杉山に問う。


 杉山がカップに手を伸ばし、味わうようにコーヒーを口に含む。でもきっと味なんか判らないだろう、何か別のものを吟味する顔だ、と懐空は思った。


「懐空、どうしたら愛実さんを見つけ出せると思う? 愛実さんが帰ってくると思う?」


 それが判っているなら、とっくに愛実を見つけ出している。とっくに愛実は戻ってきている。そう思ったが言えなかった。


 具体的にその方法を僕は考えただろうか? 五年前、自分に向き合うことだと杉山に教わり、それに従った。でもそれだけだ。いつでも取り戻せるようおく、それが自分に向き合うことだと言われた。僕は準備しかしていない。


 でも、どうすればいい? 探して見つけ出せれば、あみは戻ってくるのか? 戻りたくないと言いはしないか? いなくなった理由が判らない。年齢差がさまたげなら解消できることじゃない。仕事の妨げになると思っていなくなったのなら、とっくに戻ってきていてもおかしくない。あれ? 今も愛してくれていると思うのは、ただのうぬれか? あみは僕に愛想を尽かしたのか?


「愛実さんに、今のキミの状態を知らせたらどうだろう?」

「僕の状態?」


 懐空の焦燥とは別のところへと話が流れた。

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