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 熱海の別荘は座敷の海側に大きく窓がとってあり、名物の花火が座ったままでもよく見えた。もちろん温泉も引いてある。室内のひのき風呂から、岩風呂 ふうの露天風呂に出ることもできた。


 座卓の上に並べられた料理は、近くの割烹かっぽうホテルから特別に取り寄せたものだ。そのホテルを杉山はたびたび執筆に使っている。普段は仕出しなどしないそのホテルも、上得意の頼みを聞き届けないわけにはいかなかったようだ。


 一緒に花火を見ようと、杉山すぎやまは東京駅から、由紀恵ゆきえは新横浜から新幹線に乗った。座席は離れているものの、同じ車両だ。熱海で降りても言葉を交わさず無関係を装って歩いた。


 熱海に着いたらすぐにタクシーに乗る予定だったのに、由紀恵は駅の構内を出て行ってしまう。どうしたものかとタクシー乗り場の近くで掲示物を見るふりをして杉山が待っていると、手に和菓子屋の包みを持って由紀恵が戻ってきた。由紀恵らしいと思い、つい笑みが零れる。面白くもないポスターを眺めながらニヤニヤしている杉山を見た人がいたら、さぞかし気味悪がっただろう。


 由紀恵がタクシー乗り場に並ぶと、さりげなく杉山はすぐ後ろに並んだ。電車が行ってから少し時間が経っているからか、その後ろに並ぶ客はいなかった。


 由紀恵がタクシーに乗り込むと、すかさず杉山が同じタクシーに乗った。運転手は一瞬驚いたが、由紀恵が何も言わず、杉山が行く先を告げるとすぐに車を出した。


 杉山が亡父から相続したその別荘は、門の奥に車寄せがある。タクシーの運転手に頼んで門を開けてもらい、他人ひとの目が届かない敷地内で降りた。


 手間をかけたからと、少し多めのチップを渡すと、『判ってますよ』と運転手が言った。どうやら杉山の顔を知っていて、口止めされたとでも思ったようだ。


 事前に管理人に連絡を入れておいた別荘は、しばらく使っていないとは思えないほど手入れが行き届き、快適に使えるよう準備が整っていた。杉山が由紀恵のために頼んでおいた茶葉も、茶器とともに洒落しゃれ茶筒ちゃづつに入れられてダイニングに置いてあった。茶筒を開けると清々すがすがしい茶葉の芳香が漂った。


 由紀恵が駅前で買った和菓子をお茶うけにして一息ついているとき、頼んでおいた料理が届き、杉山が対応している。二階の座敷に料理をセッティングして貰う間、由紀恵は別の部屋に隠れていた。


 ゆっくりと温泉を楽しんだ後、食事を始める頃にはすっかり日が暮れて、花火を打ち上げる爆音がとどろく。


「花火を見るなんて久々……前に見てから二十年くらい経つわ」

 車エビにワサビを盛りながら由紀恵がぽつりと言う。

「ふぅん……誰と見に行ったんだい?」

嫉妬が見え隠れする杉山の言葉に、由紀恵がクスリと笑う。

「若くってかわいい子」

「なんだ、懐空かいあか」

「あら、判っちゃった」

「妬いたほうがよかった?」

太刀魚たちうおの塩焼きの皿を手元に寄せて杉山が笑う。


「江の島の花火に連れて行ったの。人が多くて花火どころじゃなかった。りて二度と行かなかった」

 一緒に行きたかったと言いかけてやめておく。由紀恵を責めているように聞こえかねない。


「なぁ、由紀恵……」

 窓の外から目を離さずに由紀恵が『なぁに?』と答える。

「キミとのことを書いてもいいだろうか?」

爆音を挙げて花火が上がる。


 ゆっくりと由紀恵が杉山に顔を向ける。

「書くって何を?」

「キミとのこ――」

「そうじゃなくって、わたしとの何を書きたいの?」

うん、と杉山が黙り込む。

風空ふく……あなた、何を考えているの?」

問う由紀恵の声が震える。


 またも花火が上がり、空をとどろかせた。

「二十九年前、僕はキミとの恋を小説にして作家になった。作家になってもうすぐ三十年が経とうとしている」

「……」

「あの時の作品は、主人公が嵐の海に挑むところで終わっている。その続きを書きたい」

「どんなふうに?」

「 ―― 結局、結ばれなかった二人。それでも二十二年の時を経て巡り合う……」

「それで?」

由紀恵の声が震えてかすれる。


「そして二人は知るんだ。女の嘘と男の罪。それを補おうと模索し、取り戻そうとく」

「お……女の嘘?」

由紀恵の顔が青ざめる。


「まだ若かった男の将来を案じて、女は男のもとを去った。再会した女は『幸せに過ごしていた』と男に告げる」

「あなたは ―― 去った理由を嘘だと言うの? 幸せだと言うのが嘘だと言うの?」


 杉山が由紀恵を見つめる。そして由紀恵の問いに答えずに

「男の罪は……」

と続けた。

「男の罪は、女を思いやれなかったことだ。自分の中の強すぎる思い、強すぎる情熱。それしか男には見えていなかった。女の心を見ることができずにいた。それが男の罪だ」


 それきり二人はどちらも押し黙った。聞こえるのは花火を打ち上げる音だけだ。それも、ひときわ派手に鳴り響いたと思うと、ぱったり聞こえなくなった。今日の花火は終わったのだろう。


 ふたをわきにおいて、由紀恵が茶わん蒸しを手に取る。朱塗りのスプーンですくって口に運ぶ。

「ダメだろうか?」

杉山の不安げな声が静寂の中、聞こえた。


「……あの時だって、あなた、勝手に書いたじゃない」

 茶碗蒸しを食べ終えて、やっと由紀恵が杉山の問いに答える。

「あの時は連絡の取りようがなかった。それに……」

「それに?」

自分を見つめる杉山に、由紀恵が視線を移す。

「それに……書き終えたら、結婚して欲しい。私小説だと公表したい」

「何てこと言い出すの?」

驚きに由紀恵の目が見開かれる。驚きの奥には恐れが見える。そんなことしたら、どうなるか判っているの?


「僕は間違っていた。昔のことはともかく、僕たちは巡り合ったことを誰にも隠す必要がなかったんだ」

 杉山を見る由紀恵の瞳が不安に揺れる。

「誰にも……風空ふく、あなた、懐空に自分が父親だと、知らせたいのね?」

杉山がじっと由紀恵を見つめる。

「そうだよ。僕が父親だと、あの子に教えたい ―― 許しをいたい気持ちもある、愛していると伝えたい気持ちもある」


「あなた、さっき自分で言ったように、本当に自分のことばかりなのね」

 杉山が苦笑する。

「うん、自分のことばかりだ。僕が父親だと知った懐空がどう思うのかなんて、少しも考えていない。考えても判らかった。喜んでくれるのか、それとも僕を恨むのか。まるきり無視して認めてもくれないってのもあるね ―― それでもさ、いや、だからか? なおさら、父親だと名乗りたいと思った。懐空の心を知りたいと思った」


 そんな杉山を由紀恵がなじる。

「だって、だって……そんなことしたら、懐空の仕事に差し障るって、これもあなたが言ったのよ?」

「うん」


 杉山が大きく溜息を吐いた。

「そのことについては、彼を信じようと思った」

「懐空を信じる?」

杉山はうつむき、そして由紀恵に向き直る。

「僕はもう、キミと離れるのは嫌だ。二度とキミに昔のような決断をさせない ―― 懐空のことは、親馬鹿な僕の心配のし過ぎだ。懐空の才能は、無責任なスキャンダルで潰されない。そうでなければ、懐空は愛実あいみさんを取り戻せない」

「……愛実さん――」


「愛実さんを見かけて以来、僕はキミのこと、僕自身のこと、懐空のこと、そして愛実さんのこと、愛実さんの娘さん ―― 僕たちの孫娘のこと……僕たち家族のことをあれこれ考えた。そして気が付いたんだ。僕たちは、嘘を修正し、罪をあがなっていない。いまだに僕たちは嘘を吐き続け、罪を上塗りし続けている。それはきっと懐空と愛実さんも同じなんじゃないだろうか ―― 由紀恵」


 杉山が由紀恵の手を取った。

「僕たちの愛は、隠さなくてはならないものか? 僕たちの子は隠されなくてはならない存在か? 違う。決してそうじゃない。そんなの認めない」


 杉山を見つめる由紀恵の瞳に涙が滲む。そして薄く笑みを浮かべる。

「やっぱりあなたは風空ふくね。強引で、自信家で、そして真直ぐに進みたがる……わたしを魅了して、征服してしまった風空のままなのね」

何と答えていいか判らず杉山が黙る。が、由紀恵の言葉に潜む想いに気づいて頬を染める。


 そんな杉山に由紀恵が微笑む。

「風空、あなた、今日は自分のことを『僕』と言うのね」

「うん、世間体を気にして使う『わたし』では、心を伝えきれないと思った」

杉山も由紀恵に微笑みを返す。


「懐空に会えないだろうか? 懐空にも了承を取りたい」

微笑みを引っ込めてそう尋ねる杉山の目の奥に由紀恵は、揺れる不安の影を見た。強引で自信家で真直ぐで、そのくせ繊細。わたしが一番惹かれたところ、いとしくてたまらないところ ――


「判った、懐空を連れてくる……あの子、わたしに『彼』がいることにはちゃんと気付いているわよ」


 そうか、僕はキミの彼か、と、照れた杉山が嬉しそうに笑った。

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