五 サーモン・ラッシュさんですよね

 彼は向かいの席にかけた上着を取り上げ、袖を通した。通りの向こう側で彼を監視していた男は姿を消していた。


 いや、監視などしていなかった。

 いや、していた。


 彼はカフェのテラス席から、通りに一歩、二歩と踏み出した。

 君はいくらかね、とは、とんだ失言だった。彼女を買うとしたら一体いくらかと考えていたら、そのまま口に出してしまった。いやまったく、恥ずべき失態だ。想像するだけなら罪にはならない、はずだった。まだこの世界にも、密かに妄想を楽しむ権利は残されているはずだ。


 いや、そんなものはない。

 いや、ある。


 老いるというのは悲しいものだ、と彼は思う。

 二十五年前の彼は、飛ぶ鳥を落とす勢いの小説家だった。女の衣服を彼が剥ぎ取り、いや、女が自ら着ている物を引き裂くように脱ぎ、彼が彼女の唇の間に舌を差し込み、いや、彼女が彼のベルトを抜き取り下着諸共ズボンを膝まで引き下ろし、バランスを失った彼を彼女が突き飛ばしてベッドに寝転がし、いや、彼が彼女を抱き上げて(あの肉付きのよい女性を?)そのままベッドに倒れ込み、お食事はいかがでしたか、と彼女が言い、君はいくらかね、と彼が訊いた。

 彼女はサーモンピンクの唇で彼のものを咥え、舐めまわし、彼の上に馬乗りになり、彼に乳房を鷲掴みにされて、大きくのけぞる。しなかやでみずみずしい肌だ。彼は彼女の腰を掴んで下から突き上げ、更に深くまで押し入ろうとする。いや、全く張りのない、弛んで段々になった肉がぶるぶる震えるのを、恐れと嫌悪でまだらになった感情を抑えて見つめ、それでも快楽が高まっていくのは抑えきれず、そういえばまだ料金を聞いていないし支払ってもいないことを思い出し、相場はいくらぐらいだろうかと考えている。以前のような情熱や創作意欲はないにしろ、現在でも彼は執筆活動を続けており、それなりに本は売れているので生活に困窮している訳ではない。ただ、金額で、彼女の「知り合い」の男などが登場すると厄介だと思う。そうなると、言い値を支払うしかない。彼の上に乗り、下っ腹をぶるぶる揺らして獣染みた唸り声を上げ続ける女に。

 更に一歩踏み出そうとした彼の腕を誰かが背後から捕え、引き止めた。すぐ鼻の先を自転車が通り過ぎていき、心臓が縮みあがる思いを味わった。

 振り向くとサーモンピングの口紅のウェイトレスが白すぎる歯を見せて笑っていた。きれいに整った眉を僅かにしかめながら、危ないですよ、ラッシュさん。お気を付けください。と彼女は言った。

 やあ、これは。彼は顔を赤らめる。危ないところだった。お陰で助かったよ。君は――

 ミーナです。よい一日を、ラッシュさん。彼女はウインクをして、薄暗い店内に戻っていった。

 君はいくらかね、と訊きたい気持ちを堪え、彼は慎重に歩道を歩き出す。二十五年間刺客から逃げ延びたというのに、自転車に轢かれて果てたのではお笑い草だ。

 いや、先程の自転車が刺客ではないとなぜ言い切れるのか。死刑宣告は今も有効だと多くの者が思っている。

 正午を迎えんとする大通りは眩しいぐらいの光に満ちている。彼は帽子を忘れてきたことをまた後悔した。ホテルの部屋に、あるはずだ。いやそれとも、被って出たのに散歩の途中でなくしたか? あのカフェに到着した時点では、既に被っていなかった。

 直射日光に頭頂をじりじりと焼かれる感覚。

 朝晩はことのほか冷えるようになってきたので、既に分厚いロングコートに身を包んだ人が彼とすれ違っていくが、比較的厚い脂肪に守られた彼は、まだ夏物の薄手のジャケットを着ていた。風が少し冷たいが、歩いていればじきに汗ばんでくる。

 彼は歩行中も絶えず左右を窺っているが、残念ながら後頭部に目はついていないので、背後から襲われた場合は諦めるしかない。正面から堂々と来られた場合でも、護身術に長けている訳ではないから、多分やられる。あちらはなにしろ、信仰のためなら自分の命を犠牲にすることも厭わないデスパレートな連中だから。

 彼にはもはや、何が何でも生き延びたいという意欲はない。


 いや、ある。

 いや、ない。


 いや、そんなことを言っても、いざとなったらじたばたと見苦しく醜態をさらすはずだ。

 それはそうだろう、と彼は思う。これから喉首をかき切られようという時に平然と顎を上げて首を前に差し出すことができる輩がこの世にどのくらいいるものか。死ぬこと自体は別に構わない(いや、構う)。だが、苦しむのは嫌だ。恐ろしい思いをするのも。

 彼は悪趣味にも、中東でテロリストに捕らえられたジャーナリストが鉈で喉首をかき切られる公開処刑の配信映像を見たことがある。それは、十三歳から旧宗主国の寄宿学校で教育を受けた彼には到底信じられない野蛮な光景だった。長年にわたり植民地の人々を奴隷として苦しめたくせに、被植民地であるところの旧帝国は、野蛮だからと、さっさと死刑を廃止していた。それはそうだろう。彼らの想定では死刑の対象は同胞、彼らと同じ皮膚の色をした犯罪者であり、植民地からやって来た移民ではないのだから、残虐だ、非人道的だといって極刑を廃止するのはそう難しいことではなかっただろう。

 彼は真昼の太陽に照らし出された大通りを眺めた。

 ほぼ正午である。人通りも車の通りも激しい。スーツ姿の男性、ハイヒールの女性、ジョギング中の男、バイクで車の間をすり抜けていく男、犬を連れた女、子供の手を引いた年配の女性、立ち止まっている彼に少し眉をしかめたり、表情を全く変えなかったり、肩がぶつかって「失礼」と言ったりしながら、通り過ぎていく。ホットドック売り、ニューススタンド、サンドイッチ売り、チラシを配る者、それを無視して通過する者、受け取る者。街は活気に満ちており、彼らは腹をすかせた群衆、その中に満腹の彼が居ても居なくても、世界は何の問題もなく継続していく。


「サーモン・ラッシュさんですよね」


 彼は声のした方に振り向きもしないで「違います」と答えて歩き出した。おしいけどね、と心の中で付け足しながら。概ね合っているんだけど。サーモンではないから。

 彼の著作など恐らく一冊も読んだことのない自称ファンに笑顔で対応できるほどもう若くないのだ、と思う。こちらの名前も正確に覚えていないくせに妙に馴れ馴れしく、とにかく有名人と握手し、一緒に写真を撮り、SNSにアップしたがる輩。

 ハッシュタグ(#)サーモン・ラッシュ

 誰なんだそれは。

 彼のことではない。彼の名前はサーモンではないから。だが、彼のことを「サーモン・ラッシュ」と認識している人間は確実にいるのだから、位置情報付きで「彼」の写真をアップされるのは非常に困る。二十五年の苦労が、彼が誰だかわかっていない名前も碌に覚えちゃいない粗忽で無礼な若者のせいで、瞬時に崩れるのは。それならなにも、離婚することはなかったし、更にもう一回懲りずに結婚し、また離婚することもなかった。


 いや、離婚はどの道発生した。

 いや、しなかった。


 彼は浮気者だったし、妻だって――彼が「妻」と呼ぶのは大抵最初の妻だ――彼の知らぬところでは何かしらあったのではないか。女は男よりも隠し事がうまい。だったら、彼は妻の浮気には気付かないが、彼女がお互い様だと彼の不貞を黙認すれば、夫婦生活は今も続いていた可能性が。


 いや、ない。

 いやいやいやいや――


 今一つ実感の湧かない死刑宣告よりも、より大きなダメージを彼に与えた妻からの絶縁状。

 サリー(と彼女は彼を呼んでいた)、私、いよいよもう駄目みたい。彼の妻はそう言った。

 あの時彼は、感傷的な言い方をすれば、彼の一部は、確実に死んだ。離婚を宣告されるならば、あのサーモンピンクの唇をしたウェイトレスのような、クリエイティブ・ライティング・コースの大学院生の若い肉体にのめり込んで、散々楽しんだせいとか、そういういかにもありふれた理由であろうと彼は思っていた。

 それなのに、刺客の襲撃を恐れ二十四時間武装警官に警護される生活に疲れ果てたからなんて、そんな非現実的な理由で妻は去っていった。まるで質の悪い冗談みたいではないか。


 サーモン・ラッシュさんですよね。


 彼が自転車に轢かれるのを防いだあのウェイトレスも、彼のファーストネームをサーモンだと思っているのだろうか(だからサーモンを勧めたのか?)。いや、そもそもファーストネームなど知らず、ただミスター・ラッシュ(ラッシュさん)と認識しているのか。そういえば、そもそもなぜ彼の名前を知っていたのか。

 ミーナです。よい一日を、ラッシュさん。と彼女は彼にウインクをした。

 ミーナ。彼女はいつ・なぜ・どこで彼の名を?

 何を飲んでるの。同じものをいただいていいかしら。ミーナはカウンターで飲んでいた彼の隣に座って言った。


 いや、言わない。

 いや、言った。


 君はいくらなの、と彼は訊いた。


 いや、訊かない。

 いや、訊いた。


 こんなにも眩しい太陽の下で喉首をかき切られて派手に血をまき散らしながら死ぬのだとしたら、最後に思い出すのは下から見上げたぶるぶる震える下っ腹や弛んだ乳房ではなく、引き締まった弾力のある腰と、重力に逆らう活力を持つ若い女の方がいい。

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