2
ペロペロと顔を
「判った! 判ったから!」
自分に
軽く舌打ちをして階下に降り、顔を洗う。その間も愛犬は少しも懐空のそばから離れない。時計を見ると十時を回っている。
そうか、母さんは一泊で箱根って言ってた、と思い出し、慌ててドッグフードを犬用の食器に入れる。水も入れ替え、
「よし、ジョイ」
と言えば、
「お
いつも母の由紀恵は六時には起きている。その時間に貰っている餌を十時まで我慢していれば、どうにかして起こしてやろうと、ジョイが必死になるのも無理はない。
コーヒーメーカーをセットしてダイニングの椅子に座って煙草に火をつける。
眠りについたのが何時だか判らない。パソコンに向かって文章を考えていると、つい時間を忘れてしまう。ちょっと疲れたな、と思ってベッドに腰かけてその姿勢のまま上体を投げだしたのは覚えている。ジョイに起こされた時、ちゃんと布団をかぶって寝ていたから、無意識のうちにベッドに潜り込んだのだろう。
タバコを吸い終わるタイミングでコーヒーが出来上がる。カップに注いで椅子に戻り、再び煙草に火をつける。吸い過ぎだな、と思いながら、手にしたライターを眺める。吸い過ぎないでね、と言って、あの人がくれたものだ。銀色に輝くオイルライターにはイルカが浮き彫りにされていた。
恋しい人からの贈り物のそのライターは、一時期は見るのも辛かった。いっそ捨ててしまおうと、思ったことが何度もあった。だけどやっぱり捨てられない。今も懐空は彼女を待っている。
少しくらいのことでは消えないオイルライターをなぜあの人は選んだのだろう。心に
愛してる。だからお願い、探さないで ―― そんな書置きを残していなくなった懐空の恋人は、
二年間同棲した。大学生だった懐空が就職を機に地元に帰るか迷っているとき、懐空の実家で、懐空の母の由紀恵と三人で暮らしたいと言い出したのは彼女のほうからだった。
引っ越しの準備もほとんど彼女がしていた。いそいそと楽しそうに、引っ越したら庭を花畑みたいにしたいと言っていた。毎日ジョイを連れて海岸に散歩に行きたいと言っていた。それなのに、引っ越しの前日、懐空が大学の卒業式から帰ってきたら、書置き一枚を残して彼女は姿を消していた。
愛してる、だから探さないで――
(あみ……どうして僕が探さずにいられると思ったんだ?)
両親からの虐待を受けて育った彼女 ――
由紀恵を交えた
それなのに理由も告げずいなくなった。今でも悪夢に悩まされているのだろうか? 戻って来い。一生 抱いて眠ると約束した。その約束を僕は忘れてなんかいない。
愛実と二人、眠るはずだったベッドは隣の部屋に運び込まれたままだ。いつ帰ってきてもいいように、いつでも使えるようにと由紀恵が手入れを
懐空の古いベッドはさすがにそろそろ使い物にならなくなりそうだ。そうなったら布団を使えばいいと思っていた。
スマホが鳴ってSNSにメッセージが届いたと懐空に告げる。由紀恵からだった。
(いい加減起きた? ちゃんと何か食べなさいよ)
苦笑して懐空はトースターにパンをセットした。
食事が終わってから、ジョイの散歩に出かけ、帰りに郵便受けを見る。何通ものダイレクトメール、ほとんど広告の中に一通だけ差出人に見知った名前があった。
学生のころから付き合っていた彼女と晴れて華燭の典を挙げる、必ず来いよ、と数日前にSNSで言ってきていた。
東京にも、こんないいヤツがいるんだ、そう旧友たちに自慢したい、そう言って、学生のころから忠司は懐空を地元の鹿児島に連れていきたがっていた。結局行けずじまいの懐空だが、今度こそ行こうと思っている。
忠司に会いたいと思った。忠司の妻になる
忠司にそんなつもりはないと判っている懐空だが、集まった来賓は懐空の名を聞けば、必ず作家の
作家風を吹かせれば ―― そんな風があるのかと思うけれど ―― 忠司が自慢するために懐空を呼んだと思われ、まったくそんな要素がなければがっかりされ、下手をすれば同姓同名かと笑われる。懐空は笑われようが構わないが、忠司の晴れ舞台だ、忠司が笑われるようなことは是が非でも避けたい。
ありきたりではなく、それでいて忠司との友情を伝え、祝福を込める。難しい案件に、原稿を書くのはいいんだけどな、と懐空は思う。難しければ難しいほど原稿を考えるのは楽しい。誰か代わりに読んでくれないかな、と
招待状を送るとSNSで連絡してきた時の、忠司の最後のメッセージを思い出す。
(招待状は一名分でいいのか?)
(うん、一人だ)
懐空の返事に少し間をおいて忠司からの返信は
(判った)
だった。
そのやり取りは二人の間では『愛実さんは見つかったのか?』『まだだ』『そうか』と脳内変換されていた。
愛実がいれば自分のことのように喜んだだろう。よく梨々香と内緒話をしていた。十歳以上も年上だなんて思えないと言う梨々香に『わたしってそんなに子どもっぽいかしら』と
「子どもっぽいっていうより純粋な感じよね、愛実さんは」
と、梨々香は笑っていた。
由紀恵も愛実を『嘘のない人』と言っていた。
愛している、だから探さないで ――
愛実に嘘がなく純粋なのだとしたら、矛盾したこの書置きをどう懐空は解釈すればいいのだろう?
愛している、は嘘なのか? 探さないでが嘘なのか? それともどちらも嘘なのか?
違う、どちらも本心なんだ。懐空はそう思った。その矛盾した本心に愛実が苦しんでいないようにと祈る懐空だった。
夕方の散歩にジョイを連れて行こうと庭を見て、チューリップが咲いているのに気が付いた。愛実がプランターで育てていたのをここに植え直したものだ。少し離れた場所にはやはり愛実が育てていたクリスマスローズが植えてある。どちらも毎年花を咲かせ懐空を安心させてくれる。
花たちが愛実は今も元気だと、教えてくれているように感じていた。そんなのは勝手な思い込みだと、もちろん懐空も判っている。だけど『根拠なんかいらない』と自分で自分を納得させる。僕はそう感じている。それでいいんだ、と思った。
季節は廻り、繰り返し、延々と続く。生きていれば、しっかり自分の時を生きていけば、同じように自分の時間をしっかりと生き抜いた愛実がいつか戻ってくる。必ずどこかで巡り合う。そう懐空は思っていた。
懐空は願う。懐空は思い描く。それはいつの間にか一つの確信へと変わる。
そう、たぶん桜の花が咲くころだ。満開の桜に見守られて、きっと再び巡り合う。懐空が贈ったリングを指に
そしてその時、桜の
―― Aimi is my All.
僕は今でも変わらない、キミもそうだろう?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます