きみの嘘。ぼくの罪。すべてが「おもいでだ」としても

寄賀あける

1

 夜が明けたとは言え、まだ世の中は薄暗い。盛んにさえずる小鳥たちの声が、きっちり閉じた窓越しにホテルの寝室にも届いている。


 天井に至るまで豪華な装飾が施された二間ふたま続きの部屋は、きっとこのホテルの中でも高額な料金を取るだろう。そもそもこのホテル自体、高級と言われる部類に入る。外観さえも美しいクラシカルホテルは、観光地であるこの場所の数あるホテルの中でも有名だった。


 その寝室で男がぼんやりと目を覚ます。左腕に感じる軽いしびれ、目の前に眠る女の顔 ―― なぜ、ベッドは二つあるのに、一つのベッドで眠るのだろう、と不思議に思い、そうだ、この人をここに引っ張り込んだのは自分だったと思い出す。この人が僕の左腕を枕にして眠っているのは、僕がこの人を抱きしめたまま眠ったからだ、と思い出す。


 まだぐっすり眠っている女を起こさないようにそっと左腕を抜いていく。何かムニャムニャと寝言を言いながら女が微笑む。それでも目覚める様子はない。いい夢を見ているようだ。起こしてしまうようなことにならなくてよかったと、男も微笑む。


 ベッドから降り、脱ぎ散らかしたままのローブを探す。それを羽織って男が迷う。シャワーでも浴びるか、それともコーヒーでもれるか……


 コーヒーマシンをセットして、ソファーに座るとスマホを手に取り着信をチェックする。見知った名が、何度か電話をかけてきている。同じ人物からメールも来ている。電話をかけるにはまだ早い。メールを見ると締め切りは必ず守ってくださいとあり、男が苦笑する。


「時々先生は所在不明になる。どこに行っているんですか?」

 前回、顔を合わせた時、メールの送り主はそう言って困っていた。女に会いに行っていたんだよ、と笑いながら答えると

「冗談で誤魔化さないでください」

と真顔で怒っていた。


 冗談なんかじゃないよ、と応じると、

「まさか結婚するつもりですか? それなら一報はぜひ我が社で。ほかにすっぱ抜かせたりしないでくださいよ」

と、勢い込んでくる。


 結婚する気はないかな、とけむに巻くと、

「やっぱり冗談ですか」

むくれ、

「遊びなら絶対見つからないように。スキャンダルはまずいですから」

と不機嫌を隠しもせずに言っていた。


 あぁ、もちろんだとも、と男は思う。誰に知られるわけにもいかない。知られれば僕とこの人の大事なあの子が一番の被害者となる。


「……ふく――」

 どうやら女も目覚めたようだ。男が振り返り、自分の名を呼ぶ女を見る。横たわったままの女はあどけない表情で男を見ている。まるで少女のようだと男は思う。出会った時と少しも変わらない真直まっすぐに僕を見る瞳、この瞳にせられて、僕はこの人から離れられなくなった。


「朝食にはまだ時間がある。もう少し寝ていたら?」

「ううん、わたしにもコーヒー、ちょうだい」

女が上体を起こす。あらわになった女の胸元から、つい男は目をらす。いまだに照れてしまって直視できない。キミは僕にはまぶし過ぎる ――


 ルームサービスで頼んだ朝食が運び込まれる頃には、二人ともシャワーを終え、身支度が済んでいた。


「今日は帰ってしまうのだろう?」

トーストに齧りつきながら、風空ふくが詰まらなそうに問う。

「うん、一泊って言ってきたから。夕方まではいようかな」

「せっかくだから箱根を楽しんでいくといい ―― 言ってきたって彼に?」


 表情を動かした風空に、由紀恵ゆきえが笑う。

「やっと懐空かいあのことが聞けると思って、喜んでる。遠慮しないで聞けばいいのに ―― 一人で観光なんて嫌。あなたはどうせ一緒に来てくれないのでしょう?」

ここのソーセージは相変わらずおいしいわね、とついでに由紀恵が付け加える。


 口をとがらせた風空が

「そうだね、一緒に観光は無理だ。人目に付くわけにいかないと、キミも判っているはずだ ―― キミが『懐空のことが聞きたくて会っているんでしょう?』って言うから、遠慮もするさ」

と、言い訳する。そんな風空を由紀恵は笑うばかりだ。


「彼は相変わらずよ。新作が終わったばかりだっていうのに、もう次を書き始めてる ―― 少しは休めばいいのにね」

「書きながら次作の構想を練るって聞いた。うらやましい限りだ。わたしにはそんな器用なことはできない」

「風空は筆が遅いらしいものね」

 由紀恵のその言葉には微かに風空も笑む。


「ふく、かぁ……今じゃ、わたしをそう呼ぶのはキミと兄だけになったな」

「お兄さん、お元気?」

「あれ? 兄貴と会ったこと、あったっけ?」

「ないわよ」

またもクスクスと由紀恵が笑う。


「でも、顔は知ってる。やっぱり似てるわよね」

「あぁ、親父が亡くなった時? 社長就任の会見か何かかな? 急死だなんて迷惑な話だ。兄がしっかりしてて良かった」

「おやおや……相変わらずお父様が嫌いなのね」

「キミだって嫌いだろう?」


 そう言いながら、風空が自分の皿からソーセージを由紀恵の皿に移す。つい嬉しそうな顔をした由紀恵を見て風空も微笑む。


「わたしはお父様に感謝してるわよ。お陰であの家が買えたもの」

「キミが手切れ金を受け取ったって聞いても、断固として信じなかったわたしだけが間抜けか」

「間抜けっていうより、世間知らずのおぼっちゃん ―― 年上の女にだまされてお金と引き換えに捨てられたの」


「それが真実?」

クスっと笑う風空に、今度は由紀恵がむくれる番だ。


「お腹に懐空がいるって気が付いてなかったら、受け取らなかったわよ」

その言葉に風空が満足する。妊娠していなければ金なんか受け取らず、きっと黙っていなくなった、由紀恵はそうしていただろうと風空は思う。


「しかし尽々つくづくわたしは親不孝者だね。遊んでばかりで家に帰らずサーフィン三昧、それが収まったかと思うと今度は女だ。やっと別れさせたと思えば、親父の会社に入りもせずに、物書き風情ふぜいになり下がった」

「最後には認めてくださったのでしょう?」


「兄はね ―― うちのことは任せろって言ってくれた。名前の通り自由に生きろってね。でも、親父はどうだろう?」

「遺品を整理したら、あなたの本が揃ってたって言ってたじゃない」

「うん……」


 でも、その本はページをめくった痕跡こんせきがなかった。理解できない世界に住む息子を、認めたくても認められなかったんじゃないか。そう風空は感じていた。


 父は父なりに僕を心配していたのだろう。空を吹く風のように自由に生きて欲しい、そう願って名付けたのは父だと聞いている。


「何を笑っているの?」

 風空の思い出し笑いを由紀恵が見咎みとがめる。


「いやね、あんなに嫌いだった自分の名前が、今はキミに呼ばれると嬉しい。不思議なものだな、と思って」

「あらそう? 名前を呼ぶだけで喜んで貰えるなら、いくらでも呼んであげるわ」


 風空のカップにコーヒーをつぎ足しながら由紀恵が笑う。

「愛実さんだったよね。消息はつかめたのかい?」

「いいえ、まったく……唐突に訊くのね」

で思い出したんだよ。あの子の本に『愛が実ると信じている』とあった。愛実さんを信じているって、彼女に向けたメッセージなんだろうね」

「わたしも思ったわ。懐空は愛実さんを信じて待つつもりだって」


「帰ってくるかな?」

 コーヒーを注ぎ足した自分のカップを由紀恵が手にする。そして少し考え込む。


「判らない ―― わたしはあなたのところへ戻らなかった。でも、戻りたいって何度も思った」

「なぜ戻ってこなかったんだい?」

 判らないの? と由紀恵が小さく笑む。そして、教えてあげない、と澄まし顔になる。まいったな、と風空が苦笑する。


「5年前、彼女が姿を消した時、懐空を持て余したキミは理由も言わずに僕に何とかしろと言った」

風空の言葉に今度は苦笑する由紀恵だ。


「あの時は助かったわ ―― あなたの前から何も言わずに消えたわたしには、懐空に言うべき言葉はないと思ったの」

「それで同じ立場のわたしに頼った? 頼ってくれたのは嬉しいけれど、理由も言わない、家に来るのもダメ、何しろ懐空を助けて、とだけ言う。いったい、わたしにどうしろって言うんだって、途方に暮れたよ」

「でも、ちゃんと会えたじゃない」

「途方に暮れて海を見ていたのさ ―― キミの家の近くに来たはいいものの、どうしようって。まさかあそこにあの子が来るとは思ってなかった。しかもあんな話を聞かされるなんてね」


「ごめんなさい」

「うん? 謝るようなことじゃない」


「ううん、違うの ―― 愛実さんがいなくなった時、わたしはばちが当たったんだと思った。わたしがあなたにした仕打ちが、巡り巡って懐空に降りかかったんだって、そう思ったのよ」


 カップをソーサーにおいて風空が言った。

「それなら懐空は必ず幸せになる ―― わたしは今、幸せだよ」

その言葉に、由紀恵も少しだけ微笑んだ。

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