10
しつこく鳴るインターホンの呼び出し音に、とうとう
インターホンを鳴らしていたのは
「懐空、おはよう、まだ寝てたの?」
「あっちぃなぁ……」
満里奈に答えず、夏の暑さを懐空がぼやく。
本当はウザいと言いたかった。
「ンで、何の用?」
「由紀恵おばさん、留守なの?」
「なんだ、母さんに用事か。夕方には帰るって言ってたよ」
「ううん、こんなに待たされるのって、おばさんがいないんだなと思ったの」
面倒だな、と思いながら、
「庭に回って……ダイニングの戸を開けるよ」
と、玄関扉を閉める。このまま長話になると、どんどん蚊が入ってきそうだ。ダイニングに回り、蚊取り線香に火をつける。掃き出し窓を開けると満里奈に線香を渡し、麦茶、飲むか? と聞いた。
「それで、今日は何?」
冷えた麦茶を満里奈に渡しながら懐空が問う。暑さにグラスも汗をかいている。
「今日はね!」
満里奈が嬉しそうに声を大きくする。
「どっかーーーん! 江の島の花火大会の日です!」
「行かないよ」
「ブーッ! まだ誘ってない」
「そうか、なら誘ったりするなよ」
自分の麦茶を飲み切って、ポツリと懐空が言う。
「ンっとに、懐空、冷たい」
「ンっとに、麦茶冷たい、よく冷えてる ―― お代わりする?」
返事も待たずに懐空は冷蔵庫のほうに行ってしまう。満里奈の麦茶はまだ一口も飲まれていなかった。
掃き出し窓に腰かけて満里奈が言う。
「毎日家にいっぱなしで、よく飽きないねぇ」
「仕事してるからね、飽きる暇なんかないよ ―― 僕が家でごろごろしてるとでも思ってるの?」
「思ってないけど……」
麦茶を注ぎ足したグラスをテーブルに置いたまま、冷蔵庫をのぞき込む懐空に満里奈が、
「朝ごはん? 何か作ろうか? 遠慮しないで」
と、嬉しそうに言う。
「いーや、遠慮もしないし、頼みもしない」
白いトレーを冷蔵庫から出して、ガステーブルに向かうと、魚焼きグリルに火をつける。白いトレーからサケを一切れ出して焼き始める。
「大学のころ、家を出てるのは知ってるよね。家事全般、自分でできるよ」
「ふーーん、それ、嫁はいらねぇ、って聞こえる」
え? と懐空がつい笑って満里奈を見る。
「満里奈の発想って、面白いね。ちょっと飛び過ぎじゃない?」
「飛び過ぎ、って?」
「だいたいさ、家事をして欲しくって結婚するわけじゃないしさ」
「それじゃあ、懐空、結婚はしたいって思ってるんだ?」
「そりゃあね」
「だったら家にいてばかりじゃ相手が見つからないよ」
「なんだ、お味噌汁、インスタントじゃん」
と、満里奈が笑う。
「一人分だからね、作るまでもないだろう?」
「夜も食べればいいじゃん ―― それより朝ごはん、サケだけ?」
「おにぎりにするんだよ。あと、トマトがある」
「なるほどね」
何が『なるほど』なんだか。そう思ったが言わずにいた。
ジョイの食器にドッグフードを入れているとき、満里奈がおずおずと、また聞いてきた。
「本当に懐空、結婚したいと思ってる?」
「思ってるよ」
来たか、と心の中で懐空は思うがそんなことはおくびにも出さない。頻繁にくる満里奈に、まさかね、とは思いつつ、ひょっとしたらと思い始めていた懐空だ。
できれば巧くはぐらかしたい。でも、はっきりさせなければあとを引くだけだ。どうしようか……
「どんな相手がいいの?」
「相手?」
「そうそう、結婚する相手。どんな人が好き?」
魚焼きグリルをのぞき込み、焼けているのを確認して火を消す。皿にサケを取り出して身を
「どんなっていうか、もう相手は決まっているよ」
「え?」
「婚約者がいるんだ ―― いつ結婚するかは決めていないけどね」
予想が当たっていれば、これでももう、用事もないのに満里奈がここに来ることはなくなるだろうと懐空は思う。
「そう……なんだ」
あからさまに満里奈の元気がなくなる。
「どんな人?」
「どんな人ねぇ……年上で綺麗な人」
「懐空って面食いだったの? あぁ、由紀恵おばさん、美人だものね」
「別に、美人だからって好きになったわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
サケを解し終わり、握った後に巻く
「心が揺れたから ――」
「心が揺れたの?」
「うん ―― 僕の心が揺れて、崩れそうになった。それを彼女が支えてくれた。僕も彼女を支えたいと思った」
「……懐空って、やっぱり作家なんだね」
サケを盛った白飯を、水で濡らして塩を全体に広げた掌に取る。何度か握りしめてから形を整え、最後に海苔を巻き付けた。
「作家だなんて嘘だと思ってた? ―― 食うか?」
出来立てのおにぎりを満里奈に差し出す。受け取りながら満里奈が言う。
「優しいからとか、楽しいからとか、そんな返事が来ると思ってた」
軽く笑いながら『そうか』と懐空は答えた。
「わたしさぁ……」
おにぎりに
「懐空、大学卒業して帰ってきたとき、様子がおかしかったじゃん。随分心配したんだよ」
うん、と懐空がそれに応える。
「だんだん懐空は元気になって、わたしも安心した。でも、安心すればするほど、懐空のこと好きなんだって、気が付いたの」
懐空は何も答えない。
「でも、判ってた。懐空は絶対わたしを好きになってくれないって。嫌いはしないけど、女としては見てくれないって―― なんでだろうって思ってた。そんなにわたしって魅力ないのかなって、泣きたくなった。でも、違ったんだね。懐空には大事な人がいたからなんだね」
そう言って、また一口おにぎりを頬張る。
「いい塩加減だね」
「うん、彼女、おにぎりが大好きでね。よく作った」
「懐空が彼女のために作るの?」
「僕が作ったり、彼女が作ったり。彼女のほうが上手だ」
「そっかぁ」
おにぎりを食べ終えて満里奈が立ち上がる。
「ごちそうさま―― それじゃまた来るね」
「おう、気を付けて帰れよ」
「今度は恋愛相談に来るから。覚悟しておいて」
満里奈の明るい声が庭を駆け抜けていった。
食事を終え、一息つくと懐空はジョイを連れて散歩に出かけている。人の多い海岸を避け、なるべく木陰の多い道を選んだ。
満里奈の話で、六月に行った鹿児島のことを思い出していた。大学の時からの親友
宮崎空港には忠司の兄が迎えに来てくれたが、思った通り忠司は忙しく、結局ろくに話はできなかった。新郎なのだからそりゃそうだと思う。
忠司の兄は穏やかにのんびり話す人で、見た目は忠司を丸くしたみたいだと思った。が、披露宴に登場した忠司を見て、そっくりだと思い直した。五年の間に忠司も丸くなっていた。
それに引き換え、新婦の
必ず愛実に
僕に相応しいかどうかは僕が決める。そうも懐空は言った。愛実に僕が相応しいかは愛実が決めることだ。
幸せそうな笑顔を見せる友人夫婦を眺めながら、愛実の答えが聞きたいと懐空は強く願っていた。
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