逡巡~それは人としてどうなのか

@chisyun

第1話





第1話


一、


「やっぱり出来たみたい」女が言った。


御堂筋を淀屋橋から南に向かう途中、少し東に入った路地の喫茶店である。

小さな看板で目立たない上、急な細い階段を降りた地下にある店は、その想像に反して広かった。

しかも、どういうわけかたくさんの客で賑わっていた。

とはいえ、女の声が聞こえない程ではないはずなのに男は黙っている

そこに、忙しそうにしながらも手際よく飲み物が運ばれてきた。

「ブレンドコーヒーの方は?

男が小さく手を挙げた。

やはり聞こえているようだ。


女は特に反応せず、自分の前に置かれる紅茶のスペースをつくるために、水とおしぼりを少し横にずらした。


だが、それも沈黙を破るきっかけにはならなかった。


子どもの頃、秘かに眠れない夜を過ごしたノストラダムスの大予言までの残された時間は1年を切っていたが、いまや男にはそんなことはどうでもよかった。


女は紅茶にスプーン1杯の砂糖と少し多めのミルクを入れ、優しく2、3回かきまわしてからスプーンを置いた。


今まで香ばしかった香りがたちまち柔らかくなったような気がした。


女は紅茶をひとくち飲んでから


「木村さん、大丈夫?」


と、小さな子どもに問いかけるように聞いた。それでもなお男は黙っていた。


その目は冷めかけたホットコーヒーの一点だけを見続けていて、女の目はおろかその姿をも全く見ようとはしなかった。


夕方の4時を過ぎると喫茶店は書き入れの賑わいも一服し少し空席が目立ってきたが、それでもまだ半分以上の席は埋まっているようだった。




二、




淀屋橋から本町と言えば大阪屈指のビジネス街である。


「キタ」と呼ぶ梅田から「ミナミ」の難波という歓楽街を南北に結ぶ御堂筋の中心を為す本町は、昼間人口ならばキタ・ミナミをしのぐ多さだ。


殊に昼食や朝夕の喫茶店はたいそうな賑わいを見せた。


その人口がキタとミナミに大移動を始める夕刻には、本町から人の姿が急激に消えていくのだが、そんな店内においても木村は依然として黙って冷めたコーヒーを見つめていた。


もうすでに2人が向かい合わせに座ってから、かれこれ2時間が過ぎようとしていた。


「木村さん、大丈夫?」


黙って木村を見つめていた女が業を煮やして口を開いた。


すると、いよいよ木村は目を閉じてしまった。無論、返事はしない。


そして、組んでいた足を逆に組み替えたかと思うと、右手人差し指でテーブルをトントンと叩き始めた。


すると、それを見ていた女がおもむろにこう言った。


「私、産むからね。私、絶対に産むからね



苛立ちを隠そうともしない木村の指の動きが、明らかに速くなっているように思われたその瞬間。ついに木村が口を開いた。


「それでお前どないすんねん」


「だから産むって言ってるやん」


「だからそれでどないすんねんって言うてんねや」


「それ、どういう意味?なんで喜んでくれないの」




三、




木村と良子は会社の同僚だった。


知り合ってから1年余りが経っていたが、こうして2人で会うようになったのは半年ぐらい前からだった。


当の2人だけが隠し仰せていると思っていた2人の関係だが、実のところ社内では半ば公然の秘密だった。


ゆえに、2人が目配せをして裏の通路で話をしたり、折り畳んだメモを互いのデスクの上に目立たないように置いたりしていたのはなんとも滑稽なのであった。


実は1ヶ月くらい前に良子から、体の変調が現れていることを木村は聞いていた。


すると1ヶ月くらい前から、木村が良子と距離を取るようになった。


というか、忙しそうな振りをしながら良子を避ける感じがあからさまだったものだから周りが困った。


とりわけ良子に対しては変に気を遣わざるを得なかったのだった。


たしかに仕事は忙しかった木村だが、良子との時間を作る努力はいつも惜しまなかった。元々、人よりも早く会社に来る方だったが、良子との時間を作るために更に1時間も早く出社するようになった。


朝早くから注文書のfaxを整理したりして営業効率を上げようとする姿に、少なからず良子は木村への好意を深めていった。


ただ、一方の周りはその木村の恥ずかしげもない必死振りを見て唖然としていたのだった。のに…である。




「木村さん、みんな結構ざわざわしてるで」


そんな盲目な2人を心配した剛田からそう言われたのはウメチカのとある立呑み屋だった。


木村と剛田は、つい1年ほど前に初めて出会った会社の同僚である。


全く畑違いの他人の2人が中途採用という形でたまたま同じ日に入社したのは、木村がいよいよ三十路に足を踏み入れようかという年の初夏のことだった。


木村よりも2つ年下の剛田は、その風体や物言いからしてかえって木村よりも貫禄を備えた男であった。


しかし、話せば話すほど偶然とも言えるような色々な共通点が、2人の価値観の一致を生んだ。


立呑みという好みもそのひとつだったが、呑んで語り合ううちに急速にその仲は深くなっていったのだった。


だから木村は、剛田にだけは良子のことを打ち明けていたのだった。


「そやけど剛ちゃん、俺みんなになんか迷惑かけてるか?」


もう、その言い方自体が盲目振りを如実に現していた。


「迷惑は掛けてへんけど気ぃは遣わせてると思うで」


剛田は熱い男である。


そのまっすぐな物言いにより、ともすれば自分にとって不利益になることがあっても軸は決してブレなかった。


自己本位くせに他人の目ばかりを気にする優柔不断な木村とは、全く対極のはずがなぜかしら気が合った。


男女だけに限らず人と人との相性というのは果たして妙なものである。


「でも仕事はやってるで。ていうか前よりも必死でやってるつもりなんやけど」


「そんなん分かってるやん。分かってるから言うてんねやんか」


剛田がたしなめるように言うと、木村はほとんど満杯だったビールをジョッキごと一気に呑み干した。


剛田の忠告が耳に入らないでもなかったが、自己本位な自分を自覚しながらも、木村は会社での立ち振る舞いを変えることが出来なかった。


なぜならそれには少し面倒な理由があったからだった。




四、




喫茶店に入ってからぼちぼち3時間が過ぎようとしていた。


木村の前には、運ばれてきたままのコーヒーカップが八分目ぐらいまで並々と琥珀色をたたえていた。


1時間ほど前に一度だけ口を開いたきり、木村は依然として押し黙ったままだった。


何度か“お冷”の取り替えを名目に退店を促していた店員も、半ば諦めて閉店の準備に取りかかるところだった。


実はこの1時間くらいの間にも、良子は何度か木村に話し掛けていた。


しかし、目をつむり唇を真一文字に結んだままの木村は、それには請け合おうとしなかった。


それは理由の如何にかかわらず、全く不誠実な態度に思えた。


当時はそろそろ、ビジネス街の喫茶店でも夜も営業する店が増えてきていたが、この店の閉店は早かった。


ちょうど二毛作、三毛作などという店が流行り始めていた頃で、そんなお店がアルコールタイムに替わる時刻がこの店の閉店時間だった。


それを知っての確信犯なのかは定かではないが、明らかに閉店によるタイムオーバーを狙っている木村の態度は見え見えだった。


そして、それは時代遅れの表現かも知れないが、「男らしさ」がみじんも感じられないものだった。


そんな木村に、幻滅を通り越した失意を抱いていた良子は、おもむろに立ち上がってこう言った。


「もういいよ。私一人でやるから」


ついに木村は目を開けたが言葉が出ない。


(何か言わなアカン)という気持ちとは裏腹に言葉が出なかった。


「このままでは大変なことになる」


「取り返しのつかないことになる」


と心では思っていた。


でも、取り敢えず今をやり過ごしたいという意気地のない気持ちが、言葉を出すことを妨げていたのだった。


良子のことよりも自分が逃げ仰せることだけを考えるという、全くもって卑劣な心に木村は支配されていたのだった。


そんな男にこれ以上の用はないとばかりにきびすを返した良子は、木村のことを振り返ることなく店を出た。


それでも、一組の客も居なくなった店内で丁寧のテーブルを拭く店員に対しては


「長々とすみませんでした」


と精一杯の言葉を絞り出した。


そして、駆けるように階段を上がった良子はそのまま御堂筋に出た。




日の入りまでは今少し時間があったが、立ち並ぶビル群が西日を遮っている御堂筋にはすでに夜の帳が下りようとしていた。


良子は腹立たしかったが、それ以上に情けなくて悔しい気持ちの方が強いように感じていた。


まがりなりにも自分が好きになった男であるなら、やはり向き合って欲しかった。


たとえ「ゴメン、俺には無理や」と泣きを入れるにせよ、ちゃんと気持ちを伝えて欲しかったのだった。


たしかに十中八九、ここ最近の避けて逃げる姿からは難しいんだろうなとは思っていた。


それでも誘いに応じて喫茶店に来たことで淡い期待を持っていたのだが、それが見事に裏切られた。


というか、さらに失望させられたのだった。




それでも、良子は簡単には泣かない女だった。


大学進学のために四国から関西に出てきたのはかれこれ10年前のことになる。


一時期、訳あって故郷に帰っていたこともあったが2年ほど前に再び関西に舞い戻っていた。


御堂筋の銀杏並木が黄金色に染まるまでにはまだ少し季節の巡りが必要だったが、枝の先っぽの葉っぱはそろそろ色づき始めていた。ちょうど散歩をするのには気持ちの良い時候なのだが、今の良子がそんな気分であるはずはなかった。


ただ別の意味で、さっきの木村との無為な時間が良子を歩きたいような気分にさせていた。


だから、本来なら淀屋橋駅から地下鉄で梅田駅まで行き阪急電車に乗り換えるといういつもの帰り道を外れた。




大阪は、しばしば「水の都」と呼ばれたりした。


大阪市内中心部のこの辺りでは、旧淀川である大川から分かれた堂島川と土佐堀川が並行して流れており中洲を形成していた。


その中洲は中之島と呼ばれ、数多くの散歩人が行き交う公園や遊歩道が整備されていた。


良子は淀屋橋を渡り切った橋のたもとから東向きに中之島に入った。


少し広くなっているところから川べりの方に歩くと堂島川沿いに遊歩道があり、左前方に視線を送ると中之島公会堂が見えた。


さらに日は傾いて街灯には灯がともり始めていた。




良子が立ち去ってからも木村はまだ座っていた。


すでに閉店時間を迎えた店内で木村に注がれる視線はますます厳しさを増していた。


ついぞ3時間にわたり、コーヒーに口さえもつけずに居座った。


あまつさえ楽しそうなカップルならまだしも、さすがに気の長そうな店主もしびれを切らした体で木村に声を掛けた。


「お客さん、そろそろお願い出来ますか」


ハッとして木村は店主の顔を見た。


すると、少し微笑んでいるように見えたその顔には憐れみの表情がありありと浮かんでいたのだった。


子供の頃から「ありがとう」「ごめんなさい」の言える大人になるように努めてきたつもりの木村だったが、店主の2度目の声掛けに「ごちそうさま」さえも言えずに無言で立ち上がった。


まだ良子が店を出てからそれほど時間は経っていなかったが、暮れ始めた斜陽は瞬く間に落日の様相を呈していた。




良子と同じように御堂筋に出た木村は、そのまま淀屋橋に向かうのか迷っていた。


あのとき、良子を追い掛けるべきかどうか、もちろん考えないわけではなかった。


でも、自分の中に事態を好転させるような気概も材料も持ち合わせていなかったので、よしんば良子を追い掛けても話をする自信がなかったのだった。


昨日、「喫茶店で待ってるから来て欲しい」


と書いた良子からのメモを机上に見つけたときも逡巡した。


どう考えても良子だけの問題ではないはずなのに、というよりもむしろ自分の責任の方が大きいことは客観的には分かっていたのに、自分をなんとか正当化しようとばかり考えていた。


それは裏を返せば良子に対する侮辱や裏切りに他ならないことなのに、この現実からただ目を背けたかったのだった。


しかし時間が解決してくれるはずもなく、徒に時を過ごすことが事態をさらに深刻にしていくのも分かっていた。


なのに、木村はそれでも逃避していた。




御堂筋に出たところでどちらに向かうのか、木村はまだ迷っていた。


仕事は忙しかったので会社に帰ればやることは山のようにあったが迷っていた。


この優柔不断というか、決めきれないところが本当に男らしくないと、当の木村以外は誰もがそう思っていた。




その頃、会社は本町にあった。


本町という地名は全国の至るところで見かけるが、大阪の本町はビジネスの中心街である。


御堂筋はもとより、交差する本町通と中央大通が東西に延びる交通の要所でもあった。


また、その道路と並行して、御堂筋線と中央線という地下鉄が走っておりまさに至便な場所なのである。


ちなみに淀屋橋から本町までは地下鉄で一駅だが、季節の良い今頃ならば歩いていくのにもちょうど快適な距離だった。


会社に戻るには左に向かうべきなのだが、木村は迷った挙げ句に右を選んだ。


だが、こんな早い時間に家に帰ることなどなかったから、結局は目的もなく歩き始めた。


そして淀屋橋の上で欄干にもたれかけながら、土佐堀川の川面をぼんやり見ていた。


左右のビルの窓から洩れる灯りと看板のきらびやかな光が川面を照らしていた。


そのちょっと先で同じ川面を良子が見つめているなどとは、よもや木村が知る由はなかった。


自分が引き起こしている事実と、自分の置かれている立場と、自分が取った行動について、頭で分かってはいたが現実と認めたくなかった。


それなのに、昔に流行った永ちゃんの”時間よ止まれ“をまるで他人事のように口ずさんでいた、そのとき…


「飛び込んだらアカンで」


という声が後ろから聞こえた。




五、




大阪環状線の高架下の立ち呑み屋は、2人が入るのがやっとなほどに盛況だった。


淀屋橋の欄干から木村を引きはがした剛田は、そのまま京阪電車で京橋まで連れて行った。


京阪電車は、関西大手私鉄5社の中では恐らくいちばんマイナーな電車と思われた。


だから全国的な知名度においてはそれは殊更だった。


それには、阪神、阪急、南海、近鉄という他の4社と違い、プロ野球球団を持ったことがなかったという明確な理由があった。


にせよ、言わずもがな商売にとって知名度が高いに越したことがないのは言うまでもなかった。


然るに、当時の京阪電車沿線にはちょっと渋めの店が立ち並ぶ駅が多く、その代表格がこの京橋駅だった。


京阪電車の京橋駅からJR環状線まではわずか30メートルほどなので、殆どつながっている感じである。


そしてJRの改札口を右手に通り過ごした先には、立ち呑み屋が軒を並べるアーケード商店街があった。


ちなみに淀屋橋駅から京橋駅までは3駅で5、6分ほどだが、その間、木村は全く口を利かなかった。


なぜなら、ここ最近の良子とのことは剛田にもまだ相談出来ずにいたからだった。


でも、剛田の忠告も耳に入らないほど会社で盲目な振る舞いをしていた木村が、ここ1ヶ月くらい良子に対しよそよそしい態度を取っていることは剛田には十分に分かっていた。




立ち呑み屋の、まさに肩と肩とがぶつかるような入り口近くのカウンターに立ち剛田が話し掛けた。


「木村さん、どないしたん?えらい顔して」


まさか喫茶店の延長ではあるまいが、歌を忘れたカナリアの如く木村の口からは言葉が出てこなかった。


「ま、飲もや。ほな気ぃも楽になるわ」


木村は頷いて左手に持ったジョッキを一気に飲み干した。


しかし、何という偶然であろうか。


よもや川に飛び込むつもりはなかったが、ちょうどその場に出くわすとは何という巡り合わせなのか。


改めて木村は剛田に深くて強い因縁を感じざるを得なかった。


「良ちゃんと何かあったん?」


木村は目をつむりうつむくように頷いた。


「大将!酒2丁もらえる?」剛田が優しく叫んだ。


「冷やでええんかな」と言いながら、こちらの返事聞く前に大将はコップ酒を2つ差し出した。


「木村さん、話して楽になるんやったら聞くで」




ちょうど木村と剛田が入社してから半年が過ぎた頃、良子が同僚になった。


たまたま剛田と良子は同い年だった。


だから、木村よりもむしろ剛田の方が良子とはよく話し、波長が合っているように見えた。


そんなこともあり、剛田は木村のことはもとよりこのところの良子の様子も気になっていたのだった。


それがよりによって、さっきの“淀屋橋欄干事件”である。放っておけないのは当然の成り行きであった。


「剛ちゃん、俺もうアカンわ」


「アカンわ、って何がアカンの?」


剛田はオウム返しに聞いた。


なぜならそれは、こんな場合にはオウム返しが相手が一番話しやすい聞き方だということを剛田が知っていたからだった。


木村は冷やをグッと一口飲んで目を開けた。「良子から言われてん」


「良ちゃんから何言われたん?」


やはりここもオウム返しである。


「やっぱり出来たみたいや」と。


「やっぱり…」ここ最近の2人の様子を見ていた剛田は、それが恐らくのっぴきならないことだろうと踏んでいたから合点がいった。


だから実は大きな驚きはなかった。


木村はグッともう一口コップ酒をあおって絞り出すように言った。


「あいつ、「私、絶対産むからね」って言いよんねん」


「ほんで木村さんはどない言うたん?」


「何も言われへんかってん」


「それはちょっと重い話やな」


それから木村は今日の喫茶店のことや、ここ最近の自分の卑怯な立ち振る舞いについて、とつとつと話し始めた。


しかしその説明にさえも、たくさんの自己正当化が随所に散りばめられていた。


さて前述の通り、剛田は熱い男である。


その真っ直ぐ過ぎる物言いにより、ともすれば自分にとって不利益になることがあっても軸はブレなかった。


「木村さん、やっぱり逃げたらアカンのちゃうかな」


「うん」


「一番しんどいのは良ちゃんやと思うで」


「うん」


「どないするにしても真っ正面から向き合わな」


「うん」


熱く語る剛田に対し心ここにあらず、生返事の木村である。


2人はそれから暫く黙って飲んでいたが、その心中は恐らく対極にあったと思われた。


それでも剛田は、到底彼らしくない我慢に我慢を重ねた上に、今にも突き放したいと思う気持ちを抑えて木村に言った。


「ほな、僕も入るから3人で話そか」


無論、剛田は木村の口から『いや俺がやる』という言葉を引き出そうと敢えて水を向けたわけであったが、


「剛ちゃん、俺どないしたらええのか分からんねん」


木村の口をついたまるで子供のような言葉には、さしもの剛田も耳を疑った。


だから、その子供を諭すように剛田はゆるりと言った。


「あんなぁ木村さん、格好つけとる場合ちゃうねん」


木村はカウンターの中に視線をやったまま、隣の剛田の顔を見ることが出来ずにいた。


「その「俺どないしたらええのか分からんねん」っていうのを良ちゃんに正直に言うべきちゃうか」


そしてそのとき、どて焼きが出てきた。




関東ではモツ煮が定番だが大阪の主役はどて焼きである。


ちなみに、鉄鍋の内回りに土手のように味噌を盛り、中央で具材を焼きながら溶け出す味噌で煮込んでいくことからその名が付いたらしい。


場所によっては、どて煮というところもあるそうだ。


おでんにせよ、うどんにせよ、ダシの利いた薄目の味つけが持ち味の大阪において、このどて焼きは珍しく甘めの濃い味が好まれた。


それはまるで、濃い味を好む関東におけるモツ煮との逆転現象のようだった。




そのどて焼きに手を伸ばすこともなくコップ酒を煽って木村は言った。


「剛ちゃん、そんなん言うたら愛想尽かされるんちゃうか」


「そんなことないって。良ちゃんは木村さんのホンマの気持ちを聞きたいと思ってると思うで」


「せやけど言えるかな…今日かて茶店で3時間なんもしゃべられへんかったし」


「木村さん、そこは男出さなアカンで」


そう言いながら剛田はドテを木村の前にずらして食べるようにすすめた。


そしてもう一言を継いだ。


「良ちゃんっていう可愛らしい女の子が一人でヒザ抱えて悩んでるんやで。木村さんも頑張って本気見せたりいな」


木村はドテに箸を伸ばしコップ酒を飲み干した。


ドテの深い味わいが心に沁み胸が熱くなった。


だが、泣きたいのは良子の方だと思い涙をグッと飲み込んだ。


時が解決してくれるものでないのは、さすがの木村にも分かっていた。


いや、むしろ時が経てば経つほど逃げ場がなくなっていくことはもはや明白であった。


「剛ちゃん、おおきに」


ここまで諭され背中を押され、ようやくはっきりと言葉を発した木村だった。




帰り道に京阪電車を使う木村とは違い、剛田は環状線だったのでJRの改札のところで握手をして別れた。


何の自慢にもならないが、酒はそこそこイケるクチの木村にとって、まだホロ酔い程度だった。


剛田に勇気づけられてもなお、気持ちが決まらない木村だったがまっすぐ帰ることにした。


JRから30メートルも歩けば京阪電車の改札がある。


木村は結構たしかな足取りで改札を抜け、長いエスカレーターの先の京都方面のホームに向かった。




京阪電車とは、文字通り京都と大阪を結ぶ路線である。


前述の通り、関西大手私鉄5社の中では知名度が最も低いと思われる京阪電車だが、実はその歴史は大手私鉄5社の中で最も古く深い。




琵琶湖から流れ出る唯一の河川である淀川は、滋賀、京都、そして大阪を経て大阪湾に注ぐ。


時は遡って明治の初め、その淀川の右岸(西側)に敷設された官営鉄道だが、運賃が高かったため当時の賃客輸送の主力は淀川の蒸気船であったらしい。


そこで左岸の京街道沿いに電気鉄道を建設しようという計画が、実業家グループによって持ち上がった。


そうして、京都と大阪を結ぶ電気鉄道として誕生したのが京阪電車だった。


ちなみにその実業家グループの発起人には、かの渋沢栄一も名を連ねていたそうである。


その後、時代を経て誕生する他の私鉄大手4社の源流が、全て京阪電鉄であるということは、今となっては余り知る人の少ない事実なのかも知れなかった。




木村の自宅はその京阪沿線の枚方市というところだった。


戦後まもなく市制施行され、昭和の高度経済成長と歩を合わせるように発展の途をたどった沿線随一の中核都市である。


昭和33年に、当時としては“アジアNo.1のマンモス団地”ともてはやされた香里団地が建設され、いわゆるドーナツ化現象の典型となった。


香里団地の入居が始まるやいなや、市制施行時には4万人だった人口がたちまち10万人を超えた。


すると、その後も10年ごとに10万人が増加するという驚異的なペースで40万人を超えるまでに人口が拡大し、一大ベッドタウンとなったのだった。


その枚方市は、大阪の北端にあり京都と奈良に府県境を持つが、大阪と京都を結ぶ京阪電鉄本線ではほぼ中間に位置していた。


そのため居住だけに留まらず商業や観光の便にも優れており、江戸時代に宿場町であったことも含め交通の要衝としての歴史は古い。ちなみに今夜の帰途となった京橋駅から木村の自宅の最寄駅までは、急行電車を使えばおよそ20分程度の距離感であった。




最寄駅から歩いて5分程のところにあるマンションが木村の自宅だが、まずは駅のトイレで身だしなみを整えた。


いや実は、身だしなみを整えるというよりも顔色を確かめる必要があったのだった。


酔いがほとんど顔に出ないタイプの木村ではあるが、酒を飲んで帰ったことを悟られてはならない事情があった。


木村は冷たい水で顔を洗った上で、さらに念入りにうがいをして口をゆすいだ。


そして、さっき電車から一斉に降りた乗客がすっかり姿を消した頃、改札を抜けて家路についた。


そのマンションはつい2年前に新築された分譲物件だったが、竣工と共に木村は入居した。


それまで転勤もあったが、関東や東海で転居を繰り返していた木村が初めて買った家だった。


エレベーターを3階で降りて左へ行く。


そのままいちばん奥まで進んだ端の部屋の前に着くと木村はチャイムを鳴らした。


すると玄関の灯りがつき鍵が開いた。


「ただいま」と言いながら木村がドアを開けると「おかえり」と木村の妻が迎えたのだった。




六、




「今日は早かったね」


「うん、得意先から直帰したから」


そう言って酒の匂いを悟られないよう、すぐに服を脱ぎシャワーを浴びようと風呂場に向かった。


そうすれば大抵の酒の痕跡は消せるというのが、木村のいつもの算段だった。


木村の妻は束縛の強い女だった。


そして人一倍猜疑心が強く、いつも木村の行動をチェックしているのだった。


と、木村は自分のことを棚に上げて被害者意識を持っていた。


『小心者のええ格好しい』のくせに木村は自意識だけは高かった。


然るに自らの愚行を恥ずかしげもなく自己正当化するクセがあった。


常に困難や障害からは逃げ、問題を先送りするだけではなく、それをいつも人や環境のせいにした。


その結果、行き着いたところが、今直面している状況であったが、やはりそこからも逃げてしまおうとしていた。


でもそれは先送りしようとも、時が解決してくれないことを頭では分かっているのに、であった。


だから家にも帰りたくなかったし、それこそ今も風呂場から出たくなかった。


そしてまたもや、このまま時が止まって欲しいと無責任に思うばかりであった。


にもかかわらず、昔からの“カラスの行水”である木村は、皮肉にも僅か10分ほどでシャワーを終えてしまった。


剛田と酌み交わした酒の量は決して少ないものではなかったが、これから飲み直さなければならなかった。


いや、妻の手前では今から晩酌を始める体裁にする必要があったのだった。




七、




淀屋橋から土佐堀川沿いを北浜に向かって歩くと天神橋が見えてくる。


天神祭で街が一色になる夏には、川一面に屋形船が敷きつめられる。


天神祭とは、もともと天満宮の祭神である菅原道真の命日にちなんだ縁日で日本各地の神社で催される祭りらしいが、中でも特に有名な大阪天神祭がその代名詞となっていった。


それは毎年6月下旬から約1ヶ月に亘り行われ、7月25日の船渡御と盛大な打ち上げ花火でクライマックスを迎えるのだった。


そんなことがまるで想像出来ないような静寂な橋の下で、良子は水面に映るネオンをぼんやりと眺めて佇んでいた。


あれからもう小一時間が過ぎようとしていたが、どうしても家に帰る気にはなれなかった。


「自分でやるから」と木村には言ったものの、それにはほとんど思慮も根拠もなかった。あるのは不安だけだった。




木村に家庭があることは最初から分かっていた。


それでありながら選んだのは自分自身だった。だから何のせいでも誰のせいでもなく、それは自分の責任だと思っていた。


しかしただ、木村とは連帯責任のはずだった。そのはずだったのに、あの木村の態度にはさすがに我慢がならなかった。


それで思わず強がってみせた良子だったが、この先、何をどうしていいのか分からないというのが実際なのだった。


「やっぱり私のやっていることはバカなことなのかな」


良子は簡単に泣かない女だったが、川べりで一人風に吹かれている自分の姿を考えると、さすがに辛くなった。


故郷の両親の顔も水面に浮かんだ。




その頃は、まだ誰もが携帯電話を持っている時代ではなかった。


だからメールなどはおろか、直接連絡を取る手段と言えば固定電話が専らだった。


良子の部屋にも固定電話はあったが、ただ木村から電話が掛かってきたことはこれまで一度もなかった。


木村からは、よく家庭での束縛ぶりについて聞かされていた。


真偽のほど、というかその程度は分からないものの、そうなのだろうとは思っていた。


事実、木村と良子が会うことにも相当な制約があったのも確かだったので、その夜もこれからも、木村からの電話は期待出来ないだろうと半ば諦めていた。


そうして途方に暮れる良子だったが「産む」ということについては全く迷いはなかった。


こんな状況の中でも自分の中に宿った生命、授かった新たな生命に対する愛おしさは揺るぎないものだった。


それは、あたかも良子が新しい一歩を踏み出すために、神様が与えてくれた贈り物のように思えてならなかった。




八、




良子は四国の中北部、つまり北側のど真ん中あたりに位置する新居浜市というところで生まれ育った。


瀬戸内海に面する一方、南側に四国山脈を背にしている新居浜市は比較的温暖なところである。


四国山脈を代表する石鎚山は西日本最高峰であり、その麓には古代より人口の集積があったとされる。


大宝律令にもその存在を示す記述が残されているらしい。


海と山とに挟まれているというと、てっきり自然に囲まれた風光明媚なイメージが想像されるが、新居浜市はそれに反し工業都市としての発展を遂げていた。


その歴史は江戸時代まで遡り、市内南部の別子という山から銅が産出したことに端を発する。


その後、“別子銅山”が開抗されたことが礎となり、その繁栄と共に瀬戸内有数の工業都市となったのだった。


そうして「工都新居浜」と称されたその町は、別子銅山をはじめとした発展をけん引した住友グループの企業城下町として有名となった。


良子はその町で、幼少期から少女時代を特に不自由なく過ごした。


たしかに特に不自由はなかったのだが、ただちょっと普通の家庭とは違うところがあった。


良子の父親は、当地では知る人も多い会社の社長だった。


市内中心部に社屋を構えるその会社は、良子の父親が戦後のヤミ市から身を興し20代の半ばで立ち上げたものだった。


のちに「ワシは三十で会社を軌道に乗せた」と豪語するその父は、まさにひとかどの人物であった。


さらに五十の頃には、四国ではわずか3社しかないという特約店にまで会社を育てた。


そして齢喜寿を迎えてもなお、元旦の朝風呂で乾布摩擦をしながら「今年もやるゾ!」と大声を張り上げる豪傑オヤジは、ゆえにその生き方もまた豪傑であった。


しかし物心ついてきた良子は、どうも友達の家の父親と少し違うと感じ始めていた。


それは週末の晩ごはんの時間のことだった。


良子の父親は勤め人とは違い、決まった時間に出掛け決まった時間に帰るという生活ではなかった。だから父親が普段から家に居たり居なかったりするのは慣れっこだった。


しかし週末の晩ごはんのときには、決して家に居ることがなかった。


ただ、まだ幼かった良子が詳しい事情を知るすべは母親に尋ねるしかなかった。


「お父さんはどこに行ってるの?」


と聞く良子に対し「さあね」としか母親は答えなかった。


そしてその時の母親は決まって浮かない顔をしたのだった。


だからいつの頃からか良子も聞くのをやめたが、小学校の半ば頃にその事実を母親から聞かされた。


それは、やはりある日曜日の晩ごはんのときだった。


網戸の向こうに虫の鳴く声が聞こえ始めていた記憶があるので、季節は晩夏だったのだろうか。


茶の間のテレビからはドラマの音が流れていた。


「良子ちゃんにはね、お姉ちゃんが2人居るんよ」


と、おかずのコロッケをテーブルに置きながら母親が言った。


「えっ、お姉ちゃんが居るってどういうこと?」


「良子には言ってなかったけど実はお父さんには子供があと2人居るんよ」


「じゃあ、何で一緒に住んでないの?」


小学校の良子にはそれが何のことか皆目分からなかった。


ただ、週末の晩ごはんの時に父親がいない理由がこれなんだということだけは、何故か直感したのだった。


良子の父親にはもう一つの家庭があった。


というよりもむしろ、元々の家庭があったという方が話は分かりやすかった。


しかし、いかな豪傑の父親でもさすがに法律には敵わなかったのか、はたまた本妻との交渉が不調法に終わったのか定かではないが、2つの家を行き来することになったらしい。


それでも良子は特に不自由もなく少女時代をその町で暮らした。


豪傑な父親は子育てにも厳しかった。


もしかしたら、自分がそんな境遇に恵まれなかったためか、とりわけ勉強には人一倍うるさかった。


ただ幸いにも良子は勉強の好きな子供だったから、逆にその環境は喜ぶべきものだった。


その甲斐もあってか地元では進学校と言われる高校を卒業した良子は、ついに故郷を離れ関西で一人暮らしを始めるのだった。


しかし、その幼少期の体験が母親との絆を人よりも強くしたのは必然だったかも知れなかった。




一方、地元の学校を出た木村は就職により大阪を離れた。


その間に転勤や転職も経験したが、三十を前にして大阪へ舞い戻った。


しかも何の因果か、生まれ故郷の近くに住むことになったのだった。




思い起こせば、この地には木村が1歳の頃に移り住んだから、生まれ故郷と言っても差し支えないだろう。


両親と2つ年上の兄とともに、当時のアジアNO1を標榜していた香里(こうり)団地に、幸運にも入居出来たのだった。


それは東京オリンピックが終わり、大阪万博へ向かう高度経済成長の真っ只中であった。


少し蛇足になるが、当時を偲ばせるものの一つに「文化⚫⚫」というものがあった。


文化包丁、文化鍋、文化干しなどが一般的であるが、ちょっと珍しいところでは文化揚げなどというのもあり、それらはまさに昭和の風景を鮮やかに蘇らせてくれるものだった。


そしてさらには、近畿地方における代表的なものに文化住宅というのがあった。


主に木造モルタル2階建ての長屋造りで、風呂無しのアパートのことを指す。


ただ、それまでの長屋や下宿屋などが台所や便所を共用していたのに対し、風呂以外が各部屋に配備された。


これが大いに文化的だという理由で「文化住宅」と呼ばれたらしい。


さて、そんな文化住宅に住んでいた木村一家は難関をくぐり抜け見事、香里団地の入居抽選に当選したのだった。


その時のことを「雲に乗ったような気分になり大喜びした」と両親から木村は何度も聞かされた。


なぜなら香里団地には、各戸に風呂があったのだ。しかも、それはガス焚きだった。




ちょっと脱線したので話を戻そう。


さておき、若い頃の木村の父親はたいがい働かない男だったらしい。


小さい頃、木村は母親から「雨が三粒降ったら仕事に行かない」とよく聞かされたものだった。


そんな木村の父親は小学生のときに戦争で父親を亡くし、生まれ故郷の佐賀から母親の親戚が居る高知に流れた。


それも中学校に入ったばかりの時分に、たった独りで行かされたそうだ。


一昼夜半も汽車を乗り継いだが途中眠ってしまい、ようやくのことで高知に着いたときには靴も盗られて裸足だったらしい。


高知でも当然のように家は貧しく、中学校もろくすっぽ通うことが出来なかった。


やむなく彼は生計を立てるために、15歳でマグロ船に乗り遠洋にも出たそうだ。


でもそんな折、母親の再婚話が持ち上がり、彼は学校へ行かせてもらえるものと密かに喜んだ。


しかし実際に起こったのは、さらに彼に追い打ちをかける信じられないような出来事だった。


再婚相手の手前、母親は彼の弟だけを連れていき、彼は母親の弟として戸籍まで変えられてしまったのだ。


あろうことか、唯一の拠り所である母親から見捨てられたのだった。


そうして進学などはおろか、生きていくために働かなければならなかった彼は、マグロ船にさらに乗り続けた。


やがて18歳のとき、彼は大阪に出て働き始めることになったのだった。


「金も無ければ学も無い。あるのは若さと鍛えた肉体だけ」とくれば、選ぶ道はおのずと決まった。


慣れない土地だが日雇いの力仕事や運送屋の助手など、戦後復興の景気のさなか仕事には困らなかった。


何とか日々を暮らす中、運良く大型免許を取ることが出来た彼は、トラックや生コンのミキサー車に乗る仕事にありついた。


しかしその業界には荒くれ者が多く、悪い遊びばかりを覚えてしまったのが運のツキだった。


競馬、競輪、競艇とギャンブルならば何でもござれ。


金が入れば全て賭け事に注ぎ込み、無くなれば日当仕事に出向いた。


そしてまたギャンブルにのめり込んだのだった。




そんなことなど知ってか知らずか、親の付き合いもあり木村の母親はこの父親と一緒になったのだった。


とはいえ、木村の母親の方もまた、中学校をまともに出ていなかった。


高知の僻地に生まれた木村の母親は生まれつきの難病だった。


それが昭和の初め、戦中戦後のことであるから尚更で、田舎の医者では到底手に負えずサジを投げられたそうだ。


しかし当時、手広く材木商を営んでいた父親の羽振りが良かったことが幸いした。


父親も母親もこの娘を「絶対死なせてなるものか」と糸目をつけずに治療させたお陰で生き永らえたらしい。


それでも、そのままでは先の保証がなかった彼女は、中学校2年の時に姉と2人で船に揺られて大阪まで行った。


大手術を受けるためだった。


それは、阪大病院始まって以来2例目という難病で、左の肺を犠牲にしたものの、何とか一命は取り留めたのだった。


しかし145センチの体の小さな背中には、まるで刀傷のような深い傷跡が30センチにも及んだらしい。


それでも、その頃たまたま彼女の叔母が阪大病院の看護婦長だったことも、少なからず彼女の運命に味方したかも知れなかった。


そうして生きることを許された彼女だが、普通の生活を送るまでにはやはり時間を要した。無論、進学も叶わず、少しずつ家事などを手伝いながらしばらくの間は療養するしかなかった。


さらに医者からは酷な宣告も受けた。


この先、出産はおろか背中に刀傷を背負って結婚など、夢のまた夢というほかなかった。


それでも、普通の幸せを夢見て懸命に生きる彼女を、神様は決して見捨てなかった。


そうして木村の母親が父親と一緒になったのは、ちょうど二十歳の春のことだった。


2人は子供は産めないことを承知で一緒になったものの、望みを捨てたくなかったのは言うまでもなかった。


その奇跡を信じる気持ちが天に通じたのか、結婚2年目に木村の兄が産まれた。そしてその2年後に木村が産まれ、男2人の子宝を授かったのだった。


さあ、ここから幸せな家庭生活が始まるはずだった。が、そうは問屋が卸さなかった。


それまでは、比較的休まずに仕事をしていた父親だったが、木村が産まれる頃から悪い虫が騒ぎ始めていた。


実は、木村を出産するその日まで働きに出ていた木村の母親を尻目に、すでにギャンブルに手を出していたのだ。


すると再び“三粒の雨”でも仕事に行かなくなった。


にもかかわらず、ギャンブルには足繁く通った。


そして、いよいよタンスを空にしてまでバクチの金を作るようになっていった。




その当時、木村たちは母方の祖父の近くに住んでいた。


木村の祖父は高知の片田舎とはいえ材木商として財を成していた人だった。


しかし、その人の良さにつけ込まれ保証人になったことが仇となり、故郷を追われ大阪に出て来ていた。


その結果、怪我の功名でもあるまいが、木村たちは母親の里の両親やきょうだいとも近くに住んでいた。


そしてそれは木村の母親にとっては、とても心強い救いだった。


しかし木村の父親の所業はギャンブル狂いだけには留まらなかった。


いわゆる“かんしゃく持ち”というやつで、気に入らないことがあるといつでも所構わず怒鳴り暴れた。


恵まれなかった幼少から少年時代での辛かった境遇が、彼の人間形成に少なからず影響していたと思われた。


愛情を受けずに育った彼は、逆に他者への愛情表現も分からず、感情を制御出来ないのかも知れなかった。


それにしても、父親の母親に対する当たりはいつも激しかった。


いやもっと言うと、溢れんばかりの愛情を注いできた母の家族に対する対抗心は異常なまでだった。


嫉妬と言っても違う、憎悪とも違う。


湧き出すほどの羨望を決して認めたくないという感情が、無意識のうちに彼を支配していたのだと思われた。


それにしても、彼はたびたび木村の母親に向かって怒鳴り散らし、物を投げたり壊したりした。


そして、ひどいときには母は追い出されて実家に帰った。


しかし父にはそれがまた気に入らなかった。


つまり、すぐに帰れるところがあるというのがまた気に入らないのだった。


木村と兄が小さい頃は母は子供2人を連れていったが、小学校高学年になると母は1人で家を出た。


それでも大体、数日後には伯父伯母に連れられて、母は家に帰ってきた。そして、説得というか懐柔された父親と暫くはぎこちないながらも日常に戻っていく。


そんなことが繰り返された幼少時代は、木村に忌まわしい記憶を植えつけ、父への怖れとともに、感情を余り表に出さないクセが自ずとついてしまっていた。




そうして、木村は自己顕示欲は強いくせに、人と上手く交われない少年時代を送るようになっていった。


無論、異性への興味も人一倍あった。


話もしたいし遊びたいとも思っていた。


しかし、その相容れない性格が邪魔をして逆の行動を取ってしまうのだった。


次第に周囲からは“冷めた変わり者”という風に見られ、友達は多い方ではなかった。


年頃にはありがちな自分を大きく見せたいがために虚勢を張り、悪ぶって見せたこともあった。


でもその実、父親への怖れはいつも深層にあった。


しかも自分が原因で母親を苦労させたくはないという気持ちがあり、中途半端なことばかりしていた。


中学生の時、ちょっとした悪さで母親と共に学校に呼び出されたことがあった。


すると案の定、木村をかばう母に「お前の育て方が悪い」と暴れる父だった。


でも木村は、その父に対し何も出来なかった。


さらに情けないことに出来るだけ距離を置こうとした。


つまりそれは、逃げているだけに他ならないのに、父親との関わりを避けようとした。


だからその一方で、母親を慕う気持ちの方はどんどん募っていった。


自分自身が意気地のない卑怯者であることは棚に上げ、抑圧されているのは父のせいだと自己正当化していた木村は、自由が欲しいと思っていた。


しかしそれは、自由などという崇高なものではなく、単なる自分勝手な欲求なのであった。




敢えて言うまでもないが、勉強はまさか得意でも好きでもなかった。


だから深い意味もなく、地元集中で何とか引っかかった高校を出たら働くつもりでいた。


それなのに、全く意図もしていなかった大学進学は、中学校もろくに通えなかった両親の思いにより実現した。


そしてそれは、すでに社会に出ていた兄の経済的な助け無くしては叶わないものでもあった。


にもかかわらず、木村は自分勝手な欲求を最優先にして怠惰で無為な時間を過ごしていた。


そんな不純な輩が、この先ロクでもないものにしか出会えないのは、やはり世の道理なのだった。




十、




天神橋の下に映る水面をどれくらい眺めていたのだろうか。


周りはとっぷりと暮れなずみ、大阪屈指のビジネス街も昼とは違う顔を見せる時刻になっていた。


良子は来た道を戻ろうとはせず、橋のたもとの階段を昇り天神橋に上がった。


さっきは目の前にあった水面が橋の上からは少し小さく見えた。


代わりにネオンがその全貌を川面に映し出されているのをとても美しいと思った。


(さあ、果たしてこれからどうしようか…)


行くあてもない不安にさいなまれた良子だったが、よもや天神橋の欄干を乗り越えようなどとは露ほども考えなかった。


しかし、気分が吹っ切れたわけでも、まさかこれからの解決策が思い浮かんだわけでもなかった。


それでも秋の夜風が足元を少しかじかませてきたので、良子は駅に向かって歩き出した。




ここからの最寄り駅は地下鉄の北浜駅だった。


ただ、北浜から堺筋線で梅田に出るには乗り換えが必要だった。


かといって、淀屋橋に戻るのはやはり嫌な気がしたので、逆に一駅先の天満橋駅まで歩くことにした。


なぜなら、天満橋から梅田までは地下鉄谷町線に乗れば乗り換えせずに5分で行けるからだった。




ところで、その地では名物と思われているものが、世間では意外に知られていないことは往々にしてありがちである。


だから、大阪市内の道が「筋」と「通」に分かれていることなども、その多聞に漏れないのだろうと思われた。


ちなみに大阪市内では、南北に走る道を「筋」と言い、一方の東西を「通」と呼ぶのである。


中でも御堂筋は南北を貫く大阪市内で最も有名な道だが、それと淀屋橋で交差する土佐堀通を良子は西に歩いていた。


そして、天神橋が架かる堺筋を渡りさらに西に進むと天満橋駅がある谷町筋に当たるという寸法である。


さて、堺筋から谷町筋はさほど距離はなく、小柄な良子の足でも10分と掛からずに天満橋駅に着いた。


ここから良子の家へは梅田駅で阪急電車に乗り換えなければならなかった。




話のついでで恐縮だが、実はこの梅田という駅は一筋縄ではいかない手強い駅なのである。


というのも、ひとくちに梅田と言ってもJR、私鉄、地下鉄とたくさんの電車が乗り入れているのだが、なんとそのどれもが駅名が違うのだ。


そしてさらに、梅田の地下街は日本一の広さを誇る迷路のような街だ。


当の関西人でも、案内板を頼りにしなければ目的地には容易に辿り着けないほどの地下街である。


それがその上、JRは大阪駅、私鉄は梅田駅と呼び、地下鉄はさらに梅田駅、東梅田駅、西梅田駅の3つに分かれた。


この難解極まりない厄介さが、梅田が一筋縄ではいかないと言われる所以だった。




さて、良子が乗った谷町線が着いたのは、その中の東梅田という駅だった。


良子がそこまで知っていたのかは定かでないが、東梅田駅から阪急梅田駅までの距離は比較的近かったので乗り換えは楽だった。


今はどうなっているのかは知らないが、かつて阪急梅田駅の手前は待ち合わせのメッカだった。


そのメッカ『ビッグマン』の横を通り過ぎ、長い長いエスカレーターを昇ったところが阪急電車の乗り場だった。




阪急電車は実質的な創業者の小林一三によって明治の終わり頃に整備された。


小林一三は電鉄のみならず宝塚歌劇団や阪急ブレーブスの創設など多角経営を行った偉人である。


一三は、現在では当たり前になった、


「鉄道会社が沿線開発を行って自らの鉄道需要を創出する」


というビジネスモデルの基礎を作ったことでも有名である。


さらに言うとその際、沿線住宅をサラリーマンでも購入出来るよう日本で初めて割賦方式、今で言う住宅ローンを活用して分譲を行い成功を収めた。


また、梅田に駅直結の百貨店を作るなど新しい事業を創造したという。




ところで、良子の家はそんな阪急電車で梅田駅から約10分ほどの園田というところにあった。


良子は阪急電車のシンボルカラーである「あずき色」の電車に乗り帰途に着いた。


電車は梅田駅を出て淀川に架かる十三大橋を渡る。そしてさらに大阪と兵庫の県境である神崎川を越えたところが尼崎市園田である。


尼崎市は兵庫県なのに大阪市と同じ06の市外局番を使うほど大阪から至近な上、無論、神戸にも至便な便利な街である。


一方で尼崎センタープール、いわゆるボートレース場や、昭和の初めに作られた園田競馬場があるなどディープな印象の街でもあった。


そのためなのか県下2位だった人口は、昭和30-40年代をピークに減少の一途をたどった。


しかし近年はその好立地が改めて見直され、マンション群や商業施設などが整備された。


そして平成20年には、37年振りに人口増加に転じ再び発展を遂げていた。


ところで阪神間を結ぶ鉄道は3本あり、いずれもが大阪駅(梅田駅)と三宮駅を並行してつないでいた。


(あながち偏見でもなく「柄の良さも人気も山から海へ下る」という暗黙が関西では定着していた。)


六甲山系の麓である山側が阪急、臨海工業地帯の海側が阪神で、その真ん中を貫くのがJRである。


そして、良子の家は阪急の園田駅だった。


だからどうという訳ではないが、阪急の響きが木村に少し安心感を与えたのは本音だった。


とはいえ、園田の駅前には特に際立つものがあるわけではなく静かな印象だった。


駅から良子の家へは、結構細い道をクネクネと10分ほど歩いた。


良子は木村とこの道を歩いた時のことを、遠い昔に感じていた。


そして、2度と戻ることはないと考えていた。


でも同時に、叶わないであろう木村との未来を想像せずにはいられないのであった。


吹っ切ろうと思えば思うほど、自分を騙すことが出来なかった。


その想いは誰も待つ人の居ない部屋にたどり着いた時には、尚更に募るのだった。




十一、




剛田との酒も醒めぬまま、酔って忘れたい心が家で飲む酒を捗らせた。


その必然として、翌朝重い頭で眠い目をこすりながら目覚めた木村だが、たちまち現実に引き戻された。


昔から朝食はほとんど食べない性質だったが二日酔いの体が欲したのだろうか、少し甘めの温かいミルクコーヒーを飲んだ。


木村の妻も仕事をしていたので一人で湯を沸かしてコーヒーを入れたのだった。


「ほな、行ってくるわ」


木村はそう言って、いつも通り妻よりも先に7時過ぎに出掛けた。


朝の通勤ラッシュはいずこも同じだが、京阪電車のそれも相当にひどかった。


そのお陰で物事を考える余裕もなかったので、一瞬だけはあのことを忘れた。


しかし、それも京橋駅までの束の間である。


京橋では大阪駅、つまり梅田駅に向かう客がJRに乗り換えるためにたくさん降車するので一気に乗客が減るのだった。


昨日、剛田に背中を押されたはずだったが、それでもまだ決心は出来ていなかった。


ただ、少なくともこのままでは破滅が時間の問題であることは理解するしかなかった。


「良ちゃんは木村さんのホンマの気持ちを聞きたいと思ってるんちゃうか」という剛田の言葉が頭から離れなかった。


だからこそ木村がやらなければならないこと…それは、


「良子に本心を話すこと」と


「妻を説得すること」だった。


優柔不断で小心者の木村にとってはどちらも勇気のいることだったが、とりわけ後者に至っては勇気も自信も全く持ち合わせていなかった。


そんなことは言わずと知れたことだが、後者が無ければ前者への躊躇など、無いに等しいのだから当然のことであった。


「まずは今日、良子に話そう」


と激しい通勤ラッシュの中で考えていた。


にもかかわらず情けないことに、


「時間が止まって欲しい」「逃げ出したい」


という気持ちは変わらなかった。


木村の頭の中では、電車を淀屋橋で降りて御堂筋を本町まで歩く間中も、ずっと「話そう」「いや無理だ」の循環思考がグルグルと音を立てて駆け巡っているのだった。




木村が勤めているオフィスは御堂筋沿いにある小さな雑居ビルだった。


御堂筋を挟んでちょうど真向かいに北御堂が見えた。


御堂筋の名の由来となった「お御堂さん」はこの北御堂とそこから300㍍ほど南に下がった南御堂の2つの寺院のことを指す。


文字通り御堂の入口に面した道であることから御堂筋となったらしい。


木村はいつも始業時刻の1時間以上前に出社するので、オフィスにはまだほとんど誰もいなかった。


オフィスといっても、実は20名程度の陣容なので、一目で見渡せるほどの広さである。


木村はいつものようにデスクでコーヒーを飲んでいたが、尚考えていた。


話すと言っても、よもや昨日の喫茶店というのはあり得ない。


それ以前にそもそも素面で話すことが出来るのか。


などと煮え切らないことばかりを尚考えていた。


良子を誘うにはオフィスが人で埋まる前に良子のデスクにそっとメモを置かなければならない。


ちらほらと出社してくる社員の声が聞こえ出してきて木村は焦った。


それでも決心がつかない。どこでどうやって話せばいいのか分からない。


そんな逡巡のままだったが、辛うじて『夕方6時にあの角で』とだけメモに書いた。


そして周りの目を少し気にしながら、良子のデスクマットにメモを挟んで仕事に取り掛かったのだった。




良子はいつも通り始業時刻の少し前に出社した。


「おはよう」と、ロッカールームで同僚の女の子たちとひとしきりのおしゃべりをしてから席についた。


それから、改めて給茶室でマイカップにお湯を注ぎ紅茶のティーパックを入れた。


昨日の喫茶店でもそうであったように、少なめの砂糖とミルクを入れてかき回した。


デスクに戻るところで木村が出社していることは分かったが、言葉を交わすことはおろか視線を向けることさえもしなかった。


総務担当をしていた良子は社内でいつも色々な人から話しかけられた。


この日も「⚫⚫保養所の空きってどうなってるのかな?」などと朝から聞かれていた。


秋の行楽シーズンでの福利厚生の受付に関する質問や手続きに追われていたのだった。


ひと段落してようやくデスクマットをめくった時には既にお昼前になっていた。


その時には木村は営業回りに出ていたが良子はそれには気づいていなかった。


折り畳んだメモを広げてみると、


「今日6時にあの角で待っているから来て欲しい」


と書いてあった。


それは、公然の事実になっているとも知らず2人がいつも待ち合わせていた場所だった。


そこは会社から僅か100㍍くらいしか離れていなかった。


でも地下鉄の入口を通り過ぎた先ということで、意外に会社の人間と鉢合うことがなかった。


「良子、今晩なんか予定ある?ご飯でも行かへん?」


隣の席の京子が話し掛けてきた。


京子とは同い年ということもあり、ちょくちょく会社帰りにお茶やご飯に行った。


良子とは違って少し派手目の京子とはなぜか気があった。


タイプの違いこそあれど、それはまるで木村と剛田のようだった。


磁石と同じように、人もプラスとマイナスは引きつけ合うのかなと良子はぼんやり思ったりした。


「京子、ゴメン。今日はちょっと予定があるんよ」


木村が剛田に打ち明けているように、良子も誰かに聞いてもらいたかった。


そしてそれはやはり京子しかいなかったので、本当ならすぐにでも話したいと気は早った。


しかし今日、木村と会ってからの方が良いような気がして京子の誘いを断った。


木村と会って状況が変わるとイヤだったからだ。


「ホンマぁ、ほなまた今度やね。でもその時には話せるように心の準備しときや」


京子は、まさに良子の心の内を見透かしているかのようにそう言った。


「何のこと?」ととぼけようとも思ったが、「京子、ありがとう」と良子は素直に返した。


その時、京子の優しい言葉に、胸の熱さが喉を伝って涙腺にまで上がってきそうになったが、口を真一文字に結んでようやくこらえた良子だった。


定時で仕事を上がったら、6時の待ち合わせまで中途半端に時間があったので、近くの本屋に行った。


これまでは旅行やファッション雑誌しか見なかった良子だが、なぜか無意識に「からだの健康」コーナーに足が向いていた。


そうして何のアテも頼りもない中で、半ば現実から目を背けるように、産むことへの意を強くしていた良子だった。


6時ちょうどに良子が待ち合わせ場所に行くとすでに木村の姿があった。


まだまだ携帯電話が普及していない頃だったが、仕事の関係上、会社から携帯を持たされていた木村はまさに電話の真っ最中だった。電話をしながらしきりに頭を下げていた木村は、近づいてきた良子の姿を認めた。


そして尚更に頭を下げたと思ったら、右手で手刀を切るように良子にゴメンと言った。


2人で並んでいると誰かに見られそうだったので、良子は少し離れた所で木村の電話が終わるのを待っていた。


「ゴメン、ゴメンお待たせ。⚫⚫さんホンマに長いんやわ」


電話を切って慌てて走ってきたのか、少し息を弾ませながら木村が言った。


良子は頷いただけで何も言わず、会社とは逆の南の方に向かって歩き出した。


良子よりも頭一つ分も背の高い木村が後ろからついていく。


誘っておきながら木村はこれといったプランを決めていなかった。


すると、いつものように今になってどうしようかと思案しているのだった。


それでも少し歩いて中央大通りを越えると、お店が立ち並ぶエリアになったので、チェーン系の二毛作のお店に入った。


「昨日はゴメン、ホンマに悪かった」


運ばれてきたビールに口をつける前に木村は言った。


しかし、今日は良子が何も言わない順番のようだった。


そして、コーヒーが苦手でアルコールはさらに受け付けない体質の良子は、今日も紅茶を注文していた。




十二、




時は1983年頃、長かった昭和も終わりに近づいていた昭和58年頃である。


演歌、歌謡曲からポップスに流れてきた日本のアーティストに加え海外の音楽が聞かれるようになっていた頃である。


無論それまでも、古くはプレスリーやビートルズをはじめいわゆる洋楽はあった。


ただそれはどちらかというとあくまでもコアな人達のマニアックなもののように思われた。


しかし、それを日本人汎用にしたのがマイケル・ジャクソンだった。


一世を風靡した「スリラー」は世界的な大ヒットとなったが、この日本でも耳にしない日がないほど流行っていた。


マイケル・ジャクソンは美声に加えてその踊りが観る者を虜にしたが、同時にプロモーションビデオという新しい文化を音楽の世界に産み出した。


誰も彼もがそれを真似たので、踊りなどまるでからきしだった木村でさえも興じたほどだった。




さてこの年の春、木村は大学に入った。


しかし、それは本人の意志とは程遠いものだった。


こともあろうに、中学校にも通えなかった両親の念願を叶えるために進学したのだと、身勝手に考えていた。


当然、目標や目的があるわけではないので、せっかくの大学生活をだらだらとスタートさせていた。


ただ、そんな中でも少し熱心だったのはアルバイトだった。


高校時代にもバイトをしている同級生は結構いたが、父親が怖かった木村はほとんどバイトも出来なかった。


「なんで高校生がバイトなんかする必要があるんや」という父親の考えに逆らえなかったのだった。


かといって部活に打ち込んでいるのかと思いきや、幽霊部員となってサボりまくる。


そして間違っても勉強などするはずもなく、常に怠惰な生活を送っていた。


父親には反抗出来ないそのくせ、一人前に遊ぶ金は欲しかった。


遊ぶといっても、てんで度胸など無いわけだから、ディスコやライブハウスなどに出入りしている同級生を羨ましいとは思っても真似など出来ない。


くわえタバコのパチンコで悪ぶって見せるのがせいぜいだった。


それでも高校2年のときに初めてバイトをやった。父親が許したバイト、それは新聞配達だった。しかも朝刊である。


自分は好き放題だが子供たちには厳しかった父親が、夜のバイトを許すなど無かったからだった。


さて、その新聞舗は家から3㌔程度のところにあった。距離にしたらさほどでもない道のりを木村は自転車で通った。


ところで木村の住んでいた辺りは香里ヶ丘という名前だけあって相当に起伏の激しいところだった。


かつて戦前にはその丘陵を生かした火薬工場があり、一時は日本最大とも言われたほどだった。


戦後、火薬工場は取り壊されたが、再び戦争をしない平和のシンボルとして丘の上に高さ19.9㍍にも及ぶ煙突が建てられた。


そんな木村たちが子供のころ「煙突山」と呼んで遊んでいた丘を越えて、高校時代の木村は新聞舗に通ったのだった。


家から新聞舗までの3㌔の道中には、ほとんど平地がないと言っても大袈裟ではないくらいだった。


当然、自転車ではなくバイクであれば楽なのは言うまでもなかった。


実際に同級生の多くはバイクの免許を取り、当時爆発的に普及したスクーターを乗り回していた。中には250や400の中型を操っている者もいた。


しかしそれも、木村の父親が免許を取ることを許さず叶わなかった。ついでに言うと、その自転車さえも中古のオンボロなのだった。




早起きが得意という奇特な高校生は少ないと思うが、木村は毎朝4時過ぎに起きて自転車で坂を上った。


と言っても最初のうちはなかなか起きられず、母親がたびたび起こしてくれた。


さすがに1ヶ月も経つと一人で起きれるようになったが、それでも毎朝は辛かった。


だから、何せ待ち遠しいのは休刊日だった。


ところで、休刊日は何日に一度あるのかご存知だろうか?それは2ヶ月に一度である。


ちなみに夕刊は毎週日曜日が休みなので、休刊日の嬉しさということで言えば朝刊はひとしおだった。って思っていた。


しかし人間というイキモノはつくづく身勝手なものである。


新聞を配る方からすれば何とも待ち遠しい休刊日であっても、受け取る側の印象は「よう休むなぁ」なのだった。


それはさておき、生来が小心者の木村はそれでも毎朝休まずに通った。


しかし、しばらく頑張ればそのうち慣れるだろうという期待は見事に裏切られ一向に慣れなかった。


毎朝起きるのは本当に辛かったが、さらに起き抜けの寝ぼけ眼(まなこ)での急坂は堪えた。


それでもまだ、季節の良いときは多少は救われた。


例えば、夏場なら朝4時過ぎには東の空が白み始め、清々しい感じさえあった。


しかし反対に冬場は辛かった。


夜明けが遅い師走ともなれば、約200軒の受け持ちを配り終える6時半頃でもまだ薄暗く、夜明け前の寒さには手がかじかんで涙がちょちょ切れた。


雨や雪に降られた日などは何をかいわんや、それは修行以外の何ものでもなかった。


冷える体も顧みず、ただただ新聞を濡らさぬように配ったものだった。


その中でも極めつけにしんどかったのが学校の定期試験期間だった。


勉強嫌いは誰にも負けないと胸を張れるほどの木村でも、さすがに試験前くらいは勉強の真似事をした。


当時はちょうど、いわゆる深夜ラジオを相棒に勉強するのが流行っていた時代だった。


いつもは11時頃に床に就かなければならなかった木村だったが、この時ばかりはと深夜ラジオとともに徹夜をしたのだった。


まあ、結局、ラジオを聴くだけで勉強はほとんど捗らなかったのは言うまでもないのだが…


しかし徹夜で新聞配達に試験とは、さすがにしんどかった。


それでも、中途半端に悪ぶっていた木村には新聞配達をやっているなどと友達に言えなかった。


真面目で勤勉など、その頃の木村の価値観には決してあり得ず、ましてや自転車をこいでなどという恥ずかしさは何をかいわんやだった。


ちなみに、そんな新聞配達のバイト料は月3万5千円であった。


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