六 無防備なラッシュ氏、街を彷徨う

 だが、喉を掻き切られずに済むならば、それに越したことはない。

 本当にそうか?

 今日でなければ、明日かもしれない、明日も生き延びたら、明後日と、彼が死ぬまで続くのだ。二十五年もそのような生活を送って来て、この先もまだ二十五年かそれ以上続くのだとしたら。

 サーモンピンクの唇をしたウェイトレス――彼の娘でもおかしくない年齢だ――に勧められて、嫌いなサーモンを食べて旨いと感じて敗北と背徳感を認めたこんな日であれば、死ぬのも悪くないと思うのだ。


 いや、思わない。

 いや、思う。


 最後にミーナを抱くことさえできれば。

 果たして、そんなことでいいのだろうか。二十五年の逃亡生活の果てに疲れ果てて自ら首を差し出したい気持ちになった男の最期の願いが、若い女をもう一度抱きたいというのは、あまりにも――

 あまりにも、なんだ、と彼は呟く。

 虚構の登場人物が夢に見た情景が不敬だ冒涜だと非難されて、彼は死刑宣告を受けた。あまりにも馬鹿々々しいとか、安直だとか、下品だとかいうなら、こっちはどうなのだ。彼の生命の扱いは、あまりにも――

 なんだ。あまりにも、なんだというのだ。歴史を見れば、人類は宗教の名の下に夥しい血を流して来た。怪しげな魔術を使ったという言いがかりでも人はころころと処刑されたのだ。そこに「異端」の烙印を押された彼のささやかな血が加わったところで、今更なんだというのだ。

 つまらない理由でつまらない死に方をする彼がつまらないものを最期に望んだとして、それが一体なんだと。

 直射日光をほぼ真上から受けて彼は汗ばんでいた。上着をぬいでもいいぐらいだ。

 彼は人混みから脱出しようと、横断歩道を渡った。対岸も同様に混雑しているが、彼は静かな路地裏に出る経路を知っている。

 大通りを外れて路地に入ると、カフェやレストランの数が減り、人通りも激減する。とはいえ、ランチアワーである。人の往来は絶えないし、一方通行の細い道を車が次から次と通過していく。

 既に二十五年も経っていることですし、と彼は伝えられた。二十四時間警護には莫大な経費がかかる。そういうわけで、と。

 なにが、そういうわけで、だ。

 テロリストとの闘いVS経費、国家の面子VS対選挙効果。とにかく、もうこれ以上は、と彼は宣告を受け、たった一人でこの恐ろしい世界に放り出された。ほんの二週間前のことだ。

 これで自由にドラッグも女も買えるわけだ、などとは当然考えられなかった。もうドラッグや女に明け暮れるような年齢でもないのだし。特に若い女が好きなわけでもなかった。

 彼は随分久しぶりに、妻に、いや、彼の元妻、最初の妻に電話をしてみようかという気になった。離婚したとはいえ、彼らは今でも友人、のはずだった。

 やあ、久しぶり。どうしてた。二番目の旦那さんとはよろしくやっているかい。ブラーブラーブラーブラー、ところで、こっちの警察がさ、もう二十四時間の警護はつけられないってさ。ははっ。

 あらまあ、サリー、と電話の向こうで彼女は言うだろう。あらまあ、サリー。

 いやまあ、本当にまいったよ。

 だが彼は彼女に電話をしていない。何故しないのか、理由は定かではない。そもそも、何故彼女に電話をしたくなったのかがわからない。あの腹のたるんだ娼婦――いや、売春婦ではなかったのだが――が彼女を思い出させたのか。

 彼が最初の妻と離婚した時、彼女はまだ三十八歳だった。二十八歳からの十年間を彼との逃亡生活に費やしてくれた彼女は、四十路が近くなって少し肉付きがよくなってはいたが、肉感的になり、かえって魅力が増したぐらいだった。

 彼の方が七つ年上で四十五歳。彼には女性が必要で、妻以外の女に目移りすることがなかったとは言えないが、なにしろ二十四時間監視下に置かれている状況であったし、妻が居ればそれなりに満たされていた。

 現在は五十をいくつか過ぎた彼女は、年齢を重ねた美しさを保っているだろうか。

 彼女には彼の連絡先を教えていない。その方がお互いに安全だからだ。

 だが、彼は彼女の連絡先を知っており、彼女が彼に連絡を取りたいと思えばエージェントか出版社を経由すればよかった。だが、お互いそうはしなかった。彼女からは、毎年クリスマスカードが出版社経由で届いていた。彼と別れてから二年後に再婚したこと、今は二児の母であることも知っていた。二人が友達であるのなら、別に電話ぐらいしたって、構わないはずだ。彼の携帯は使い捨てで、番号は常に非表示でかけるようにしている。

 それでも

 彼は結局元妻には電話をしない。いずれ知ることになるとはいえ、余計な心配をさせたくないし。

 あなたのファンなんです、と彼女は言った。大学院生だったが、クリエイティブ・ライティングの学生ではなかったし、彼の名前を間違えたりしなかった。彼は現在より二十キロほど痩せていて、ハンサムだった。彼女は二十代前半の若さだった。

 最初はカフェでコーヒーをご馳走し、それから食事へ。その後彼女が友人達とシェアしているフラットに招かれて結ばれた。勿論、金を支払う必要はなかった。

 この近くに住んでいるの。レストランを出て二人で夜の町を歩いている時に彼女がそう言った。寄っていく? 

 お互い若かった、と彼は思う。彼もまだ三十代の初めだったのだし。

 携帯電話が鳴った。友人からだった。騒動の最初に自分の別荘を隠れ家として提供してくれた友だ。短い近況報告――彼の方は現時点では執筆をしていないから、それはごく短く終わる――の後、友が久しぶりの連絡の要点を告げる

「XXXが亡くなったんだ」

「なんだって? いつ?」

「一昨日だ。心筋梗塞だそうだ」

 それはよかった、という言葉を彼は危うく呑み込んだ。テロリストに喉首をかき切られたのではなくて、本当によかった、と危うく口に出すところだった。XXXは電話をかけてきた友と彼の共通の友人で、件の小説の出版にかかわってはいなかったが、彼に対する死刑宣告を非難する声明を作家有志が共同で発表した際には名を連ねていた。

 それはよかった、と彼は内心で思いながら、XXXの奥さんにお悔やみを伝えるように友に依頼すると

「ああ、なんだ。君は知らなかったのか。二人は離婚したんだよ」

「それは知らなかった。いつ?」

「もうかれこれ、三年……いや、もっとかな。よくある、熟年円満離婚というやつだ」

「それじゃあ、独身に戻ってはめを外し過ぎたのか?」

「そんなに派手に遊び回っていたわけじゃない。XXXだってもう若くはないからね。まあ、老いが理由だよ。若い時は相当無茶な生活をしていたんだし。そのツケが回って来た、ってところかな」

「耳が痛いな」

「君は、大丈夫なのか」

 そう友から問われて、出版社から聞いたのかな、と彼は思う。まだニュースにはなっていないはずだった。

「まあ、なんとか。もう昔ほど生命に執着する気持ちはなくなったし、今は一人だからね。今だって、一人で街を散策中さ。すこぶる快適だよ。もう、ドラッグでも女でもやりたい放題なんだからな」

「おいおい、やけっぱちになるなよ。なんなら、またしばらく家の別荘に居ればいい。長らくこっちには帰ってないだろう」

「それはありがたいが……もうしばらくこっちで監視付きじゃなくなった自由を満喫することにするよ」

 友は笑って、「元気でな」といういつもの結びの言葉と共に電話を切った。彼が招待を受けなかったことに胸を撫で下ろしているのだろうか、と彼は考える。それとも、彼同様に、二十五年も経ったので、友の警戒心も萎えてしまっただろうか。


 まずいことになった、と彼のエージェントは言った。


 電話越しでも、相手の青ざめた顔が見えるような、震えを隠そうとしてあまり成功していない、声。まずいことになった。また翻訳者が襲われて、今回は助からなかった。

 いつ、どこ(どの国)で。

 下っ腹の辺りを急速冷却されたみたいな感覚、その冷たさは素早く彼の全身に広がっていった。

 そのはるか遠い異国の翻訳者とは、電話で話をしたことがあった。件の小説についてメールで何度かやりとりもした。確か大学教授だったはずだ。

 大学の研究室で、発見されたそうだ。夜襲われたらしい。犯人はまだ捕まっていない。君も十分注意してくれ。彼のエージェントはそう締めくくった。

 その時彼には二十四時間の警護がつけられていたから、危険なのはむしろそれほど手厚い保護を受けていない彼のエージェントも含めた関係者達の方だった。死刑宣告は、彼の作品の出版に携わった者全員が対象だった。

 彼も彼のエージェントも、死人が出て初めて思い知ったのだ。連中は本気だと。

 不幸にも命を落とした異国の翻訳者は、この凶事以前にも彼の著作の出版に関する記者会見で襲われたことがあった。その時はしかし、テロリストは警備の者に取り押さえられて被害者はなかった。

 彼はニュースで事件を知り、その大学教授である翻訳者に労いのメールを送った。教授は、で言論・表現の自由を軽んじる連中に屈することはできません、と返信を寄越したのだった。

 これしきとは――?

 表現の自由があれば、本を焼く自由もあるわけで、本を読まない自由とか、読まないで焼く自由も。勿論信仰の自由だって当然にある。だが、異教徒は漏れなく殺せとか、こちらの信仰を侮辱した輩には最も残酷な死をと言い放ち、それを実際に行動に移す権利は。

 あちらはあると言い、こちらはないと言う。

 永遠に相容れない問答だが、この二十一世紀のグローバル化の進む社会では、折り合いをつける努力はしなければならない。陸の孤島をこしらえてそこに自分達だけの国を建てることは最早不可能な時代なのである。

 だが、そんな理屈は、飛行機をハイジャックして自爆テロを行うタイプには通用しない。拷問を受ければ悪態をつきながら死んでいくことを選ぶであろう彼らに説得を試みても無駄なこと。

 道路を横切ろうとして、クラクションを鳴らされ、彼は我に返った。鼻先――というよりは突き出た腹の先をかすめるようにして車が通過していった。

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